有限会社 国際宇宙サービス
代表取締役
山崎大地氏
2015.4.7 16:00
★主なプロフィール:
有限会社国際宇宙サービス代表取締役社長
ASTRAX民間宇宙ビジネスホールディングス代表
航空宇宙工学技術者(専門は有人宇宙技術)
元国際宇宙ステーション運用管制官(熱制御・環境制御・実験支援)
ヴァージンギャラクティック社宇宙船スペースシップ2搭乗宇宙飛行士
エックスコアエアロスペース社宇宙船リンクス搭乗宇宙飛行士
ワールドビューエンタープライズ社ボイジャー搭乗宇宙飛行士
ASTRAX宇宙飛行士/無重力飛行士
無重力チャレンジャーZERO代表
千葉県柏市男女共同参画推進審議委員会評議委員
埼玉県志木市カパル宇宙プロジェクト推進室長
株式会社AMBITIOUS最高宇宙責任者
鹿島学園高校民間宇宙飛行士養成コース・民間宇宙ビジネスコース講師
鎌倉スカイウォッチングクラブ代表
鎌倉スペースアカデミー代表
鎌倉宇宙フェア実行委員会委員代表
宇宙ビジネスプロデューサー
宇宙ビジネスインキュベーター
宇宙的自由人
PR
◆業種
民間宇宙サービス事業、民間宇宙飛行士、無重力飛行士
◆子供のころになりたかったものは?
ガンダムに乗りたかった。
乗り物全般が好きで、アニメ「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」が好きだった。
小学校から、鎌倉にある横浜国立大学教育人間科学部の附属小学校に通った。
この小学校は、日本の小学校教育の研究の場でもあるので、普通の公立小学校のカリキュラムとは異なり、子供達が夢中になる事があると、教科書は度外視して、どこまでも自由にとことんチャレンジさせてくれた。
入学試験では知能試験、運動能力試験などもあるが、最後は抽選で決まる。
実は私の祖母も母も、そして私の娘もこの小学校の出身者だ。
祖母は、海軍の家系で厳しく育ったが、学校では自由。
そんな祖母に育てられた母は、学校でも家庭でもかなり自由に育ったようだ。
私はそんな母に育てられたので、学校でも家庭でもさらに自由だった。
(実は私の娘もその学校に通っていて、親子4代ということになる。)
僕が生まれた頃、母は身体が弱くなっていたので、父と姉と家族みんなで助け合って生活していた。
父は家電メーカーの研究者をしていたが、家では掃除も洗濯も買い物も食事も、ありとあらゆる家事を手伝って母を助けた。
私は父が54歳の時の子なので、特に定年退職後は、いつも一緒に遊んでくれた優しい父だった。
遊ぶといっても、家電の分解や修理が主。
おもちゃも父の手作りのものが多かった。
ものが壊れても、何でも自分たちで直してしまうので、新しい電化製品やおもちゃを買う事はほとんどなかった。
年金生活だったので、基本的に我が家はいつも貧乏だった。
小学校の4~5年生の頃になると、星や星座に興味を持ち始めた。
天体望遠鏡が欲しかったのだが、天体望遠鏡を買うお金がなかったので自分で作ることにした。
本屋で買ってきた「天体望遠鏡の作り方」という本を片手に、子供ながらに試行錯誤。
家の雨といを引っこ抜いてきて、表面を白く塗り、内側を黒く塗って望遠鏡の筒とし、三脚は父親からもらったカメラ用のものを使い、他の部品は、もっていたおもちゃの望遠鏡を分解して使用した。
初めて手作り望遠鏡で宇宙を見た時、そして「土星の輪」が見えた時はもの凄く感動した。
「いつかこの土星を、間近で見たい!」それが私の夢になった。
元々宇宙が好きだった私は、益々宇宙が好きになり、スペースシャトルのプラモデルを作り上げ、いつかこの宇宙船に乗ろうと思った。
機械に対する興味は家電に留まらず、中学生で自転車、高校生でバイク、大学生では中古で買ったイギリス車のミニクーパーを全部分解して、自分の理想通りに改造しながら一から組み立て直した。
部品一つ、ネジ一つ、何処に使われるかを把握する。
機械は分解した通りに組み立てれば元に戻るのだ。
子供の頃から父に教えられてやっていたことを繰り返していただけだったが、それがとても楽しかった。
1985年、中学1年生の夏に、ボーイスカウトの一員として渡米。
