ゆびきりげんまん
代表
大野幸一 氏
2017.9.16
◆業種
ネットショップコンサルタント
◆子供のころになりたかったものは?
歴史に残る人物
中学1年の時、社会の時間。
歴代の武将のように、歴史に残る人物になりたい!と思った。
世の中に影響力のある人になりたい!という思いは、今も変わらない。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
2つある。
1、血圧を測り、薬を飲むこと
2年前に突然大動脈解離を起こし、心臓近く、左肩から腹部まで血管が裂けてしまった。
そのときは、突然、背中をバットで殴られたような衝撃だった。
緊急の場合でも救急車を呼べば、病院の選定に時間がかかることを知っていたので、すぐにくる近所のタクシーを呼び病院(緊急外来)へ向かった。
今、思い返すと・・・ 運が良かったことがたくさん重なって助かった。
1、両親と次女が在宅中に病気が発症し対応してくれたこと
2、タクシーの運転手さんが、地元の自分たちでも知らない病院までの近道を知っていたこと。(後数分遅かったら助からなかったかもしれない)
3、病院に到着したとき、血管、循環器外科の先生が帰ろうとしていたが、ギリギリ間に合ったこと。(救急車と呼んでいたら助からなかったかもしれない、しかも、当直医だけでは対応できなかったと。)
4、裂けた血管の中で血が流れる新しい道が出来て手術をしないで、無事に済んだこと。
今、こうして手足が動き、何ごともなく話せていることが本当に有難く、感謝しかない!
大動脈解離は、血管のひどい裂け方によっては癌より死亡確率の高い大病と言われている中、ICUに20日間、一般病棟1ヶ月半という、立てない状況からリハビリを毎日続け、どうにか生還できた。
前兆もなく突然となぜ、このような病気になってしまったのか?と思ったが、医者の話を聞けば聞く程、それまでの不摂生な生活習慣が招いたことだとわかった。
不眠、酒、たばこ、血圧は、20代の頃から上が150~180、下が110以上もあった。
20代のとき、医者から、「一生飲み続けなければならないが、一日一粒か二粒だから血圧を下げる薬を飲むように・・・」と言われたが、一生なんていやだ!と思い、薬を飲まなかったことも原因の1つでした。
今は、きちんと薬を飲んで、毎日血圧を測っている。
もちろん!塩分制限、食生活の見直しすべて改善しました。
2、月に2回、お墓参りにいく。
10年前、「先祖の誰か一人欠けても自分はいなかった」と思ってから大野家のバトンを受け継いだランナーとして、ご先祖様に「ありがとうございます。」と言いに行くことだけはしようと決めてから、ずっと続けています。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
両親、姉、親友
両親:尊敬している。
父はとび職をしていて、自分も中学の頃から建築現場に同行し、重い資材を一言の文句もなく運んでいる父の後ろ姿を見て育った。
不器用なんだけど、とにかく目の前のことを一所懸命にやり続ける人、「自分より過酷な道を歩んでいる人はいっぱいいる。上を見てもきりがない、下見て暮らせ!」と言って、もくもくと仕事を続ける父。
また父は常々「損得を考えずに、礼をつくせ!」と言っていたことも。
「何か1のことをしてくれたら2つ、3つ付けてお返しを待ったなしでやれ!」
とにかく恩を仇で返すことなく、「礼に尽すこと!」ができていれば、周りに守られ、「笑顔も人もお金も仕事も全て、回ってくるから」と、教えてくれた。
逆に母は、「みんな、おいで、おいでー」といった気さくなタイプの人。
みんなで楽しいのが好き。
病院や電車で隣り合わせた人にもよく話しかけ、なぜか仲良くなってしまう。
そんな両親を見て育った自分も、誰か困っていたら声をかけることも多く、社会人になるまで人を好き嫌いで判断した事もなく、「良いことも、良くないことも自分に何かを教えてくださる先生」だと思っていました。
幼少時代の記憶は、いつもバカみたいに笑っていたので、たくさんの友達に恵まれた。
みんなできるだけ仲良く楽しく行こう!というスタンスは、母の影響だと思う。
姉:ソフトテニスの名門、全国のトップチームに身を置かせてもらえるきっかけをつくり、可能性を広げてくれた。
高校受験の時、中学時代、勉強がとにかく苦手でスポーツしかできない、ただのバカだったので、バスケットボールでスポーツ推薦があったが・・・「君の偏差値では、うちの高校のレベルについていけない!」と目の前で断られ、推薦がないとなると東京都内1つも入る高校はない状況だった。
その時、担任の先生から、大野君は頭がよくないのでと・・・。
母と姉で、三者会談が行われた。
二人の姉はソフトテニスで全国に多くの成績を残している。
特に長女は全国で1位になったことがある程だ。
その姉たちが、「私たちにテニスの才能があるとしたら、幸一にもあるかもしれない。」と言い、姉の伝でソフトテニスの有名な広島の高校に進学することができた。
一人東京を離れての寮生活も慣れないのに、バスケットからソフトテニスの転身も想像以上に大変だった。
