一般社団法人ウェブ解析士協会 代表
情報価値研究所株式会社 代表取締役
江尻俊章 氏
2019.1.30 16:00
◆業種
コンサルティング
◆子供の頃になりたかったものは?
科学者
スーパー戦隊の敵、悪の科学者をテレビで見て思った。
5人相手に戦えるなんて凄い!
当時、見ていたスーパー戦隊は「サンバルカン」だったと思う。
「発明家」になりたかった。
子供の頃は、「発明家」という名前を知らなかったから「科学者」と思ったのだと思う。
小学生時代はいじめられっ子。
だらしない、忘れ物ばかりする。
運動もできず、いつもボーッとしてどこか抜けている子だった。
2年生くらいからいじめられ始め、学年が上がるといじめはスカレートした。
殴られたり、蹴られたり、結構ないじめにあった。
いじめの事を先生に訴えてもあまり取り合ってもらえなかった。
そんなダメな子が、パソコンもない時代に小学校でコンピュータ雑誌の「アスキー」などを読みふけっていたのだから益々かわいくなかったのだと思う。
コンピュータに夢中になったキッカケは、ポケットコンピュータ、通称ポケコン「Casio PB-100」だ。
小学校4年生の誕生日にファミコンをねだったら、意図的だと思うが、父が間違えてポケコンを買ってきた。
見かけは電卓や一昔前の電子辞書のようで、小さなモノクロ画面に簡単なゲームをプログラミングすることができる。
ファミコンとは随分違うが、それしかないのでしかたない。
説明書を見ながら、ゴルフゲームなどをつくって遊んだ。
アイアンによって飛距離を設定できるのだが、アイアンは9番が一番飛距離が短い。
だから現実にはないマイナス1番アイアンをつくって遊んだりしていた。
ただメモリはないので、違うゲームを作りたくなったら全て消去して1からやり直さなければならない。
雑誌「Basicマガジン(ベーマガ)」には多くのゲームが掲載されていたので、色々なものをつくって遊んだ。
飽きっぽくてコツコツはダメなタイプなのにゲーム作りは好きだった。
それにインベーダーゲームなどが流行ってきても、ゲーム台が置いてある駄菓子屋までは4キロもあり、一回100円でお金もかかるし、いじめっ子たちもいるのでポケコンをやらざるをえなかった。
両親は、道路、コンクリート、土木などの建築資材や工業薬品、原子力関連資材等を扱う会社を経営していたので忙しく、事務所は自宅の隣だったため「かぎっ子」にはならなかったが同年代の遊び相手はいなかった。
小学校の低学年までは、下校すると事務所に寄り、封筒をもらってペン立て等、工作をしては事務員さんにプレゼントして遊んだ。
そんな時をすごした。
弟が一人いたが、優秀で、いじめられることはなかった。
クラスが変わってもいじめられっ子が続いた。
ところが、中学にあがると一変した。
自分で、もういじめられっ子にならない!忘れ物をしない!等の決意をしたが、それを後押ししたのは、成績発表だ。
当時の福島県の中学校は野蛮なことに200番まで成績を貼り出した。
その貼りだされた私の成績が9番だったのだ。
その頃からいじめられなくなった。
友だちもでき、ゲームで一緒に遊ぶようになった。
一緒に遊ぶといってもテーブルトークロールプレイングゲーム。
私がゲームマスターで友だちはプレイヤーだ。
私は、「ダンジョン&ドラゴンズ」等のロールプレイングゲームが好きで、シナリオを考えてはゲームをつくり友だちに評価をもらった。
「今回の謎解きは面白かった。」「今回の選択はつまんなかった。」等
シナリオをつくるためには中世の魔法使いのことやヨーロッパの歴史を調べなければならない。
「謎の武器ランス」なんていうものが出てくる。
「ランス」っていったい何だろ?