世界中のスカウトたちと1週間キャンプ生活をした後、ホームステイをしながら訪れたワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館を訪れた。
そこで、人類初の動力飛行機であるライト兄弟が作った飛行機、人類初の月面着陸を成功させた実物のアポロ宇宙船、スペースシャトルの試作機や宇宙で楽しく活動している宇宙飛行士の姿などを見てとても感動した。
日本では、宇宙船はアニメの中でしか見た事がないのに、この国では僕が生まれる前から本物の宇宙船を飛ばし、人を月まで送り、誰でも気軽に宇宙に行ける時代になりつつあったのだ。
アメリカという国が日本よりもどれだけ進んでいるのか、果てしない差を痛感したのもこのときだった。
「いつかNASAで働きたい!」
当時中学校1年生だった僕はそう確信した。
その直後、日航ジャンボ機墜落事故が発生。
そして半年後にはアメリカのスペース・シャトル「チャレンジャー号」の爆発事故を見てショックを受けた
しかし、父から受け継いだ「壊れても自分で直す」という前向きな精神と、「いつか土星に行きたい!」「いつかNASAで働きたい!」という思いは変わらず、東海大学工学部航空宇宙学科に入学した。
大学3年生の時、映画「アポロ13」を観て更に感動した。
この映画では、アポロ宇宙船の運用管制官の活躍が描かれていたこともあり、将来NASAで宇宙船の運用管制官になることを決意。
就職氷河期の時ではあったが、大学生の頃からJAXA(当時はNASDA)の筑波宇宙センターに通い、航空宇宙学会や国際的な宇宙シンポジウム等に参加した。
そこでは、宇宙関連企業のエンジニアの方々とも交流があり、ロケットの誘導システムや国際宇宙ステーションの運用管制システムなど、特殊なソフトウエア開発企業である三菱スペース・ソフトウエア株式会社に内定した。
卒業と同時に就職し、国際宇宙ステーションの宇宙実験棟の中では最大の宇宙実験棟「きぼう」の運用管制官として、開発、運用準備に携わった。
小さい時から機械いじりが大好きだったので、数十万部品を集結した「きぼう」内のネジ一本、配線一本まで理解した。
1999年12月 、念願が叶いNASAの国際宇宙ステーション実運用訓練生に選ばれ、2000年1月からヒューストンにあるジョンソン宇宙センターで訓練を受け、その後、運用管制官として国際宇宙ステーションの建設に従事。
2000年末には女性宇宙飛行士と結婚。
2002年に娘が生れてからは、日本にほとんどにない妻に変わって子育てを行った。
当時ではまだまだ珍しかった、男性としての育児休暇も取得。
同時に両親の介護もあった。
私は父が54歳、母が40歳の時に生まれたので、この頃の父は84歳、母も70歳になっていた。
でも、子供の頃からいつも家族で助け合って生きてきたので、家事も育児も介護も自信があった。
自分の会社や娘の保育園は茨城県つくば市にあり、高齢の父と母は神奈川県鎌倉市の実家にいた。
両親に介護施設に入ってもらいたくても、待機児童ならぬ待機老人が400人も待っている状態。
やっと介護施設に入れたと思っても、父と母は別の施設、しかも最長3ヶ月しかいられない決まりだった。
そのため入所できたらすぐに次の施設を探さなければならなかった。
両親は高齢のため、身体のあちこち弱っており、すぐに病気になった。
内科、外科、眼科、歯科、皮膚科、泌尿器科、脳神経外科・・・ありとあらゆる病院にかかった。
父は両目の視力を失い、耳も遠くなり、痴ほうも始まった。
徘徊、声出し、完全介護。
そしてまだ0歳児だった娘は、夜泣きはするし、保育園ではしょっちゅう病気をもらってくる。
子育ても介護も、日夜予想外のことが起こり、まったく自分の思った通りに進まないし、自分自身息つく時間もない。
両親の介護は姉とヘルパーさんと交代で行っていた。
普段はフルタイムで国際宇宙ステーションの運用管制官として働きながら、介護のために週に2回、娘を連れて茨城県のつくば市から、神奈川県の鎌倉市まで車で通い続けた。
片道3時間、往復6時間の道のりである。
