株式会社佐田
代表取締役社長
佐田展隆氏
2015.9.2 13:00
生年月日:1974年9月23日
出身地:東京都
◆業種
工場直販オーダースーツ製造・卸・販売
◆子供のころになりたかったものは?
宇宙船のパイロット
幼少の頃、宇宙や恐竜が好きだった。
恐竜にはなれないから、宇宙船のパイロットになろうと思った。
両親が本棚に図鑑を用意していてくれたのがきっかけだと思うが、有人飛行、月面着陸と世間を賑わせたアポロ計画の影響も大きい。
小学校の高学年になるとサッカー選手に憧れた。
元々スポーツ好きだったので、小学校3年生から始まったテレビアニメ「キャプテン翼」が大好きで夢中になった。
地元のサッカークラブに入り高校まで続けた。
高校は東京都立西高等学校で受験校だったが、サッカーばかりしていて大学受験に失敗。
一橋大学がA判定だったのをいいことに、滑り止めを受けず浪人する事になった。
しかし翌年も失敗、結局2浪でやっと大学に入った。
人生初の挫折。
このときは父に土下座して浪人を許して貰った。
父も1浪だったので、現役で落ちた時は何とも思っていなかったが、2度目に落ちた時はかなりの衝撃だった。
父は正義感が強く厳しい反面、「自分のポリシーには妥協するな。」という教えで、自分で責任のとれる事なら何でも自由にやらせてくれた。
但し「どんなことがあったとしても人のせいにはするな。」「手抜きをするな。」と何度も繰り返し言われた。
また学校の規則や社会のルールも自分で考えて正しいと思わなければ妥協するなと言い、小学生の頃は父が子どもたちに話をしているとき学校に行く時間が来ても「俺の話を聞いていた方がいいから。」と母に言って本当に学校を休んだこともある。
話の内容はニュースに対する考え方や意見を子どもたちに求めて解説してくれる等、その時々の政治や歴史の話が多かった。
但し、父がこれだけはというような「ある一線」を超えて言う事を聞かなかったらとんでもなく殴られた。
健康に対してもそうで、私は元々食が細く食卓につくのも嫌になるくらい「食べろ、食べろ」と言われ、完食するまで、部屋に閉じ込められていた。
私の代までの佐田家は女系家族で、父も祖父も養子だった。
私が生れた時、創業者である曾祖父は他界していたが初めての男子の誕生に祖父と父は大喜び。
「産まれた」と会社に連絡が入るや否や、待望の男子誕生に祖父と父が喜び勇んで駆け付ける途中スピード違反で捕まったそうだ。
故に父は健康面が心配だったのだろう。
しかし、私の後は男子ばかりの3兄弟、加えて母の姉妹の子どもも男子二人、まるで5人兄弟のように楽しく愛されて育った。
そんな父が君主独裁制を引いても母はいつも優しかった。
しかし母も強い人で、エスカレーター式の女子校に通っていたが学習院大学に行きたくて推薦ではなく受験して入った程。
その影響で私も高校、大学と国公立、受験を乗り越えた。
一橋大学に入学すると父の勧めで寮に入った。
父も三男の弟も一橋大学で、同じ寮生活を送った経験がある。
5人兄弟の様に育った従兄弟の片割れも一橋で、私のいた寮に入った。
弟が現役で、従兄弟が1浪で、私が三年の時に入学して来て、同じ寮に入った。
今は違うが当時は4人部屋、各部屋に雀卓がある環境の中、多くの人間関係を学んだ。
4代目の長男として生まれても、跡取りを意識させられた事はなかった。
次男の弟はフライフィッシングがしたいがために北海道大学農学部水産学科に入学した自由人だが、男子が3人もいるので誰が後を継いでもいいと思っていた。
それなので大学を卒業すると一般企業に就職した。
しかしながら最終的に自動車会社と繊維会社が選択肢として残ったとき、よくよく考えて繊維会社を選んだのは後を継ぐ事になった時のことを少しは考えての事だ。
そうはいってもこの時は、まさか自分が社長になるとは考えていなかった。
誰もやりたがらなかったら、私が後継だとは思っていたが、その時、やりたい奴がやれば良いと思っていた程度だ。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
毎朝5時に起きて犬の散歩をする。
祖父が秋田出身という事もあり、秋田犬を2頭飼っている。
よほどの嵐がこないかぎり続けている。
また、アロワナの世話もしている。
直ぐ下の弟が北大に行く時に置いていったアロワナを実家が飼っており、私が結婚して実家を出るときに貰い受けた。
名前は、弟が2万円で買ったので、「ニーマン」と名付けた。
その後、代替わりを何度かし、今のアロワナは四代目ニーマン。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、祖父と父
祖父は、「おしゃれとはおもてなしの精神」と言っていた。
この「おもてなし」とは相手の幸せを思う事、そしてこの幸せには自分も含まれる。
自分が幸せでなければ人を幸せにはできないと教えられた。
日本人は戦前から、裃(かみしも)、紋付き袴、軍服等の正装をして招待してくれた相手に失礼のないよう身なりを整えた。
また相手側も自分のために相当に気をつかってくれたことを喜んだ。
おしゃれは自分が良く見られたいからするものではない。
真のオシャレとは、自分に会ってくれる相手への感謝と敬意を伝える為にするものだと、祖父は言っていた。
戦後、安いのでも大卒月収一月分はしたオーダースーツを皆が着ていたのがなぜか?
