ファイトネス
主宰
大山峻護氏
2017.9.29 18:00
◆業種
ファイトネス
研修事業
◆子供のころになりたかったものは?
ウルトラマン
強いヒーローになりたかった。
幼少の頃から喘息があり、人見知りの弱虫で身体も細かった。
強いものへの憧れはかなり幼少の頃からあった。
小学校1年生の時、アントニオ猪木とタイガーマスクの試合を見て、更に強いものへの憧れが強まった。
ずっとヒーローに憧れたまま中学生になり、バルセロナ五輪金メダリストの柔道家「古賀稔彦」選手に強い憧れを抱くようになった。
中学2年の時、古賀選手のいる日本一の柔道家を育てる私塾「講道学舎」で入門テストを受けた。
入門テストは、門下生と戦い勝たなければ合格できない。
ところが一回も勝てなかったのに合格となった。
当時の理事長が「あの子は受け身が上手いから特別に合格させよう」と言ったらしい。
住んでいたのは栃木県だったので、講道学舎の寮に入寮し中学も転校した。
父も母の理解なしには、成し得なかったことなので、とても感謝している。
父はサラリーマンだったし、母は学習塾をしていたので、全くスポーツや格闘技に関係がなかったが、強いものへの強烈な思いがあったのを知っていたので、反対どころか応援してくれた。
ところが、入塾して直ぐ、柔道センスがないと自分でわかった。
怪我はよくするし、後輩にも勝てない。
それでも柔道が好きで続けたくて、大学は国際武道大学に入学して柔道を続けた。
柔道づけの毎日が1年、2年、3年と続いたが全く結果が出ない。
それでもいつか強くなれると信じ続けた。
途中でやめたら、強いものへ強烈な思いを持っていた幼少の頃の自分を裏切るような気がしたからだ。
そして大学4年生の時、全国大会で準優勝した。
決勝の対戦相手は、中学時代の同級生「瀧本 誠」選手だった。
彼は後に五輪で金メダルをとった程の逸材だ。
その試合を見ていた企業からスカウトされ、実業団入りを果たし、社会人になっても柔道を続けた。
入社2年目、実業団の全国大会で優勝を果たした。
控室に帰ったときは、うずくまって泣いた。
とにかく怪我が多く、怪我をしていない関節がない程。
それでも、もっと上を見ることがエネルギーになった。
25歳の頃、総合格闘家の「桜庭和志」氏の試合を見たとき、自分にとってのウルトラマンを見た気がした。
「桜庭さんみたいになりたい!」
強い衝動にかられた。
実業団にいれば安定はしているけど、この先どうするのかイメージができなかった。
このままでは、子供の頃に思い描いたヒーローにはなれない。
総合格闘技の世界へ入ることを決意した。
父も母も反対しなかった。
母が「あなたが行きたい道へ行きなさい。」と言ってくれた。
自分は心配症なのでよく母に相談したが、どんなときも「あなたなら大丈夫」と信じてくれた。
自己流で練習を続け、総合格闘技アマチュア大会で優勝した。
プロの関係者に声をかけて頂き、理想のコーチにも出会えた。
純粋に思い続けて行動すると、人生が動くことを経験した。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
1.感謝のサンドイッチ
10年前から、朝、空に向かって「今日も一日感謝します!」と言い、一日の終わりにも感謝する。
そうすると一日一日がいとおしく感じる。
自分の人生を通して感謝のエネルギーの強さを知った。
不平不満を言っていると良いことはない。
感謝は、良い流れがあるとともに豊かな気持ちになれることを体感した。
2.トイレ掃除
3、4年前から毎朝するようにしている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
人物:妻
不安定な格闘家という職業にも関わらず結婚してくれ、どん底の時も自分の可能性をずっと信じて支えてくれた。
35歳の時、シンガポール大会で初めてチャンピオンになれたのも、この試合に勝ったら妻にプロポーズしよう!というモチベーションがあったから!
ただ結婚はできたが、お金がなくて結婚指輪をプレゼント出来ないでいた。
そこで、38歳の韓国大会の時、その賞金で妻に結婚指輪をプレゼントするというモチベーションを持って優勝した。
どの大会でもそうだが、みんなが勝ちたい!