実家では、両親を散歩に連れ出し、病院に連れて行き、下の世話、入浴、実家の掃除、ご飯を作って食べさせる・・・そしてまた娘を連れてつくばに戻るという生活。
毎日睡眠不足が続いていた。
家で寝ている時間がなくて、出社してから仕事の合間に会社のトイレの個室に新聞紙を引いて床で仮眠をとる事もしょっちゅうだった。
そんな生活が数年続いた。
有給休暇は全て育児と介護のために使い果たした。
会社を休まないでもいいように、実家にいても、介護施設にいても、病院にいても、どこにいても仕事ができる状態にもしてもらった。
仕事のミーティングも、僕が出社できた時間に合わせてみんなに集まってもらえるようにしてくれた。
そんな会社の同僚の協力があってなんとかやりくりしていたが、私の身体は限界ギリギリの状態だった。
日本にほとんどいない妻には一切協力してもらえない。
かといって妻に仕事を休んでもらうわけにもいかない。
育児は親としての責任。
介護は子供としての責任。
どちらも放り出すことはできない。
しかし、仕事というのは誰かに代わってもらうことができる。
消去法で考えると、私の仕事の負担を減らすしかなかった。
妻には宇宙飛行士としての仕事が続けてもらえるようにと、長年の夢だった国際宇宙ステーションの運用管制官としての仕事を辞職することを決意した。
1998年から10年以上かけて建設していた国際宇宙ステーションはその当時もまだ建設真っ最中、志半ばだった。
仕事を退職し、少しは楽になるかと思いきや、現実は甘くは無かった。
当時妻が訓練を行っていたアメリカに娘を連れて渡った。
今度はアメリカで育児、日本で介護という生活に代わった。
日本とアメリカを数ヶ月おきに何十回も行き来した。
つくばと鎌倉の距離とはまったく比較にならない、本当に時空を超えた育児と介護だった。
アメリカでの私の立場は、外交官の奥様方と同じだった。
外交官の奥様方は、外交官の家族ビザを持っているが故に海外では仕事も出来ない。
夫がいなければ、銀行口座もクレジットカードも持てず、電気屋に行って一人で携帯電話一つ買う事も出来ない。
就労許可と社会保障番号がもらえないからだ。
不便さゆえ、外務省に交渉しても「前例がない」と一蹴。
実際は、着付けの先生や日本語の先生をしている人もいる。
それを問題視すれば、なおさら圧力をかけられた。
仕方がないので外交官ビザを捨て、知人の伝手をたどって総理大臣からグリーンカード(米国永住権)取得のための推薦状をもらい、数年かかかってやっとの思いでグリーンカードを取得した。
非常に時間はかかったが、公式にアメリカでの就労許可も取得でき、合法に働けることになった。
同時に社会保険番号ももらえ、ついに私は電気屋に行って自分で携帯電話を買うことができたのである。
アメリカでは、税金を使ってどんな豪華な一軒家を借りるより、自分で家を買おうと思った。
日本でも家を持ったことがなかったので、マイホームを持つことも長年の夢だったのだ。
どうせ家を買うならアメリカでしかできない生活をしようと考え、船上生活を選んだ。
実際にマリーナで船上生活しているNASAの友人の生活は、仕事のあとに同僚を誘って船上パーティーをしたり、桟橋でバーベキューや映画の鑑賞会をしたり、とても優雅で楽しそうなライフスタイルだった。
しかし、それも日本の宇宙機関からは反対された。
宇宙飛行士の家族が船上生活なんて許されないと。
それでもなんとか抜け道はないかと考え、わざわざ米国法人を作り、法人名義の事務所扱いで船を購入し、言われるがまま陸地にも無駄にマンションを借りて、なんとか夢だった船上生活を実現させた。
一般人であれば、働くことも、住む場所も自由に選べる。
当たり前すぎて気にもならないだろう。
しかし宇宙飛行士とその家族に、日本国憲法でうたわれている基本的人権や、就労の自由、居住の自由などは一切なかった。
妻の宇宙飛行が終わるまではあらゆることを我慢するしかなった。
従わないと妻は宇宙に行けなくなると脅されていたからである。
