株式会社C60(シーロクマル)
代表取締役
谷藤賢一 氏
2019.1.8
◆業種
教育事業
◆子供のころになりたかったものは?
ない
高校生までは夢も希望も持てなかった。
父は大手企業のサラリーマンで、3歳のころから会社に連れていかれ「おまえは将来、東大に入り我が〇〇〇社に入るんだ!」と言われ続けた。
もう全くその言葉が入ってこない。
「イヤだ」と思った。
父はザ・サラリーマンという感じで、「野球ぐらいわかっていないとだめだ」「ゴルフくらいできないとだめだ」とサラリーマンになるための英才教育をさせられた。
反発して「口ごたえ」しようものなら怒鳴られ、殴られる。
絶対的な権力の下で育った。
下に弟がいたが、私は長男なので、より力が入っていたのだろう。
母は感情的で、私もよく怒られたが父ともよくぶつかり壮絶な夫婦喧嘩が目の前で始まる。
大人に対する不信感は募るばかりだった。
「俺はこんな大人にならない!」と決意した。
「いつか出てってやる!」早く自立したいと思っていた。
高校生の時、新聞の広告欄に「パソコンソフトでど〜んと儲ける本」という題を見つけた。
「これだ!」まさに光が差したかのように光って見えた。
大好きなコンピュータが仕事になる!
サラリーマン以外の道があるじゃないか!
ベンチャーという生き方があることを知った。
コンピュータの世界に足を踏み入れたのはその3年前、中学一年生のとき。
1981年の頃、クラスの友達に一緒にやろうと誘われた。
当時のマイコン(パソコンのこと)は高価で、とても子供のおもちゃになる代物ではないが、その友達の父親は日立系に勤めいていた関係で日立製のマイコンを持っていた。
しかし、当時の私は電子回路が好きで、はんだごてを使った電子工作を趣味としていたのでマイコンに全く興味を持てなかった。
ところがその友達がしつこく誘ってくるので、少し興味が湧いてきた。
しかし、全く最初から友達に教わるのもくやしいので、まずはデパートの電気売り場にあるマイコンコーナーに一人で偵察に行ってみた。
高校生たちがマイコンでゲームをつくっている。
とてもびっくりしたと同時に「かっこいい〜」と思った。
もう、それからは今まで誘い続けてくれた友達の家やデパートのマイコンコーナーに入り浸りになった。
父は無線技術者だったので、マイコンなんてと馬鹿にしたが、私がマイコンコーナーで激しくキーボードを打っていると、横切る大人たちが「こういう時代になったのね〜凄いわね。」等と称賛の声を浴びせていく。
とても気持ち良かった。
中2〜高2はコンピュターオタクだったと言える。
大学付属の高校だったので内部進学することに決めた。
電子回路技術が学べるとパンフレットに書いてあった理工系の学部に進学した。
ところが、授業は真空管理論や強電技術。
電子回路やコンピューターの授業なんてほぼなし。
一年生からベンチャー企業でシステム開発の仕事をするようになった。
このシステム会社で、仕事終わりお酒を飲みながら、様々な話を聞いた。
ベンチャーを起業したのは、サラリーマンをしていたが、上司を見ているうちに自分たちの将来が見えてしまったのがきっかけだという。
ハードとソフトを融合し、自分たちで理想のコンピュータをつくろうという夢を聞かされ、
お酒も入っているせいか話を聞きながら大興奮した。
また営業担当の人は、技術と営業は会社の両輪、この両輪で会社はまわるといい、技術者とは対照的な考え方もいっしょに教えてくれた。
営業担当の人からは人生論なども含め多くのことを教わった。
これまで出会ってきた大人たちと違って、とても心に響いた。
また、なぜ終身雇用システムがなりたっていたのかも分かった。
終身雇用システムは、右肩上がりの経済(高度成長)とピラミッド型の人口分布(働き盛りの世代が一番多い)で成り立っている。
当時、19歳1987年、既に少子高齢化に向かっていた日本で、このシステムが続くわけがないということが見えてしまった。
