ザ・ギラムグループ@KW
代表
ギラム真理子 Mariko Yoshioka Gillam 氏
2019.1.16
◆業種
不動産業
◆子供の頃になりたかったものは?
スチュワーデス
(以下、CAと表記)
「アテンションプリーズ」という1970年に流行ったテレビドラマを見て憧れた。
その後も、父が毎週家族を食事に連れて行ってくれた大阪ロイヤルホテルは、各航空会社のクルーの宿泊先に使われていたようで、ロビーや廊下を歩くCAやクルーを見るたび「カッコいい~」と憧れた。
アメリカに住みたいと思うようになったのもこの頃から。
父はたたき上げのカメラ職人で、事業は息子(私の弟)に譲ったものの82歳の今でもデパートのイベント等があると颯爽として店頭に立つ。
父の実家は京都で西陣織をしていたのだが、家業を継がず中学を卒業すると自ら志願してカメラ職人になった。
型破りな父は、カメラ職人の修行中でもスピードスケートを趣味とし、国体で優勝、日本記録保持者でもあった。
父の祖父は同志社大学病院の医師でしかも天皇家の京都御所での御典医だったというから、代々自分で新しい道を切り開いてきた家系のようだ。
私は、12歳の頃になると宝塚に憧れるようになった。
幼稚園の頃からバレエを習っていたので、声楽なども宝塚の先生について本格的に準備を始めた。
母も宝塚には若いころ憧れていたそうなので、大喜びで応援してくれた。
ところが中学にはいるとパタッと宝塚に興味がなくなってしまった。
母は物凄くガッカリしていたが、私はバスケ等の活動的な部活に入った。
その分妹が母の期待に応えてくれた。
宝塚ではないが、ミュージカルの世界で本場ブロードウェイで日本人初の「キャッツ」に抜擢されるなど活躍した。
中学も高校も普通に過ごし、大学は関西学院の社会学部に進学。
百合学院という、幼稚園から高等学校まで、カトリックの教えをもとにした女子高で育った私は、男女共学の大学はもう未知の世界。
大学に入って直ぐに一人目の夫に出会った。
2つ上の先輩だったので、彼が先に就職した。
配属先が九州の久留米だったため遠距離恋愛となった。
会いたくて大阪から九州の久留米まで一生懸命通ったが交通費がかさむ。
そこで思ったのは「あースチュワーデスだったら飛行機代がタダになるのになぁ~。」だった。
当時の私の中では航空会社といえばJALだったのだが、たまたま見た新聞に全日空(以下、ANA)のCA募集の広告があった。
応募してみたら受かり、大学をやめようと担当教授に話をしに行った。
ところが教授の奥様は元JALのCAだったので事情をよくご存じだった。
「やめることないよ。」という。
「毎日仕事が有る訳ではないし、大学3年なんだから教養課程の単位は全部とってるんでしょ。だったら大学は来られるときに来ればいいから。」と言われた。
「はい」と言ったが内心「えーー」と思った。
「会社にわかったらどうしよう。」ドキドキだった。
それでも言われるがまま大学に残り卒業をした。
結果的に物凄く良かった。
私は、大きな転機の時にこのように自分の意図しない方向に導かれることが多い。
ところが彼は焦ってしまったようだ。
私は彼に会いに行くための交通費がタダになるし子供の時の夢が実現できたと一石二鳥だと思ってANAに就職したが、彼としては華やかに見られがちな世界
で経済的に自立してほしくなかったようなのだ。
私の大学卒業を待って直ぐに結婚しようとなった。
ところが父が猛反対、大学を辞めてCAになると言ったときは大賛成してくれたのに。
たたき上げの父は働くことに関しては応援してくれるが、結婚して主婦になることに対して抵抗があったようだ。
結局、父の反対を押し切り、CAを辞めて専業主婦になった。
ところが反対されて押し切った結婚は長続きしなかった。
結婚から1年で離婚し、久留米から大阪の実家に戻った。
ところがまだまだ、娘が出戻ったとなると世間体が悪い時代で、私も何となくいづらかった。
そこで、アメリカにダンス留学していた妹のところへ、私もダンス留学の名目で渡米した。
元々アメリカに住みたいと思っていた訳だから願いが叶ったともいえる。
妹は新聞をとっていて、アメリカの日曜版となると10センチはあるかというほど分厚いものが届く。
求人、株、マンガ、不動産、色々なジャンルに分かれていて、もちろん広告などもたくさんある。
妹はマンガの束を読み。
私は「アメリカに家を買う」と決めて渡米したので、興味津々でリアルエステート(不動産)の束を好んで読んた。