ソフトテニスで有名な高校のテニス部には初心者なんか、今まで一度もいない。
グリップの握り方から1軍から4軍まであるテニス部の中、4軍から始めた。
コートも1軍はAコート、4軍はDコートと、決まっている。
その4軍コートで先輩から「どうせお前は3年間、ずっと4軍のコートから離れられへんから、適当にやっとってええで!」と言われた。
その一言で「カチッ」とスイッチが入った。
「絶対、この先輩より3年間で良い成績をおさめ続けてやる!」
この先輩は、部活の他、寮でも買い物や肩もみ、洗濯、掃除と、毎日、自分を使いまわした。
この先輩の一言と厳しい上下関係から、ゆるぎなく強い信念ができた。
人と話をするときも、常につま先立ちで足腰を鍛え、他の部員が1段階段を昇るところ、影で1000段の階段を駆け上がっていた。
部活のみんなが寝ているときぐらいしか、小学、中学の9年間のブランクの差は、縮まることがないので、寝る時間を削ってとにかく人より何十倍も多く、ランニング、素振り、時間があるときは、常に試合のイメージトレーニングを繰り返した。
お陰で、今でもテニスコートを描くのが上手い。
毎日、先輩からは殴られ、蹴られ、同級生から教わることで全てのプライドを捨てた。
なんだか、今、思い起こすと・・・みにくいアヒルの子のような高校生活だった。(苦笑)
とにかく1年目は、1日36時間ぐらいあれば、休む時間があるのに!って、心から思うぐらい苦しかった。
2年目になると打てるようになってきて、テニスが好きになったが、あの先輩を毎日見るたび、考えるたび、「顔晴らないといかん!」と、思っていました。
テニスが好きになってからも苦しいことは続いたが、これを続けていけば良い成績を残せるだろう?もしかしたら、東京へ戻り大学推薦だってもらえかも?と、夢と描きながら。
「これができた!」「あれもできた!」と、小さな成功体験、1つ1つを自信に変え、大きな歴史を刻むことができますようにと自分を疑うことなく、がむしゃらに突き進んでいた。
その結果、4軍の先輩を追い抜くだけでなく、1軍へ、全国ベスト8入りまで果たせた。
ソフトテニス有名校であっても、個人として過去最高の成績として、学校の歴史に残った。
高校の3年間で、成功の仕方の感覚を掴んだ。
親友:
社会人になり、親友が小冊子とCDをくれたお陰で人生が好転した。
五日市 剛 著 ツキを呼ぶ「魔法の言葉」
この小冊子とCDの中、イスラエルのおばあさんのお話、通常、周りの人が何かしてくれたり、有難いことがおきたら伝える「ありがとう」という言葉だが、よくないときにこそ「ありがとう」と言うと良いという。
よくないことや、くやしいことがあっても「ありがとう」と、ときには独り言でも。
そうすることで、気持ちが落ち着いたり軽くなったり、新しい考えが浮かんだり、実際に問題も収まったりもした。
それと、何か良いことがあったら、「感謝します。」言うと、また良いことが起こりだすという。
「これ本当かなーと疑うことなく、まず、やってみることが大事なんだなー。」と、思った。
自分が言う言葉1つで、余裕ができるのか? 本当に不思議なのだが、何度も人とのご縁やチャンスに恵まれ、次のステージが用意されていくことがある。
人生が好転することを知った。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「限界へ挑戦せいや!」
「今やらんでいつやるん!!我がやらずに誰がやるんや?よう考え!!」
高校時代のテニスの監督に言われた言葉
優秀な選手のコーチで忙しいのに、超初心者の自分相手によく叱ってくれた。
この言葉は、当時、中途半端な自分の励みでもあり、今もずっと生きている。
2、「ありがとう」「感謝します」魔法の言葉
3、「どうせお前は3年間、ずっと4軍のコートから離れられないんだから、適当にやっとってええで!」高校の先輩の言葉
4、「六大学を出て、とび職かよ!」同級生に言われた言葉
法政大学法学部政治学科の卒業を前に、大手アパレルメーカーを希望し2社から内定をもらっていたが、父の具合があまり良くないことがわかったので、親の手伝いをすることにした。
ところが、同級生から「六大学を出て、とび職かよ!」と言われ、「この仕事だけでは、絶対に終わらない!!」と強く決意した日でもあった。
とび職は力仕事なので、昼食が終わると殆どの人が昼寝をするが、その中、一人で本屋に通い、色々な業種や人の気になる本を片っ端から読破した。
また、会う人毎に「どんな仕事をしているんですか?」と聞き、現場でも常に周りはどんな仕事があるのかを見ていた。
常に世の中の流れを見ながら、仕事の種類や状況を把握した。
33歳の頃、建築業界が不景気になった。
うちの仕事としては、月3棟以下になると赤字になる。
赤字をくり返してまで親子で続ける気はなかった。
そのタイミングで長女が、オリジナル化粧品を開発し起業した。
高校入学時の恩義もあるので姉の会社を手伝うことにした。
手伝うからには、姉の会社の化粧品を世の中に広め、笑顔溢れる美のディズニーランドをつくってやろう!と意気込んだ。