2010年4月、妻はスペースシャトルディスカバリー号に搭乗し、国際宇宙ステーションへの補給ミッションのクルーとして16日間の宇宙飛行を行った。
スペースシャトルがフロリダのケネディ宇宙センターの発射台を飛び上がった瞬間、妻を宇宙に送り出すという私の使命は全て終わった。
そして、その瞬間から、様々なことを犠牲にし、我慢し続けてきた娘と私の新たな人生が始まったのだった。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
毎朝お風呂に入ること。
全く欠かさずというわけではないが、中学生のころからほぼ毎日続けていることである。
朝にまずお風呂にゆっくりつかって、今日1日でやらなければならないことを、どういう順番でやっていくか、ということをじっくり考える時間をとることにしている。
また、学校に行って眠いままで勉強しても、あるいは会社に行って眠いままで仕事をして効率が良くない。
それよりも、朝お風呂に入って完全に目を覚ますことで、すっきりした状態で1日をロケットスタートさせることができ、そのままの勢いで1日をめいっぱい頑張れるからである。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
北原照久さん
TV東京の「開運なんでも鑑定団」の鑑定士でおなじみ、「ブリキおもちゃ博物館」等の館長で世界的コレクターである。
この方に出会っていなかったら、今の自分はないだろう。
妻の宇宙飛行が終わり、2010年10月に急遽日本に帰国させられた際、国からのサポートは一切なく、仕事もなく、貯金もなく、住む家も決まっておらず、このままではコンビニでアルバイトでもしなければ生活できない状態に陥っていた。
そのころ、あるダンボール会社の社長さんがワインパーティーに誘ってくれたことがあった。
だが仕事も貯金もなく、住む家も決まっていなかった私はそれどころではなかった。
何度も断ったが、パーティー当日に「今更パーティーに来ても来なくても同じじゃないかい?」と言われ、「そりゃそうだ」と思い、とりあえずそのパーティーに参加することにした。
そこは、経営者や女優さん、著名人等が集まった会だった。
その中にFLAT4というフォルクスワーゲンのカスタムパーツを販売している会社を経営している小森さんという方がおり、後日パーティー参加者のみんなでその方の別荘に遊びに行く事になった。
1ヶ月ほど経った12月にみんなでお邪魔させていただいたときのこと。
実はその別荘のすぐ近所に北原照久さんの別荘があり、急遽、先に北原さんのお宅を訪問してみんなでランチをしてから小森さんの別荘に行くことになった。
私はそのとき娘と娘の友達を子守する必要があり、二人の子供を連れて参加した。
だが子連れだったので、大人のパーティーにはほとんど参加できず、ずっとお庭で子供達と犬たちと遊ぶので精一杯だった。
そして帰り際になり、北原さんが声をかけてくださった。
ただその時は名刺交換しただけでほとんど会話もできず、私は主夫をしていて、今は仕事もなく、コンビニでアルバイトでもしようと思っていることだけ伝えて、すぐ近くの小森さんの別荘にいくことになってしまった。
そしてその晩は小森さんの別荘に泊めていただき、翌日の朝、別荘の屋上のベンチで海を見ながらゆっくりコーヒーを飲んでいたとき、突然私の携帯電話が鳴った。
前日に会ったばかりの北原さんからだった。
その日札幌で仕事があった北原さんは、羽田空港の本屋さんで私の本を見つけて買ってくださり、新千歳空港に向かう飛行機の中で私の本を読んでくれたと言うのだ。
そして北原さんはこう言ってくださった。
「大地君、君の本を羽田空港で買って飛行機で読んだよ。感動した。飛行機の中で3回泣いたよ。君はこれまで奥さんのため、子供のため、両親のため、そして日本のため、本当によく頑張ってきたね。これからは君が主役になる番だ。君の夢を叶えなさい。コンビニでアルバイトなんてしなくていい。僕が精一杯応援するから頑張ってね」と。
私は電話口で思わず泣いてしまった。
