株式会社ジャパンウーマンソサエティ
代表取締役社長
よこやま内科小児科クリニック
理事
横山実代 氏
2018.10.30
◆業種
医療・女性支援
◆子供のころになりたかったものは?
とくになかった。
あまり自主性がなかった。
幼稚園や小中高の卒業文集に載せる「なりたいもの」も母に聞いて答えていたため、自分で何かになりたいと考えたことがあまりなく、母を喜ばせるために生きていた。
大学は薬学部に進学したが、高校生の時、進路について母に相談したら「薬剤師とか国家資格を持つことがこれからの時代において大切よ」と言われたので、母の言うとおりにした。
結果的には(今となっては)母のアドバイスを素直に聞いていて良かったと思っている。
幼いころから、ずっと「お利口さん」ないい子で、反抗期らしい反抗期もあまりなかった。
比較的自由に育てられた。
祖母も一緒に暮らしていたので、近所づきあいなどからコミュニケーション能力が養われた。
父方にとっても母方にとっても私は初孫だったので、親戚中の皆から、たくさん愛されて育った。
愛情たっぷりに育ててもらったので、今は恩返しをしたいと思っている。
父や母、祖母をはじめ、たくさんの人のおかげで今の私が存在しているので、できることから少しずつ恩返しをしている。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
ラジオ体操、お掃除、神道の祝詞、仏壇のご飯と般若心経など朝起きて、一番にする。
朝食が取れなくても、必ずこれらをしてから出かけている。
お祈りは、3年くらいまえに瞑想を学んでから始めた。
感謝。
ありがとうの言葉をなるべくたくさん使うようにしている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
人生において一番刺激を与えてくれた人は義母(夫の母)。
義母との出会いから私は変わり、今の私が存在している。
主人との結婚が決まり、初めて挨拶に伺ったとき、座布団にあてさせてもらえない状態で2時間、正座したまま、なぜかお説教された。
義母は結婚に反対だったと今振り返ると思う。
義母は呉服屋のお嬢様出身で、開業医の奥様をしていたが、義父が亡き後、一人でクリニックを支えなくてはならず、必死だったようだ。
私は反対されながらの結婚はどうかと思ったが、主人は私との結婚を望んでいたので、そのまま結婚した。
当時の私は未熟者で、義母にとっての結婚の意味も、開業医に嫁ぐということの意味も何もわかっていなかった。
結婚式の翌日からのクリニックを手伝い始めたが、それまで手伝っていた義母と義姉は結婚式の1ケ月前に退職し、クリニックを完全に手放した。
何の引継ぎもなく、どうしたらよいのかわからず、とても困惑した。
当時引き継いだクリニックはほぼ赤字だったし、その時は、ひどい嫌がらせだと思っていたが、今は良かったと思っている。
引き継いだ後の私はクリニックの経営を立て直すために、勉強し、改革を実行したが、それについて義母に何の相談もすることなくスムーズに実行できた。
おかげでクリニックは早々に立て直った。
夫のもとに嫁ぎ、初めての妊娠、初めての出産、まったく知り合いもいない地域に来て不安だらけの時もあったし、「何で私ばかりこんな大変な思いをするのだろう」と考えさせられることもあったが、今はすべての経験に感謝できるようになった。
思い返すと、義母の存在が今の私を育ててくれた。
義母に感謝できるようになるまでは、義母が怖くて会うのが嫌だった。(今でも会うのは好まない。)
でも、義母にとても感謝をしている。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「物事は自分の心・捉え方次第」
人と過去は変えられないが、自分と未来は変えることができる。
他人を変えることはできないし、起こってしまった事柄を、無かったことにはできないけれど、自分自身の気持ちを切り換えることで、物事の捉え方を変えると、心が軽くなることを知った。
これを機に、さらにプラス思考になり、プラス言葉が自然に使えるようになった。
自分を変えるきっかけは、『気づくこと』だけだ。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