とんでもない時代に生まれてしまったと思った。
なのにバブルに浮かれる世の中全体が破滅に向かっているように見えた。
友だちに話すと
「何を言っているんだ。飲みが足りないんじゃないか?」と失笑されたが、私は将来たくさん転職してスキルを身につけベンチャーを起こす!と決意した。
大学を卒業して就職先を決めるとき、大企業以外を選んだ。
システム、営業、等とたくさん転職して経験を積もうと考えたからだ。
ところが、両親はじめ親戚一同大反対。
「大学まで行かせてもらったのに、なぜきちんと就職しないのだ」と親戚中から電話が入った。
この「大学まで行かせてもらって」にもカチンときた。
大学に行って大手に就職したからと言って安定した将来が約束された時代は既に崩壊している。
それなのに、大人たちは私を破滅の道に導こうとしている。
怒りを感じたが、信念は揺るがなかった。
大人たちが何をわめこうが無視を決め込んだ。
まずはSE(システムエンジニア)として小さなシステム開発会社に就職した。
待っていたのは理不尽の数々。
入社2年目の24歳。
世界最高精度の測定器を独自理論で開発し納品し会社に利益をもたらしたのだが、会社からは何も認めてもらえなかった。
それどころか開発業務から外され、機械調整の仕事に飛ばされた。
理由は、会社の指示通りに開発しなかったから。
会社の指示通りでは製品の完成はあり得なかったので、独自理論を話の分かる先輩と練り上げたのだが、これがまずかったようだ。
社内の効率化も積極的に提案したが、却下、叱責、資料をごみ箱に捨てられたこともあった。
その頃、大手企業に就職した大学時代の親友が死んだ。
頭脳と人望を兼ね備えたまさにスーパーマンだったのに。
やりたいことがたくさんあったはずなのに死んでしまった。
自分は生きている。
本当にやりたいことをやっているか?
その年、会社の仲間とプライベートで行った北海道旅行。
大草原をぼーっと眺めているうちに「そうだ会社辞めよう」という思いが、
ごく自然に頭の中に降ってきた。
いよいよ学生時代に決めた転職人生のスタートだ。
もちろん次は営業職。
外壁塗装の会社に転職した。
個人宅への飛び込み営業で、当時最大手の会社だった。
理不尽な叱責もなく、いつも行動を認めてくれた。
月収200万の営業マンはビシッと決めた営業マンではなく、いつも「あっどうも、どうも〜」と言っているような腰の低いふつうのおっちゃんで、これは衝撃だった。
次はスーツを着た営業を経験するため、外資系の大手英会話スクールに転職した。
売り上げ世界一の女性営業マンと同じオフィスだった。
商談に同席させてもらったが、全く売り込みをしない。
海外で暮らしていた経験の話でお客と盛り上がり、お客様の方から、契約内容を聞かせてくれと言われ、その場で契約成立という状態だった。
2社連続で、本当の営業というものを見た。
売れる営業マンとは口八丁手八丁だという思い込みが崩れた。
この会社で心理学や組織論などがあることを知った。
会社は楽しかったが、並行して怪しい仕事に手を出してしまう。
ガンが治る!等の話がとてもクリーンに聞こえ、活動費や商品購入で200万円ほどの借金をしてしまった。
このまま続けてはいけないと、借金返済に専念することを決めた。
26歳のころだ。
バブルが崩壊し、「一流企業のサラリーマンがリストラされ相次ぎ自殺」というニュースが世間を騒がせていた。
当時、仕事はいくらでもあったのに、一流企業で働いていた人が中小企業に就職するということはプライドが許さなかったらしい。
自分だったらどうなのだろう?
死を選ぶのだろうか?
自分のプライドを図る意味で、プライドが傷つく仕事をしてみようと考えた。
友達に「一番プライドが傷つく仕事ってなんだろう?」聞くと、道路工事の警備員がいいんじゃないかと言われた。
空き缶やタバコを投げつけられたり、怒鳴られたり、殴られたりするらしい。
プライドがどこまで耐えられるか?