ネットショップなので、お客様からの質問をメールで受けることが多い。
会話をスムーズにできるように、独学でブラインドタッチの練習をした。
それまで、全くパソコンとは無縁だったので、手拭いで目隠しをしてキーボードに向かった。
ホームページから来る問い合わせ、即メール返信、とにかくお客様と日常会話を楽しみながら化粧品を販売することより先に、仲良くなった。
商品についての話は殆どした記憶がないが、仲良くなったお客様が商品を買ってくださり、またお客様を連れて来てくれるという嬉しい連鎖が巻き起こった。
その結果、ネットを始め、3年後に日本最大級のクチコミサイト・モニプラで行われる年に1度のファンサイト・オブ・ザ・イヤーの中、400店舗の中で1位(金賞)になった。
翌年は800店中1位、翌々年は1800店中1位と3年連続1位(殿堂入り)になった。
どんどん上がる利益は、商品をお求めくださる方々にもっと喜んでもらうよう、姉の新商品の開発費へ、おかげさまで良い商品ラインナップも増えた。
姉の会社に入ってから5年経った38歳の時、今度は自分の人生で一旗揚げようと独立を決意した。
5、「損得を考えずに、礼をつくす。」父の言葉。
一番大事にしている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
5つある
1、高校から親元を離れ、ゼロから違うスポーツ選手(バスケット→ソフトテニス)になり、監督と先輩が強い信念を刻めるよう指導してくれたこと。
2、「六大学を出てとび職かよ」と言われた時。
3、38歳の時、姉の化粧品会社を辞め、「お客様ゼロ!収入ゼロ!」でも、自分でできる!と信じて起業したこと。
独立して当初、どうしていいのかわからなかったが、自分の実績を知っていてくださった方々が紹介してくれてからスタート。
最初の1年は2社に関わり、寝る間も惜しんやみくもにやって結果を出した。
それから、徐々に紹介してもらい、今は、8社のネットショップの販売促進として、コンサルタントをしている。
4、大動脈解離を引き起こした時。
(とにかく最後は自分1人、自分に大丈夫だよ!と毎日、励ますことしかできなかった!)
5、自分で書いた本「バカだから結果を出すしかなかった!」を出版した時。
ライターさんは使わず、500ページに自分の強み、弱みや特徴、成功体験の中から、どうしても外せない成功するのに必要だったこと!を書き込んだ。
成功本を読んでも誰かの事であって自分の事ではないが、自分の本は自分の経験を基に書ける。
本を自分で書くことで、これまでの人生が全部まとまった。
成功者には個々特徴はあるが、「思い立ったら決断がはやい!」など、共通点が何個かあることもクリアーにわかった。
総して大きな変化がある前には、必ず、これまでとは違う選択をしていることに最近気付いた。
何となく可能性を感じられるのは、いつもと同じ簡単な方ではなかった。
わざと難しい方を選んだ訳ではないが、簡単な方を選ばなくて、良かったと今つくづく思う。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
大きな失敗も、たくさん数え切れないほどある。
問題や試練は、「夢や希望へ向う途中の通過点!」としか思っていない。
クレーム等の対応に行きたくないと思っても、率先して問題に向き合った方が、その問題は大きくならないし、自分のメンタルも磨かれる!ことを知った。
周りが目をそらすようなことでも、決して目をそらさないこと。
その方が、良い結果に結び付くと思う。
◆夢は?
親や社会が支えてくれた、与えてくれたことを噛み締めながら・・・。
今、自分のできることを全力で、ご縁のある方の想い出や喜びに携われるよう貢献できるようを考えながら!
「仕事じゃなく自分の人生だと思って、何ごとも本気で進んでいます!」
そんな自分は、「誰でもできる簡単な事を誰にもできないくらいずっーと続けられる。」という才能と、決めたことを時間がかかっても必ず達成する!という集中力がある。
誰よりも遅くゼロから始めても数年後はその道のスペシャリストに必ずなれる!と思っているので、「小さくても社会のどこかで笑顔の歴史が残せるよう」やっていく。
記録
東京都バスケットボール大会 優勝
全日本選抜/全国ソフトテニス選手権大会 ベスト8
東京六大学ソフトテニス選手権大会 4年連続優勝
新人賞・MVP(優秀選手賞2回受賞)
モニプラファンサイト・オブ・ザ・イヤー金賞
(2009年、2010年、2011年)3年連続(殿堂入り)
http://monipla.jp/cp/foy_2009/
http://monipla.jp/cp/foy_2010/1.php#detail1_1
http://monipla.jp/cp/foy_2011/prize1.html?ref=under2#Page1
『バカだから「結果」を出すしかなかった!』(2014年1月、ごま書房新社)
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