義母との出会い=結婚
結婚してすぐのころは、いろいろ悩み、自暴自棄なったり、自己否定したりしたが、救いを求めて、たくさんの本を読み、たくさんのセミナーに参加した。
その中にはクリニック経営に関することから心理学、哲学なども学んだ。
開業医の主たる収入は、患者さんが支払う医療費と税金。
開業医が得る診療報酬は2年ごとに改定されているが、ニュースで流れる改定率は数字のマジックで、実質はここ10年で約10%以上下がっている。
更に診療報酬の改定が1年毎になろうとしている。
クリニックを開業する医師は、自分の志した医療を患者さんに提供したいという思いで開業するが、その理想だけでは資金繰りがなかなかついてこないのが現実。
開業医に経営や売り上げのことを考えさせると、患者さん一人当たりの単価を上げるために、必要のない薬や検査を増やすことになりかねない。
それは結果的にあまりよくないこと。
そんな余計なことを考えさせないためにも、私が経営を受け持つのがいいと考え、実行した。
経営者としての学びは、私を人として大きく成長させてくれた。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
赤字クリニックの立て直しが大変だった。
クリニックの経営改善で大切にしたのは相手の立場になって考えること。
「自分がかかるならどんなクリニックがいいか?」
「自分ならどんな職場で働きたいか?」
を考えた。
患者さん目線での、サービス提供やスタッフ目線での職場環境整備をした。
例を挙げると、患者さんのためには、クリニックの移転後、雨の日でも濡れないように屋根付き駐車場を整備した。
また、自宅からでも順番が取れて、クリニックで待たなくてもいいようにネット予約のシステムを入れた。
スタッフのためには、子育てママたちのために、週に1回手作りのお惣菜をもって帰られる日を設けている。
お金を支給するとどうしてもお惣菜を買って帰るようになってしまうので、健康にあまりよくない。
料理上手なママに、自分の子供につくるようなお惣菜を交代でつくってもらっている。
もちろん、有給で。
スタッフには給与とは別の部分での、職場従属の満足を持ってもらいたい。
スタッフにここで働いていて良かったと思ってもらえるよう心掛けている。
ハード面の改革として、2代目院長の夫と古かった建物をどうしようかと考えた末、クリニックを移転開業した。
さらに、色々と改革したおかげで患者さんの数は3~4倍になり、移転の2年後には法人化できた。
余談だが、私たちのクリニックはなぜかスタッフの妊娠率が高い。
入職すると、皆、妊娠する。
2005年頃、クリニックを立て直した話、失敗談などを話してほしいと講師の依頼を受けるようになった。
その後、私と同じ立場の女性を対象にボランティアで相談会や交流会を開くようになった。
参加人数が多くなり、私一人では賄えなくなったのでスタッフさんをお願いすることにし、スタッフさんまで無給という訳にはいかず会社をつくった。
◆夢は?
先日、父を亡くした経験から気づいたこと。
人は死ぬその瞬間まで、誰かに何か影響を与えられるということ。
たとえベッドに横たわり、何もしゃべることができずとも、誰かに強い衝撃のようなものを与えられることを体験した。
まさに人の生き様を、死ぬその瞬間に、その姿をもってみせてくれた。
最後に父から素晴らしい学びをもらったと感じた。
私はあんな素晴らしい死に様ができるだろうか、と自問自答するようになった。
私たちは医療従事者だが、人がいつ死ぬかわからない。
いくら医療が発達しても、科学が発達しても、確実に分かるようにはならないと思う。
分かることは、今、私は生きているということ。
「今、この一瞬」の積み重ねが、人生であり、未来につながっているのだと思う。
誰しも、いつどの瞬間に命が尽きるのかはわからないので、私は、この「今、一瞬」を大切に生きたいと思っている。
「横山さんのあの一言で、とても救われた。今は楽になった」
と言われたとき、何ものにも変えがたい喜びを感じた。
今を有効に生きるために、少しでも多くの人たちのお役に立ちたいと思っている。
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