早速、大手警備会社で働くことにした。
警備会社では、勤務中は「何を言われても謝るな、ロボットになれ」と教わった。
案の定、物を投げつけてくる人や暴言を吐く人などたくさんいた。
しかし、警察官のようにも見える制服で敬礼すると皆引き下がる。
これが結構気持ちいい。
軍隊のように整列して行進する演習などの訓練があるのだが、
これまた気持ちよく、ヒットラーについていった人々の気持ちがわかったような気がした。
短い就業期間だったが、実にたくさんのことを学んだ。
しかし警備員の収入では借金は一向に減らなかった。
「またSEに戻って派遣で働けばいいじゃん。借金なんてすぐ返せるよ。」と教えてくれたのは死んだ友人の元彼女、信頼していた。
早速派遣会社に行ってみると、SEなので時給は2,000円だという。
信じられない!
けど本当だった。
毎月50〜60万円の単位で借金を返済できた。
それより驚いたのは派遣というシステムだった。
終身雇用の終演時代を救うビジネスだと思った。
私を派遣してくれている営業担当者とそんな話で盛り上がった。
すると法人営業の枠があるから来ないかと誘われた。
派遣する人材の業種はエンジニア。
私は営業の経験のあるSEなので、派遣される側の気持ちもわかる。
あれほどやりたかった法人営業。
しかも得意分野。
体を削って法人営業の仕事に打ち込んだ。
思った通りすごいシステムだった。
それよりすごかったのは、
技術も分からないのに営業スキルだけでエンジニアを派遣する、
先輩営業マンたちのパワーと情熱だった。
「○○さんを絶対路頭に迷わせない!私が決めてやる!」
そのためなら何だってする営業スタイル。
圧倒された。
社内は女性と男性の差別がない素晴らしい社風だった。
その頃、世界にインターネット時代が到来。
かつての派遣先だったシステム会社でインターネットサービスの営業マンを募集しているのを知った。
悩んだ結果、派遣元だった会社から元派遣先に転職するという決断をした。
時代の最先端の経験をさせてもらい契約終了。
エンジニア仲間の会社へと転職。
ここで月間稼働500時間を超えるまさに地獄のプロジェクトを取り仕切ることになる。
仲間といっしょに、人間の限界とも言えるプロジェクトを乗り切った。
素晴らしい仲間との仕事で、後悔はまったくない。
以後、SEとして数社を経験。
30代も中盤、大いに悩んだ末、SE引退を決意。
一線を退き、エンジニアを育成する側に回りたかったため。
営業・人事として、かつての人材派遣会社に7年ぶりに復帰した。
以前、派遣ビジネスに日本の雇用の光を見た。
それを実行するときが来た。
未経験の人材に教育を施し、個人の転職活動では絶対に入れない会社へ派遣する。
派遣先で気に入られたら社員として転籍することを勧める。
企業からは紹介手数料をいただく。
派遣業界の常識を壊す「旅立ちサポート」だ。
全員がハッピーになる究極のサービスだった。
自社の利益率も格段に上がった。
2006年にはプレスリリースも打った。
これを1枚のパンフレットにまとめ、営業かばんに常に入れていた。
ライバル企業の営業マンに渡すのが目的。
自社独占ではなく、他社にマネをさせることで、
1つの市場を築こうと考えていた。
市場が活況になれば企業の採用活動は大学の新卒一括採用ではなく、
人材会社からいい人だけ採用すればよい。
不毛な就職活動をなくせる。
就職活動が壊れれば、受験も壊れる。
受験が壊れれば教育が変わる。
子どもの頃から抱いていた教育に対する疑問がここで繋がった。
いつか終身雇用が完全に崩れても人々が生きていける仕組みができる。
チラシを同業他社にバラまくことくらい1人の力でできる。
あとはドミノ倒しだ。
ファースト・ドミノ理論と名付け、精力的に活動を始めた。
新しくやってきた上司にバレた。
旅立ちサポートは潰された。
日本の雇用と教育が潰されたと感じて心底落胆した。
退職を決意。
2008年、時が来たことを感じベンチャーとして今の会社を起業した。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
冬は、我が家の薪ストーブのための薪割り
夏は、自宅の庭で、なす、トマト、ピーマンなどの畑仕事
20代の頃、バブル経済がはじけ将来のことを考えたとき、「田舎暮らしすれば安泰じゃん!」と思った。
41歳で結婚し、茨城県のつくば市の田舎に家を建てた。
◆自分の支えになった、あるいは変えた人物・本は?