同じ強さの中なら、勝ちたい気持ちが一番強いものが優勝する。
どうしても勝たなければならない理由をいかに探せるか!?がポイントだ。
自分の場合は、妻の存在がモチベーションを高めてくれた。
引退の時も「あなたなら大丈夫」と言ってくれた。
自分が言うのも何であるが、妻は人柄も素晴らしく、容姿も綺麗だ。
自分よりもっと良い人と結婚できるはずなのに自分を選んでくれた。
恩返しをしたい人だ。
本:シャーリーマクレーン著「アウト・オン・ア・リム」
人生って何だろう?と考えていた高校3年生の時に出会った。
人生の全てに意味があることを知り衝撃を受けた。
何も上手くいかず、怪我が絶えず、人間関係もボロボロだった時だけに救われた。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「全てを力に!」
プロの格闘家になってから、感じた言葉。
もがいて、もがいての長い人生だったから、「もしかしたら、このもがき全てを力にできるんじゃないか!?」と、ある日突然思った。
全てに意味があると思えるようになった。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
妻と出会った時
妻とは10年前に出会った。
知人が美輪明宏さんの舞台に出演していたので、美輪さんの大ファンの友人と一緒に観に行った。
美輪さんが大好きな友人の夢を叶えてあげたくて、出演していた友人に、舞台終わりに美輪さんの楽屋へ挨拶に伺えるように頼んでおいた。
楽屋を訪問すると美輪さんを紹介され、友人の夢を叶えることができた。
その数か月後、美輪さんのマネージャーさんから連絡が来た。
「次にやる舞台にピッタリだから、出てください。」と美輪さんが言っているとのこと。
美輪さんからの出演オファーの連絡だった。
その場で「とても舞台なんてできない。」と伝えたが、マネージャーさんは直接美輪さんに断ってほしいと言う。
やったこともないし、さんざんお断り文句を考えて、美輪さんの出演しているパルコ劇場の楽屋に伺った。
しかし、ピンクのドレスを着た美輪さんを前にした時、頭の中が真っ白になり、なぜか「はい!よろしくお願いします。」と答えてしまった。
役どころは美輪さんの家来の役。
出演者は自分と美輪さんを入れて6人しかいない。
いい加減には出来ず、現役中なのに4ヶ月間もの期間を舞台に費やしてしまった。
自分が出演した舞台終わりに、楽屋へ友人がやってきてくれた。
その時、友人が連れてきたのが妻。
一目惚れだ。
この舞台に出なければ妻には出会っていないかもしれない。
運命を感じている。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
数え切れない程たくさんあった。
しかし乗り越えられたのは、ずっと夢を見続けることができたからだ。
暗闇でも、いつかこうなりたい、ああなりたいと思って何回でも立ち上がることができた。
昔の人が、砂漠の中でも星を見つけて、道に迷わなかったように。
◆夢は?
アスリートのセカンドキャリアにおいて、新しいかたちを創りたい!
40歳で引退して、寂しさや心細さがあった。
引退後の人間関係は少なからず変わった。
この寂しさや心細さは、逆に凄いエネルギーになった。
「絶対見てろ!」と強く思った。
引退した後の方が輝いていると言われるくらい!
アスリートの知識と経験を活かしたファイトネスを企業研修として提案した。
自分の経験による、挫折や失敗から立ち直った話をした後、ファイトネスのエクササイズをする。
同じ空間で、同じ刺激を受けると人間関係が強化される。
共有体験をすると絆が深まるのだ。
ファイトネスのエクササイズ中は、無意識のルーティンを続けるので普段の癖が出やすい。
ネガティブな自分を客観的にみるよう、俯瞰(ふかん)してもらう。
※俯瞰:高いところから広く見渡すこと―新明解国語辞典より
自分のネガティブな癖がどんなものかを体感してもらう。
自分を知ることで、意識して変えられるようになる。
そうすることでメンタルが強くなる。
今も営業は自分でしていて、2年で58社の企業研修が開催できた。
質を大切に広げて行きたい。
今までは、引退後のアスリートは企業に貢献してもらっているパターンが多かったが、選手が企業に貢献できる新しいセカンドキャリアのカタチを確立したい!
http://shungooyama.spo-sta.com/
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