日本に帰ってきてからというもの、誰もが「奥さん凄いね」「奥さん紹介して」「奥さんに講演を頼みたい」奥さん、奥さん、奥さん・・・・と言っていた。子育てだけでなく私の両親の介護まで、宇宙飛行士の訓練をしながら妻がやったと思われていた。
一方私は何もしていないダメ夫のように言われた。
悔しかった。
しかし、北原さんだけが私のことをしっかり理解し、心から褒めてくれたのだ。
そしてそれだけではなかった。
それからというもの、北原さんはご自身の講演会に必ず私を呼んでくれて、ステージで私を紹介してくださり、私の書いた本も紹介してくれ、テレビにも、ラジオにも、雑誌にも出してくださり、ありとあらゆる手段をつかって怒涛の応援をしてくださったのだ。
私も北原さんの期待に応えようと、必死に働いた。
おかげで私自身の講演も増え、本も売れた。
だが、どんなに仕事が増え、どんなに本が売れても、私は1日100円バーガー1個だけ、贅沢できる日は280円の牛丼1杯という生活を続けた。
全国を講演で回っている時も、宿泊はネットカフェやカプセルホテルを利用して節約した。
それから1年半後、その努力の甲斐あって、私の銀行口座には約2000万円のお金が貯まっていた。
そして私はそのお金で、イギリスのヴァージンギャラクティック社の宇宙船「スペースシップ2」の宇宙飛行に契約したいと考えた。
小さい時からの夢である宇宙に飛び出すために。
ちょうどそのころ北原さんが「Facebook 100の言葉」という本を発売され、東京八重洲ブックセンターで北原さんの出版記念トークショーが行われた。
私はその会場でその本を買い、早速開いてみた。
その本は、100個の有名人や著名人の名言などを紹介しているのだが、その91番の言葉にイギリスのリチャードブランソン氏の言葉が紹介されていた。
「挑戦しなければ何も得られない。我々は誰もが世界を変えられる」
リチャード・ブランソン氏は、イギリスのヴァージンギャラクティック社、ヴァージン アトランティック航空、ヴァージンレコード等、ヴァージングループ数百社を束ねる会長である。
そしてこのページには、北原さんがモデルになったヴァージンアトランティック航空のポスターの写真が紹介されおり、なんと私が書きこんだFacebookのコメントも一緒に紹介されていたのである。
「この10年間、日本初のママさん宇宙飛行士実現ということにかけてきました。 これからは自分の夢に向かって、リチャードブランソン会長に負けないくらい頑張りたいと思います。そして北原さんが70歳になられる前に、北原さんを絶対宇宙にお連れいたします」
運命を感じた私は、北原さんの発売されたばかりのその本を片手に、その出版記念トークショーの翌日、アポもなく、完全に突撃状態で、リチャードブランソン会長に会うためにヴァージン社のあるイギリスに飛んだのだった。
ではなぜ私がいきなりイギリスに行ったのか。
宇宙旅行者がヴァージンギャラクティック社の宇宙飛行に契約する場合、普通は世界各国にある旅行代理店を通じて契約することになっている。
しかし私は宇宙旅行者になりたいわけではなかった。
民間宇宙飛行士として、宇宙旅行者をサポートする仕事をしたかったのである。
そのためには、旅行代理店で申し込んだのでは普通の旅行者と同じになってしまう。
そこで、ヴァージンギャラクティック社と直接契約し、もしできることならリチャードブランソン会長の目の前で契約書にサインをし、さらにその契約書を一緒に持って、ツーショット写真を撮りたいと考えていたのだ。
たまたまロンドンからほど近いファーンボロー空港で国際航空ショーをやっており、その会場でヴァージンギャラクティック社による記者発表イベントがあることを知っていた私は、「きっとそこにリチャードブランソン氏も来るに違いない」、そう直感した。
そしてヴァージンギャラクティック社で宇宙飛行に契約している知り合いの伝手をたどって頼んでもらい、何とかそのイベントに私も参加することが出来ることになった。
案の定、リチャードブランソン会長がそこにいた。
しかし彼はステージの上におり、客席にいる私からはまだまだ雲のうえの存在だった。