人物:落合信彦
アサヒスーパードライ、最初のCMに起用されたジャーナリスト。
彼の生き方について書かれた記事を読んで、自分の方向性に間違いはないと後ろ盾を得たような気になった。
お陰でブレることなく、とても支えになった。
本:「パソコンソフトでど〜んと儲ける本」1984年7月主婦と生活社
この本に出会ったお陰で、大手でサラリーマンをやる他に、自分の好きなこと・得意なことでベンチャー企業を立ち上げる生き方もあることを知ることができた。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「自分の姿を見なよ!」
17歳、「何かオレって青春とはほど遠い気がするんだけど?」と友達に相談した瞬間に言われた言葉。
当たり前だと言われた。
本当に鏡で自分の姿をよく見てみると、毎日コンピュータに向かっているだけだったので、髪はボサボサ、襟も曲がっていたりして、まったく輝いてないし、彼女すらできないのは当たり前だった。
自分では、中学まで友達とワイワイやっていたので、友達も多くコミュニケーションもバッチリ取れているつもりだった。
それからは青春を取り戻すかのようにコンピュータから離れて、その友達や女子と遊びにでかけるようになった。
大学生になってからは、コンピュータは仕事と割り切り、サークル、バイク、車、合コン、デートと、とにかく動きまくった。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
まさに17歳のとき
友人に相談をしたときが大転機だった。
それた道から本筋に戻れた。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
交通事故、親友の死、仕事の失敗など、挫折の連続だった気がする。
挫折を乗り越えるのは、プラス思考しかないと思っている。
一つあげるとすれば、2008年の頃、趣味でしていたモトクロスで事故を起こしたこと。
鼻が折れ、顔面は血だらけ、首から下が動かない状態になった。
そこにたまたま居合わせた脳外科の看護師さんが、「少し寝てれば動くようになる」と言い。
本当に少し寝ていたら動けるようになった。
ムクッと起き上がり、直ぐに自分で車を運転して病院へ向かった。
ところが、なぜか突然、病院とは反対方向にハンドルを切り、実家の両親の元へ向かった。
今でも、なぜあの時、あの瞬間、両親の元へハンドルを切ったのかはわからない。
顔面血だらけのまま両親に向かって、幼いころからどれだけ辛かったのかを涙を流しながら訴えた。
父も母も呆然としていたが、その時から、今までチャンスを掴みかけて掴み損ねるということを繰り返していた自分が、タイミングよくチャンスを掴めるようになり、更に毎年一つずつビックイベントが起き続けている。
事故の2日後にセミナー講師の仕事があったが、その日から何の準備をしなくてもセリフが頭の上からツラツラと降りてくるようになった。
なぜか、それは今も続いている。
◆夢は?
日本の教育を変える!
1991年から子供の教育について「これを教えなきゃ!」というメモを取っていた。
このメモを活かし、「論理思考」「実社会の知識」「コミュニケーション力」などを合わせた「社会力」が必須と考え、受験勉強だけでは決して得られないこれらのスキルとプログラミングを楽しく学べる寺子屋塾「子ども社会塾」を現在開校している。
◆谷藤賢一氏プロフィール
1987年よりシステム開発の現場に従事。
人材営業に転身しエンジニアの育成・派遣の営業、人事を行う。
株式会社C60を起業、人材支援と教育事業を手掛ける。
2018年、実社会の知識にプログラミングと速読を加えた寺子屋塾「子ども社会塾」を開校。
株式会社C60代表取締役
総合プログラミングスクール「子ども社会塾」塾長
米国CCE,Inc. GCDF-Japanキャリアカウンセラー
J・ABA日本行動分析学会会員
NPO法人キーパーソン21正会員
NPO法人学生キャリア支援ネットワーク産学担当
テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」出演
著作
「いきなりはじめるPHP
〜ワクワク・ドキドキの入門教室〜」
「気づけばプロなみPHP〜ゼロから作れる人になる〜」
「ロボットプログラミング大作戦」
世界23ヶ国5万人のユーザーを持つプラネタリウムソフト「SUPER STAR」開発者
コメントをお書きください