祖父は「日本人の意地」と教えてくれた。
当時は、何をするにもアメリカ人と商談しなければならない時代、敗戦国の日本人がアメリカ人と対等に話すにはスーツが必要だった。
これがスーツ文化のベースにあり、その精神が奇跡の大復興を遂げたのだ。
また女性と初デートの時は、親戚中から自分と背丈のあう人を見つけスーツを貸してくれと頼み込み、やっとの思いでデートに臨んだそうだ。
一か月分の給料に値するスーツは、正に一張羅(いっちょうら)。
そんな簡単に貸してもらえるはずがない。
相手の女性としても、そんなにまでして自分のためにしてくれたと惚れ直す時代だった。
現代の日本は新人の営業マンでもスーツを来ているが、欧米でのスーツはエグゼクティブの象徴だという。
この話を祖父から聞いて、エグゼクティブスーツを着こなす日本人に民族の意地、おもてなしの心を思い出してほしいと思った。
2、高杉晋作
行動実践の人
吉田松陰が主宰していた松下村塾のエリートであった高杉晋作は、知行合一(ちこうごういつ)の教えを実践した人と言える。
陽明学のひとつである「知行合一」とは、行わない事は知らないのと同じという意味。
私も行動実践の人でありたい。
3、本では司馬遼太郎
司馬遼太郎が好きになったのは父が好きだったから。
彼の代表作はほぼ読んだ。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「面白き こともなき世を 面白く」
高杉晋作、辞世の句
幕末に活躍し、やっと自分や師匠や仲間が命を懸けて作り上げた時代となるその前夜に、血を吐きながら死んでいく人が、なかなか言える言葉ではないと思っている。
更に、本人から見て、あれだけ「面白くない」と思うことが身辺に連発した人生も無いと思うが、そんなこと意に介さず進み続け、功山寺の挙兵にて歴史の潮の変わり目を作り上げたこと、常人では出来ないことだと思っている。
この言葉は「自責発想」の結晶だと思っている。
これぞ真のポジティブシンキング、苦難の時、この言葉に何度も助けられた。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、2003年12月
佐田に入社した時
2、2011年7月
佐田に戻った時
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
2000年、百貨店の「そごう」が経営破たんした。
佐田は「そごう」がメイン取引先だったため、連鎖倒産してもおかしくない状態にあった。
そんな時父が、2003年12月「会社を手伝ってくれないか。」と言ってきた。
私が一般企業に就職して4年たった頃の事だ。
少し早いと思ったが、父の事は尊敬していたし、ここまで育ててくれた恩もあるので断る理由など何もない。
会社の状態も見ずに入社したが、実情は火の車。
売上は22億あったが、借金が25億あり金利だけでも1億円近くある。
しかしながら父の発案で、中国進出の第一陣として元々もっていた北京工場をメイン工場として拡張し生産コストを下げるという事業計画が打ち出された。
大手商社が1.5億円の資金提供してくれる事になったがそれだけでは足りない。
この事業計画を遂行するには3億円が必要だ。
銀行から1.5億円の追加融資を受けるための条件は、後継者として私が入ることだった。
金融機関交渉に失敗すれば即倒産だったので、父からまずは経理を見てくれと言われたが、私は営業に問題があると思った。
資金繰りを幾らつけても時間稼ぎにしかならないと考え、根本的に会社を良くするためには、営業を変えなければならないと考えた。
営業を指揮して相当なV字回復を成し遂げた。
営業利益を1億円近く出せるようにまで会社を回復させた。
この好業績をもとに、「良い会社になったが、このままでは金利を貰える金融機関だけがハッピーで、お客様にも従業員にも、いつまで経っても貢献することが出来ない。もう倒産させても良いでしょうか?」と暗に債権放棄を迫った。
概ね債権放棄にメイン銀行が同意した後、監査法人の財務デューデリ、ビジネスデューデリを受けた。
そこで出てきた9割の債権放棄が必要とのデューデリ結果に、金融機関の態度が変わり、「やはり佐田家には腹を切ってもらう」となった。
実際9割という数字が出てきた時、私的再生の話は壊れかけたが、それを金融機関が飲んだのも、多くの中小零細テーラーに、株式会社佐田は必要な会社とのビジネスデューデリ結果があったからこそ。
2009年には、リーマンショックが遠因となり、再生ファンドがメイン案件で二次破綻を起こし、解散することが決まった。