ローンの仕組み等も好きで、ここで不動産業に関する多くを学んだ。
そのうち出版の営業職を得て、自分は営業が好きなこともわかった。
そのころ友人の紹介で、アーティストである2番目の夫に出会った。
当時は日本のアーティストが物凄く持て囃された時代で、イサム・ノグチ等大人気だった。
DC(デザイナーズ&キャクターズ)ブランドやテクノカットに象徴されるモノトーンブランドが流行った時代、アメリカでも凄い人気で、そういったファッションに身を包み日本人の彼女を連れて歩くのがステータスだった。
その分アメリカ人女性の風当たりは物凄く強かったが、日本人女性のモテ期といっても過言ではないくらいであった。
二番目の夫とは、二人の子供に恵まれた。
当時はバブル期で、父もカメラの輸出(ニコンやキャノン等)や輸入(ライカ等)のためアメリカに毎月来るようになり私も仕事を手伝った。
上の娘が4歳の頃、元JALのママ友から日本語を話せるCAに復帰しないか?との話がきた。
観光ツアー国内線の仕事だと思い込み即断ったが、「ちょっとまって!よく話を聞いて」という。
よくよく聞いてみるとJALかANAの元CAでアメリカビザをもっている人限定の日系企業社用機の募集だった。
その日系企業とは米国トヨタ自動車のことで、結局、TOYOTA専用機で名誉会長を始め役員方の専用フライトにCAとして乗務することになる。
トヨタ自動車販売の新しい工場ができるたびに世界中を飛び回ったと言っても過言ではない。
専用器のCAはそれぞれの役員方のお好みも全て把握し機内食の調達からサービスまで全て一人で行うトータルサービスが求められる過酷だがやりがいのある仕事だった。
楽しく充実した毎日だったが、二人の子供たちには病気があった。
一人目の娘は自己免疫性の病気で肝臓が弱く、二人目の息子は生まれつき食事制限をしなくてはいけない体質だった。
息子はナッツや乳製品がダメなので母乳も与えることができなかった。
私は自分を責めた。
それと同時に物凄くストレスを感じた。
夫もそうだったと思う。
今思えば、薬さえ飲んでいれば平均的な子より元気だし、食事さえ間違えなければ全く普通の生活ができる。
しかし、当時は頭を抱えて悩んだ。
現実逃避したかった。
結局、丁度経済的にも自立していたので、結果二人の子供を私が引き取り離婚した。
しかし今は、一人目の夫も二人目の夫とも関係性はとても良好で、2番目の夫とは感謝祭などに子供を介して今の夫や夫の元妻などと一緒に集まる。
特に3年前からは元夫の方から私たち家族を招待してくれる等、益々良好になっている。
私の中の思いが変わったとたんの出来事で、相手を変えることはできないが自分がかわれば相手が変わるとうことを実感した。
2003年、米国トヨタ社用機パイロットだった現夫と3度目の結婚をした。
パイロットであるキャプテンとCAが夫婦というのはまずいので、私たちは転職した。
夫はアメリカでいうと「Go-getter」というのだが、自分からグイグイ仕事を取りに行く、「できる男」タイプで、Googoleの社用機パイロットの仕事を得た。
夫は私にもアップルの創業者スティーブ・ジョブズがCAを探しているという情報をくれた。
しかし、当時の私はスティーブ・ジョブズのことを知らず、誰?といった状態だった。
しかも面接に来る人皆気に入らず、本人CAはいらないと言っているが、航空法規でCAがいないとダメだから募集をしていると聞いた。
とにかく乗れる人がいないから、テンポラリー職(日本でいう契約社員のような立場)でいいから行ってと言われて乗った。
ところがスティーブ・ジョブズは、日本の永平寺で修行を行ったことがあるくらいに日本好きな人だった。
私がトヨタ自動車販売のCAをしていたと知ると、興味津々に色々聞かれ、飛行機を降りる頃にはうちに来ないか?と履歴書も何も見ずに話が決まってしまった。
2003年、結婚と同時にスティーブ・ジョブズ専用機の職を得た。トヨタ時代と同じ機種だったがシャワーもベッドルームも付いている空飛ぶ居住空間だった。彼は競合他社のエグゼクティブたちともミーティングを持ちトヨタ時代に行っていた抹茶のサービスはここでも人気だった。
スティーブ・ジョブズが短気と噂されていたが、奥様や子供たちもよく一緒にでかける素敵なファミリーで、ご本人はとてもおとなしい方だった。
後でわかったのだが、セレブや有名人のCAに応募する人たちはハリウッドの女優志願だったりすることが多く、スティーブ・ジョブズはそれがわかってからは皆断っていたようだ。