「騎兵用の槍」のことだが、YahooもGoogleもない時代だから、本屋や図書館で必死に調べた。
ゲームづくりのネタを仕入れるために「ロード・オブ・ザ・リング」やファンタジーものも読んだ。
それでも成績は学年で10番以内だったので県下一の高校を滑り止めも受けずに受験した。
ところが落ちた。
試験で失敗した覚えはない。
しかし、落ちてしまったのだから高校浪人するしかない。
当時、福島には県下一の高校に入りたくて高校浪人する人が毎年300人程いた。
なので、専用の予備校もあり、そこに通うことになった。
しかし、11月になったころ、どうしてもイヤでイヤで仕方なくなった。
父に東京の高校に行かせてくれと頼み、東京に移り住んで受験まで残り3か月間、テレビなしで必死に勉強した。
母方の祖母が東京で暮らしているのでそこから予備校に通った。
その甲斐あって海城高校に合格できた。
高校時代は、祖母の食事が口にあまり合わず、母屋ではなく離れで自炊していたので一人暮らしをしているようだった。
学内で、シミュレーション同好会に参加した。
ゲームのシナリオを考える同好会のつもりだったが、参加すると当然ながらアニメも好きなオタクっぽい人がほとんどだった。
高校生になるまで「オタク」という言葉を知らなかった。
このときだ、自分たちも「オタク」と呼ばれる存在だと気づいた。
それからの高校生活は、ゲームのシナリオこそ考えたり、ボードゲームをしたりするが、コンピュータとは距離を置き、絵を描いたり、音楽バンドを結成したりした。
彼女もつくりたかったので、学園祭ではシミュレーション同好会はタロットカード同好会と名を変えて、女子の好きなタロット占いをした。
男子校だったので、学園祭には1万人くらいの来場者がある。
必死でタロット占いを勉強して、後日結果を伝えるからとデートの約束をしたりした。
大学は父の後を継ごうと思っていたので、国立の経済学部を選んだ。
ところが落ちてしまった。
一浪して私大に入った。
就職は、商社に行きたかったが、高校、大学で遊び癖がついてしまったため成績順の大企業は狙えない。
まして、父の後を継ぐなんていったらどこも採ってくれない。
そこで嘘をつかない範囲で考えた。
「中小企業にチャンスをつくって地方を元気にしたい!」と面接で吠えた。
すると「素晴らしい!」と称賛され、当時就職人気企業ランキング上位の企業に内定をもらった。
ホテルを貸し切って泊りがけでする豪華な内定式に参加すると、東京大学や早稲田大学、慶応大学の学生がいない。
聞くと、東大と一橋大学でひとグループ、早稲田、慶応大学でひとグループ、その他の大学でひとグループに分かれての内定式だとわかった。
不安に思い、人事の担当に「本当に地方を元気にする仕事をさせてもらえますか?」と聞くとわからないと言われた。
そうだろうと思い、内定を断って就職活動を再開。
結局、化学工業メーカーに就職した。
入社後、立ち上げたばかりの岡山の営業所に配属になり、中小企業向けの新製品の営業として、テレアポと飛込営業から仕事が始まった。
19人いる営業所で大卒は、所長と私だけだった。
この化学工業メーカーは中小企業開拓のノウハウはゼロだったため、電話帳で「あ」から順番に電話をしてくのだが、いきなりアポイントが取れ、見積もりを依頼された。
内心「俺って天才!」と思った。
早速、上司に報告すると、その会社は暴力団関係者だという。
高額の見積書を持って断られてくることになった。
その事務所は、トイレで殺傷事件があったと噂される事務所だった。
無事、断られて良かったが、最初から大変な思いをした。
それと岡山弁に苦労した「それはおえんのー」といわれると、ダメなのか?まあしょうがないけどいいよ、という意味なのか解釈に困る。
それでも営業や補助金などで役所とのやり取りなど仕事は楽しかったが、あるとき「中小企業の活性化ってコレじゃないよな。」と思った。
そんなとき、「さくら」で良いからと頼まれて、サラリーマンでありながら起業家塾に参加することになった。
起業家塾といっても私以外は、定年後の起業を目指して参加しているので60歳以上の人ばかりだった。
その起業家塾に参加して、中小企業にもインターネットで集客できるシステムが必要だと思った。
お互いにリンクをし合うための「リンクマーケット」をつくろうと考えた。
後にGoogleがつくったGoogle広告と同じことだ。
その直後に、今の仕事のパートナーである小阪淳(こさかあつし)に出会った。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
ブログを書く
あるセミナーで「ブログを毎日書いた方がよい」という話をしたところ「江尻さん書いてないですよね」と言われたことがキッカケで半年前くらいから毎日書き始めた。
自分で実践して思うことは、文章が上手になった。
更に、内容は現場のことを書くため、ここのところ経営や運営に従事していたが、ブログを書くことで現場に戻れた。
現役であり続けるためのチャンスをいただけたと思っている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
本: 「実践論WEBマーケティング」
「Measuring the Impact of Your Web Site」を訳した本だ。
1998年、東京新宿の紀伊国屋書店でアクセス解析の本書と出会った。
アクセス解析という概念が日本にはまだない時代。
「コレだ!」と思った。
これを軸に集客のコンサルティングができる!!
一つの手段を見つけた喜びは今でも忘れられない。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「人生はなりたい自分になるゲーム」
これまでの経験からそう思えたので!