取引先の会社がオーナーとして名乗りを上げてくれたが、2011年3月東日本大震災により仙台工場が立ち行かなくなり、私のところに連絡が入った。
後ろ盾だった会社は、全株式を当時の社長に押し付け、手を引いてしまっていた後の事。
「なんとか会社を引き継いで貰えないだろうか。」というものだったが、あの父でさえ「やめておけ」と言う程酷い状態だった。
損害保険会社に就職している下の弟が「手伝おうか」と言ってくれたが、「お前は佐田家の保険だ。だから保険会社にいろ。」と言って断った。
妻にも大反対された。
しかしながら、以前からいてくれた社員から「社長!やっと戻って来てくれるんですね。一緒にやりましょう!」と言われると男として断れなかった。
丁度その頃、私がしていたコンサルの仕事もリーマンショックのあおりを受け社内分裂状態になりつつあった。
これは祖父が佐田に帰れと言っているように感じ、2011年7月に佐田に戻り、2012年社長に就任した。
復帰してから行った改革は、広義の ※リストラクチャリングだが、世間に言われる人的整理はこの時一切行っていない。
工場直販事業を開始したのは2004年、東日本大震災の時点で12店舗あった。
ただ、本格的に直販事業を展開したのは震災後、2011年10月に新宿店を出店が一つの潮の変わり目。
卸先の街のテーラーに「敵になるのか」等言われたので、競合するつもりはなく、ターゲットの客層も違うと、丁寧に説明して周り、理解を得た。
2015年8月には32店舗に拡大。
9月10月で35店舗になる。
この時の判断が1、2ヶ月遅れていたら今の佐田は無い。
拙速巧遅せっそくこうち(上手で遅いより下手でも早い方が良い)、出足と手数で乗り切った。
また、サッカーや野球チームにスーツを提供しWin−Winの関係を築いている。
スーツ提供におけるWin−Winとは、オーダースーツを貰うチームも喜び、このスーツ提供が他のステークホルダーの幸せにも繋がること。
ステークホルダーとは、お客様、従業員、地域社会等。
この他のステークホルダーの幸福に結びついているかで費用対効果を検討し、提供するかを決めている。
◆夢は?
オーダースーツの着心地と楽しさで、日本のビジネスシーンを明るく元気にする!
これは会社の理念でもある。
スーツはビジネスシーンで自分を演出できるアイテム。
人の印象は、10秒ほどで概ね判断され、4分でその印象が定着すると言われている。
そしてこの「真実の瞬間」に一度固まってしまったら、最初のイメージを覆すことは相当大変に難しい。
また、心理学の「メラビアンの法則」によると、人の第一印象の、55%が視覚情報、38%が聴覚情報、内容等は残りの7%の一部でしかないという。
つまり、どんなに良いことを話しても、視覚情報、聴覚情報がダメだと、悪い印象を与えてしまうという事だ。
更に、着るものに全力を尽くした覚悟がセルフイメージをアップする。
勝てると思ってプレゼンするのと、これは無理だろうと思ってプレゼンするのでは結果は目に見えている。
実際、サイズの合ったきちんとしたスーツでセルフイメージを上げて商談に臨んだところ、成功率が上がったとお客様から喜ばれる。
「相手のキーマンが熱心に話をきいてくれた。」「受付の女性から商談相手まで、VIP対遇だった。」等もよく耳にする。
セルフイメージはある意味、根拠の無い自信と言えると思っている。
ただこの根拠のない 自信を持って、勝負の場に臨み、そして成果を得た時、これが揺るぎのない自信に繋がると考える。
ゆるぎない自信のもと商談に臨めるオーダースーツを提供したい。
オーダースーツSADA
http://www.ordersuit.info/
株式会社
佐田
http://www.sandars.co.jp/
※リストラクチャリング(restructuring)
リストラクチャリングとは企業管理で使う用語。将来有望な事業を考慮して企業を「再構築」する意味もあるが、日本語で使われているリストラにあるように不採算部門の組織整理、人員整理をして企業への負担を軽減する消極的意味合いが強い。リストラ=人員解雇より広義な意味を持つ用語で、企業の破産あるいは買収された後の新経営陣の方針に合わない事業の売却などの意味を含む言葉である。リストラクチャリングのプロセスでは、企業体質の改変、活用されていない資産の処分、効率化のためのアウトソーシングの採用、コスト削減のための工場移転、製造・営業・販売組織再編、資金の見直しなどが検討される。(MBA国際マネジメント辞典より抜粋)