その記者発表イベントが終わり、リチャードブランソン会長は下に降りてきて、世界中のメディアの取材を順番に受けていた。
それが小一時間続いた後、今度は宇宙旅行に契約している人たちへのサービスで、握手をしたりサインをする時間が設けられた。
そこには長蛇の列ができていた。
私もその列に並んで、握手をしたり写真撮影をしたりしたが、次から次へと流れ作業のように順番が送られていった。
私は再びその列に並び、今度は娘にぬいぐるみをもたせて写真を撮った。
しかしまた流れ作業のようにあと送り。
もう一度並んだが、結局ゆっくり話すチャンスはなかった。
そしてリチャードブランソン会長はその場を去り、人だかりや長蛇の列もなくなっていった。
しかし私は見逃さなかった。
彼が近くのトイレに入っていったのだ。
他の人は誰も気づいていないようなので、私はトイレの前で待ち構え、出てきたところをつかまえて彼に話しかけた。
何度も列に並んでは握手したり写真を頼んだりしたので、彼も私のことを覚えていてくれた。
そして、宇宙飛行に契約したいので一緒に写真を撮って欲しいと頼んだ。
ただ彼はすぐに次の仕事に行かなければならないので、その日の夜にヴァージンで宇宙飛行に申し込んだ人が参加できるパーティーがあるからそこにいらっしゃいと言ってくださったのだった。
その夜私は、ロンドン市街にあるホテルの最上階で開催されたそのパーティーに参加した。
その会場には200人くらいの宇宙旅行契約者がひしめき合っていた。
その中に、日本人の宇宙旅行者が何人か参加しており、私はその人たちと一緒に端っこにあるソファーに座って話をしていた。
すると、彼らはリチャードブランソン会長に会ったら日本から持ってきた日本酒をプレゼントしたい、一緒に写真を撮りたい、彼の本にサインをして欲しいなど、それぞれの希望があった。
ただ、みんな英語があまり達者ではないという。
それなら私が皆さんの通訳をしてそれぞれの希望を叶えるので、私の夢にも協力してほしいと提案した。
私の望みは「リチャードブランソン会長の目の前で宇宙飛行の契約書にサインをして、その契約書を彼と一緒に持って写真を撮ること」。
その歴史的瞬間を記録するために、みんなに写真や映像の撮影をお願いしたのだ。
彼らは快く承諾してくれた。
するとなんと、突然リチャードブランソン会長が一人で会場にやってきて、私たちのソファーの隣のソファーに座ったのだ。
まだパーティーは始まっておらず、会場にいる人たちもそれに気づいていなかった。
あまりの出来事だったが、私は「今しかない!」と思い、日本人グループでリチャード・ブランソン会長を取り囲み、まず自分たちが日本から来たことを伝えた。
すると彼は「大震災は大丈夫だったか?協力できることがあればなんでも言ってくれ」と言ってくれた。
お礼を言った私は、それに引き続き、一緒にいた日本人宇宙旅行者たちの希望を伝え、その全てを叶えた。
そして最後に「あと二つお願いがあります」といった。
まずは、日本で大変お世話になっている私のメンターの北原照久さんの本にサインをして欲しいということを伝えた。
彼は91番目の自分の言葉と北原さんのヴァージン航空のポスターと私のコメントのある、あのページに快くサインをしてくださった。
次にもう一つのお願いをした。
「この場で宇宙飛行に契約するので、一緒に契約書を持って写真を撮って欲しい」と。
するとリチャードブランソン会長は「普通は旅行会社を通じて申し込むのものだが、わざわざ会長の私のところに申し込みに来た人は君が初めてだ。私が保証人になろう」といって、彼が先にその契約書にサインを入れてくれ「君も書きなさい」といって、その場で両者で契約書にサインをしたのだった。
そしてリチャードブランソン会長はその契約書をもって、二人で握手をしながら満面の笑みで写真を撮ってくれたのだ。
その様子をFacebookを通じて日本で見ていてくれた北原さんは、再び「感動で泣いた」とコメントが入った。
その翌年、今度はリチャードブランソン会長が所有するネッカーアイランドのご自宅に一週間ほど滞在できるという機会があった。