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、小阪 淳との出会い
私がまだサラリーマンだったころ、起業家塾関係のセミナーの飲み会で「中小企業を元気にする!」ということで話が合い意気投合。
しばらくして、東京にいる私と一緒に起業するため月一で会議をしている友人を紹介しようと、小阪と一緒に新幹線に乗った。
その東京へ向かう新幹線の中で、小阪が「会社を辞めてきた」という。
サラリーマンだった私にとって起業は、まだいつか先の事、夢物語だった。
それを聞いて、一人の人生を背負った重圧と責任で新幹線に乗ってる間、私は口がきけなくなった。
25歳の頃だ。
小阪は私の一つ下。
慶応大学を卒業し、宅建士の資格を持ち銀行マンの経験もある優秀な人材だ。
その小阪は、東京の友人にあった時、タバコを吸っている友人に向かって「タバコ吸う人は信用しない」と言い切った。
結局、東京の友人は起業するタイミングには合流しなかった。
人生をかけてた小阪だけが参加した。
地方の中小企業を元気にする会社を起業する!そのためにアクセス解析は重要である!ということは決まっていても、会社として収入に繋がる事業の目途は未だ立たない。
その後も週一で小阪とのミーティングを重ねた。
私はサラリーマンを起業の前日まで続けたが、小阪は岡山で仕事がなく、工場で団子をつくる二交替のアルバイトなどをしていた。
慶応卒の銀行マンなのに、夜勤明けで打ち合わせに参加するする彼を見て、何とかしなければ!と気が焦ることもあった。
そんな中、紀伊国屋書店でアクセス解析の本と出会い収入に繋がる事業の目途もついたため、2000年2月にハイパーリンクをつくる株式会社環(カン)という会社を設立した。
「環」は中国語で「リンク」という意味。
当時は、楽天が一世を風靡していたこともあり、会社名は漢字にすると決めていたからだ。
商品は出来ても顧客がいないので、中小企業に飛込アンケートを始めた。
小阪と二人で白地図を買って埋めていった。
インターネットのマーケットに興味がありますか?などの質問に答えてもらった。
まだホームページもない企業も多かった時代なので、制作の依頼などもあり、1年目から黒字にすることができた。
アクセス解析ツール「アクセス刑事」をプレスリリースすると新聞に載り、各所で最高の評価をいただいた。
2005年にはベンチャーキャピタルから3億の投資を受け、新たな解析ツールの開発が始まった。
従業員も40名になった。
その2か月後、Googleが無料でアクセス解析ができるツール「Googleアナリティクス」を発表。
赤字が続き、正月に妻子を実家に帰し一人になって考えた。
このままでは無理だと決断。
違うことを10本やろう。
それには社員の人にも何でもやってもらわなければならない。
エンジニアの人も営業をし、営業の人もプログラマーになってもらうと発表した。
すると三分の二が辞めていった。
残る15人でいろいろやった。
Googleアナリティクスのアドバイスなどもした。
アクセスログの1級者をつくりたい!と思っていたところ、人からWEBマーケティング講座、アクセスログ1級認定講座の依頼を受けた。
講座の費用も35,000円と高額。
それまでセミナーを打つときは商品を売りたい時だったから、セミナーだけで35,000円も払う人がいるなんて!と驚いた。
しかしそのアクセスログの認定講座は好評だったが、運営母体が大人の事情でなくなってしまった。
さてどうしたものかと、もう自分で社団法人をやるかと当時理事をしていた方に伝えたところ、理事として残って協会でやってほしいと言われ、私が自己資金を出し市場をリサーチしながらウェブ解析の認定講座システムをつくりあげた。
事業の成果に貢献する!地方を元気にする!
これにはWebが必要だと考えたからだ。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
自分が自費で築いてきたウェブ解析士のカリキュラムの権利を、協会に所有権を渡さないため、理事を辞めさせられたとき。
「出て行ってくれ」と言って追い出したあとは、別な資格で運営を始めたので、一般社団法人「ウェブ解析士協会」を登記して1000人程いるウェブ解析士に、どちらの所属にするか選んでもらった。
社会的な立場としては、先方の方が著名人が多く、自分たちの方が圧倒的に弱かったが、「地方の中小企業を元気にする」という志があったからこそ乗り越えられたのだと思う。
それと「出てってくれ」と言われた状況にイライラしていた私だが、パートナー小阪の冷静な対応に大変助けられた。
◆夢は?
1、世界のスペシャリストと繋がる!
シンガポール、中国、アメリカとグローバルにデシタルマーケテイングを展開している。
2、故郷、福島の活性化
東日本大震災以来、いわきブランド等は未だに地に落ちている。
検索窓に「Fukushima」と入れて検索すると未だに原発事故の画像しか出てこない。
福島と検索しても出てこないが、世界の認識は3.11の時のままということだ。
2021年以降は、福島を元気にすることに集中する。
世界中のデジタルマーケットと繋がってイメージを変え、世界各国の人が訪れてくれる街にする。
福島ブランドを高め、昔以上に元気な田舎にしていく!
https://www.waca.associates/jp
コメントをお書きください