スティーブ・ジョブズはハワイ島が好きで10日間くらい滞在することがある。
しかし、いつ移動することになるかわからないので、私たちもハワイ島に滞在しなくてはならない。
10日間もあるなら!と思い、もともと少しずつ新聞で学んでいた不動産の勉強を本格的に始めた。
それからのハワイ島滞在時は、ホテル内で勉強するか、周辺をマラソンするかで過ごした。
逆にそうでもしないと子供たちが心配になり、居ても立っても居られなくなる。
結局、上の子が中学校に行く頃になると、「やっぱり母親が家にいた方がいいんじゃないか?」と思い2006年にCAを辞めた。
その頃には不動産の勉強が全て終わっていて、後は試験を受けるだけになっていた。
資格を取り不動産業として開業を始めた。
日本人の売買の仲介も多く、クライアントの目的は資産分散や税金対策、若い人の資産作りなど。
意外と皆さんがご存じないのは、アメリカの物件を日本にいながらアメリカのローンを使って購入できるということだ。
書類などのやりとりが分からないと難しいが、そういったことも得意としている。
アメリカの物件は買ったら必ず上がる。
リーマンショックの時も回復したときは前より高くなった。
もちろん波はあるが、その波さえ読み間違えなければ一財産築くことも可能だ。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
日本人らしくお風呂に入る。アメリカ人のシャワーだけの生活は未だに慣れません。
それと週2回サーフィンをする。
子供たちが一緒に住んでいたころは家族でしていたが、今は独立してしまったので、夫と二人でしている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
父
何か転機があるときは必ず父の意見を聞く。
それと、先にも書いたが、自分の思いもしない方向にいつもどなたかが引っ張ってくれる。
その時は一瞬「ん?」と思うが、結果その方がうまくいくようだ。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
一期一会
21歳の時にANAで聞いた。
ANAの社訓に「おもてなしの心」がある。
一期一会とは茶道の言葉だそうだ。
この言葉は、事あるごとに頭に浮かぶ。
今つかまなければ同じチャンスは二度とない。
そのアンテナを大事にする。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
・31年前アメリカに行ったとき
・今の主人と出会ったとき
・子供に恵まれたとき
・スティーブ・ジョブズの専用機のCAになったとき
スティーブ・ジョブズはビーガン(動物性のものは一切食さない)であった。
ビーガン専用のシェフもついていてトレーニングを受け、機内でのお食事は各地でのオーガニック食材の買い付けから料理、サービスまで一人でこなした。日本の精進料理と通じるものがあると思った。
奥様もビーガンで日本の文化も好きだった。
iPhone
がシンプルなのはシンプルな日本を取り入れたから。
彼らとの時を持つことができたお陰で、日本を再発見することができた。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
子供の病気
逃げたかった時もあるけど明るく笑って生きてきた。
上の娘は今パールハーバーでライフガードをしている。
薬は飲んでいるが、とても病気とは思えない。
下の息子は大学2年で寮に住んでいる。(アメリカでは普通)
食事に制限があるから、ちゃんと育つか心配したが身長も約190センチありとても元気だ。
2度の離婚も含め、辛いと思っても明るく笑って来れられたのは周りが引っ張ってくれたお陰と感謝している。
◆夢は?
日本の健康によいものをアメリカに紹介したい。
それが私の使命に感じる。
医療も進化しているし、あれがいい、これがいい、と色々あるが、アメリカ人は不健康なひとが多い。
いくつかのプランを夫と書き出しているが、それを実現したい!
今55歳、深く考えたり、良いアイディアが出たりするのは今からが益々伸びると聞いた。
「実現します!」
ザ・ギラムグループ@KW
https://marikorealestate.com/
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