しかし世界の宇宙旅行契約者のなかから抽選で選ばれた12組だけが参加できるというものだった。
さらに滞在費は一泊50万円。
さらに行き帰りの交通費も加えると総額500万円程度かかるものだった。
ちょうどそのころ、宇宙飛行の契約を支払ったあとで全てのお金を使い切ってしまっていた私は、北原さんに「またコンビニでアルバイト生活かも」と言わなければならない状況だった。
すると北原さんは、ある社長さんを紹介してくださった。
その方は「リチャードブランソン会長に会うのが一生の夢だ。だから、アポなしでリチャードブランソン会長に会えてしまった君のことが羨ましい」と言っていた。
そこで、「リチャードブランソン会長のお宅に行くのには数百万円かかりますが、行ける可能性があるので、もしその権利が得られたら一緒に行きますか?」と尋ねてみた。
するとその方はぜひ行きたいとおっしゃった。
そこで私はヴァージンギャラクティック社にメールして「どうしても参加したい」と熱い思いを何度も伝えた。
しかし毎度「抽選です」という冷たい回答。
それを何度も繰り返したが、結局「抽選だから待っていてね」という返事しか得られなかった。
そこで最後に念押しで「抽選なのはわかったので、ラッキーニュースを待っている!」と返事を打った。
するとなんと、抽選日の数日前に「Welcome to Necker Island!」というメールが届いたのだ。
熱意が通じたのか、私たちだけ、抽選日の前にリチャードブランソン会長のお宅にいけることになってしまったのである。
その島での様子はまた別な機会に詳しく紹介するが、そこはまるで天国のような島で、世界から集まってきた12組の凄い方々との交流は今も続いている。
このように、北原照久さんとの偶然の出会いによって、私の人生のスイッチは完全に切り替わり、今は完全に自分の宇宙への夢、そしてみんなの宇宙への夢に向かって進むことができている。
昨年には、ヴァージンだけでなく、XCORエアロスペース社、ワールドビューエンタープライズ社という民間宇宙旅行会社とも宇宙飛行の契約をし、そのうち1社とは日本の総代理店契約も結ぶことができた。
来年2016年には少なくても4回宇宙に行く予定だ。
そしてそのうちの1回は、「Facebook 100の言葉」の約束通り、北原さんとともに飛び立つことになっている。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
まず、前項で紹介させていただいた北原照久さんの言葉。
「大地君、君の本を羽田空港で買って飛行機で読んだよ。感動した。飛行機の中で3回泣いたよ。君はこれまで奥さんのため、子供のため、両親のため、そして日本 のため、本当によく頑張ってきたね。これからは君が主役になる番だ。君の夢を叶えなさい。コンビニでアルバイトなんてしなくていい。僕が精一杯応援するか ら頑張ってね」
この言葉によって私は、もう一度自分自身の人生を歩んでいいのだと確信し、自分の人生のスイッチを切り替えることができた。
そして同じく前項で紹介したヴァージングループのリチャードブランソン会長の言葉。
「挑戦しなければ何も得られない。我々は誰もが世界を変えられる」
この言葉によって、私はどんな困難にも立ち向かい、どんな夢にも挑戦することができるようになった。
そして今は世界中の人たちが、気軽に宇宙に行けるような時代を作るために挑戦している。
この二つの言葉と出会いがなければ、私の人生は今とは全く違っていたものとなっていただろうし、もしかしたらこの世にいないかもしれない。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1つめは、結婚、出産、育児、介護、そしてコロンビア号事故、そして退職
2000年に結婚、2002年に娘が生まれ、同時に両親の介護も行っていた。
それに加え、2003年にスペースシャトルコロンビア号の事故があり、日本の宇宙開発計画が大幅に変更になった。
それにより、妻(当時)はロシアに訓練に行くことになり、さらに帰国直後から今度はアメリカに赴任することになり、時空を超えて地球規模で育児と介護を行うこととなった。
その結果、2004年に私は会社を辞職し主夫となった。
当時は主夫という立場や肩書きはなく、無職かヒモかニートと呼ばれていた。
夢の宇宙開発に携わっていた頃はどんなに苦しくても天国だったが、退職してからは逆に地獄に変わった。
本気で自殺しようと思っていた。
2つめは、民間宇宙サービスの会社を起業した時
死ぬ気になれば何でもできると思い、2005年1月、民間宇宙旅行などを扱う日本初の専門会社、有限会社国際宇宙サービスを設立した。
アメリカの生活が外交官ビザで、外交官の妻と同じ条件で生活しなければならないのなら、日本で会社を創ってビジネスとして日本とアメリカを行き来しようと考えた。
そうなると観光扱いになり、毎回3ヶ月以上アメリカに滞在できなかったが、日本とアメリカを行き来しながら、日本で新しい宇宙ビジネスを創り「宇宙旅行は日本人が思っているよりもっと身近なもの」という事を一般に広く伝えたいと思った。
その後、アメリカの宇宙船開発企業のロケットプレーン社と世界初の民間商業宇宙飛行士として業務提携。
2010年にはスペースシャトルの宇宙飛行をサポート。
しかし、その時再び全てを失い、再び0からのスタートとなった。
3つめは、北原照久さん、リチャードブランソン会長との出会い、そして本格的な民間宇宙飛行士へ
北原さんが宇宙飛行士の夫から、自分が主役になって夢を叶える番へと切り替えてくださった。
2012年には籍を抜き、身軽になって無重力フライト事業を開始。
そして、リチャードブランソン会長と出会い、ヴァージンギャラクティック社と宇宙飛行契約締結。
さらには2014年にXCORエアロスペース社、およびワールドビューエンタープライズ社との宇宙飛行契約を締結。
早ければ来年から、民間宇宙飛行士として何度も宇宙飛行を行うことになっている。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
問題、障害、試練はそのときどきで色々あったが、前例や固定概念に縛られず、その都度あの手この手で解決策を模索してきた。
「できない理由」を考えるのではなく、「どうしたら目的を達成できるか」ということだけを考える。
そして一生懸命な熱い思いを周りの人に伝え、みんなに協力してもらう。
同時にみんなの願いもしっかり聞いて、どんどん協力して叶えていく。
一人の力より、二人。
二人の力より三人の力の方がはるかに大きい。
あとは得意の行動力と諦めない根性で道を切り拓いてきた。
◆夢は?
民間宇宙企業(ASTRAXグループ)を1000社つくりたい。
そして、世界中の人を気軽に宇宙に連れて行けるようにしたい。
また、宇宙船を利用して、アメリカやヨーロッパに1時間で行けるようにしたい。
そのほかにも、大小含め、私には夢が1000個以上あり、日々叶い続け、また日々増え続けている。
しかし、人生で最大で最後の夢は「土星を間近で見る事」!
それは小学生のころ、初めて自作の天体望遠鏡で土星を見た時からずっと変わっていない。
山崎大地オフィシャルサイト
http://tem794.wix.com/taichi-01
有限会社 国際宇宙サービス(ASTRAX)
コメントをお書きください
Mark Komatsu (月曜日, 20 4月 2015 15:29)
山崎大地さんの宇宙ビジネスを通じて、宇宙観により戦争なき地球を一緒に創って行きたい。
Miki Kanakubo (火曜日, 21 4月 2015 08:22)
GNO(義理、人情、恩返し)
ピンチがチャンス。GNOの実践素晴らしいです。
感謝、ありがとうございます×∞です✨*\(^o^)/*
Yuuichi Goseki (火曜日, 21 4月 2015 12:41)
夢が叶うまで追い続けることが夢を叶える由一の手段。
私もいつか必ず宇宙へ行きます!
Hiroki Inagaki (土曜日, 04 6月 2016 19:08)
諦めない心と具体的行動の積み重ね。あらためてストーリーを読んで感動しました!いよいよ宇宙時代の幕開けですね。