株式会社 中村勉総合計画事務所
代表取締役/建築家
東京建築士会会長
中村 勉氏
2015.8.29 17:00
1946年生まれ
出身地:東京都
◆業種
建築都市設計、研究、開発
◆子供のころになりたかったものは?
大工
隣の家が大工でしたので、ものづくりの好きな私はいつも見て憧れていました。
公務員の父も「ものづくり」が好きで私が小学生の時、敷地内に緑色の小屋を建て入口のアーチには「Laboratory」(ラボラトリー)という英語のプレートをつけてくれました。
私は嬉しくて、いつもその小屋で兄と生活をしていました。
庭には風呂場や池、花畑があり兄と卓球をして遊んだりもしましたが、家の前の道路で下水道工事が始まれば、一日中横についてマンホールを覗き込んでいるような子でしたし、隣の家で余った材木やカンナくずをもらってきては何かしらつくっていました。
しかし、両親は私を大工にはしたくなかったようで、「大工になると最初の3年間は、カンナ砥ぎや鋸の刃を整えるような修業ばかりでつまらないぞ。」等となりたくなくなるような話ばかりします。
しかし、私はカンナ砥ぎや鋸の刃を整えるような作業が大好きでしたので逆効果でもありました。
高校1年のころ、父と私は母屋の南側に応接室を増築しました。
4畳くらいのものでしたが、黒いPタイルで床を張り、赤いソファーを置いて、天井は太陽の光が差し込むように半透明の波型プラスティックの屋根を付け、カーテン生地で柔らかく撓んだ天井を作りました。
生地は厚手だったので光は和らぎ、モダンな応接室ができました。
高校の2年には父と一緒に二階建ての倉庫をつくりましたが、難しかったのが階段です。
設計図を書き、斜めの板に水平の段板を取り付けるのですが、段板を溝を切って段板を差し込めば完全なのですが、時間もなく、釘で左右から止めました。
この階段は失敗だったと思っています。
今でもそうですが、勉強は好きで、幼稚園の頃から母親に紙を渡して算数の問題をつくってもらい、それを解いて遊んでしましたし、もっと勉強が好きな二つ上の兄に、御下がりの教科書を貰うと嬉しくて直ぐに問題を解くのを楽しみにしていました。
それなので「勉強しなさい」と言われた記憶はありません。
幼稚園の時は小学校1年生の教科書は全て終わっていて、小学校終わるまで常に1、2学年上の教科書を勉強していました。
わかってしまうと学校の授業は面白くありませんでしたので、好きな勉強をしていました。
王子駅前に製紙博物館があって、よく調べに行きましたし、名主の滝のそばの貝塚で土器のかけらを拾ったり、当時どんどん工業化していったところの石鹸工場などを遊びにいきました。
近所の鉄工場なども面白いところでした。
また、学校の西側に旧陸軍の火薬工場跡地があり、そこの鉄骨レンガ造りの廃墟で遊んでいましたが、この立体的な明り取りのある屋根の空間は私の原風景だと思っています。
あるとき好きな音楽の先生の授業で、わざと1オクターブ上を歌ったりして先生を困らせました。
すると若い女の先生は泣きながら校長室に駆け込み、事情を聞いた校長先生から呼び出された私は罰として校庭の朝礼台の上によく立たされました。
体育の授業を校庭でしていた兄には、よく立たされているところを目撃されましたが、そのことについて兄や両親からとがめられたことは一度もありません。
ただ本当は好きだったのに、困らせてばかりいた音楽の先生には一番かわいそうな事をしたと思っています。
母は才女で文学、俳句など若いころから良く読んでいました。
そして新しい文化を面白がる人で、良く映画や踊りを見に連れていかれました。
ある日、全校集会で議長をしていた私に「お母さんが迎えに来ている。」と書かれたメモが回って来ました。
「これはひょっとすると映画に行こうということじゃないかな。」と思いながら母の元へ行くと、やはり今から映画を見に行こうという事でした。
母は映画好きで毎週水曜日に映画を見に行く習慣があり、それにいつも私を連れて行きたがります。
確かに私も映画は好きですが、母の好きな映画は洋画でキスシーン等が多く目のやり場に困ったことを覚えています。
また浅草のカンカン踊り等にも連れて行かれたこともあります。
中学になると、二つの材料を合わせて温めると違う化学製品になるのが面白くて化学に夢中になりました。当時は有機化学が流行っていて、新しいものを生み出そうという風潮がありました。
当時の新製品では化学合成物質の粉末ジュースが有名です。
今と逆行していますが。
化学部の実験ではいろいろな物質を混ぜ、熱して化学反応を起こし、酸を作りました。
メロンやイチゴの香りのする香料などを作りました。
高校は東京工業大学理工学部附属工業高等学校(現
東京工業大学附属工業高等学校)に合格しましたが、普通科に進んだ方が良いという担任の先生の進めで、東京都立小石川高等学校に進学しました。
高校に入っても化学を続けましたが、写真研究会にも入って写真を撮りまくり、高校の文化祭(開拓祭)の作品展では印画紙も自分でつくって写真を焼いて出展しました。
しかし写真は表現の手段であり、職業にする気はありませんでした。
高校1年生の時、フランス語で聖書を読む課外授業が1年間あり聖書にも興味を持ちました。
高校でフランス語を学んだので大学に入った時ドイツ語を選びましたが、フランス語をもうちょっと学んでおけばよかったと思っています。
また当時の小石川高校の校長先生は雨宮先生といい映画倫理委員会(映倫)の審査官をしていました。
同じ4月1日生まれということもあり、この校長先生とはとても話が合いました。
校長先生から毎週水曜日の夜と土日は映画館を梯子し年間300本くらい映画を見ると聞いて、これだ!と思い、私も映画の梯子をしようと土日は映画館にずっといたことを覚えています。
大学は東工大を受けましたが風邪をひいて失敗し、翌年東京大学に合格しました。
浪人中は暇でしたから、それまで縁がなかった300ページ程の小説を毎日1冊読んでから勉強をしました。
勉強は全体を知ってから細部に至るというプロセスではなく、何か興味のあるものに夢中になって探っていくと全体が分かってくるという方法でした。
あるとき古本屋で「English History for Boys and Girls」という薄い英語の本を買いました。
この本はイギリスの歴史をストーンヘンジから始まって、ケルトの移動、ローマ帝国の征服、そして最後はアインシュタインの相対性理論まで、易しい英語で書かれているものでした。
今でも重要な英文は暗記しているほどです。
世界史はそういう方法で、イタリアや中国などの各国史を勉強し、それからシルクロードをやり、だんだん世界がつながる気がしました。
細部から入る方法論はその後の弁証法にも結び付いていると思います。
今でもやりたい事はいっぱいあります。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
大きく言えば2050年の社会に向けて改革するための準備が最も大事な仕事です。
10年くらい前からその方向に向けてやるべきことを考えています。
2050年の社会は、人口減少、それに伴う経済の低成長等、起る事が分かってきましたので、それをどういう方法で小さなコミュニティを作っていけるかを考えています。
数年前から、地球温暖化に対して必要な低炭素社会の実現に向けて建築設計もそうですし、論文や委員会、そして学会、建築士会等で関与している仕事は全て、2050年に向けての準備に関連しています。
人口が75%に減少すると、労働人口(就業人口)が現在の60%から50%になりGDPが下がります。
総生産が減れば経済が低迷しますが、一人一人の生活はむしろ豊かになります。
一人当たりGDPが大きくなるような社会を考えればですが。
しかし、都市の予算は少なくなり、公共がシビルミニマムとして市民生活を支援してくれる範囲は少なくなります。
社会や公共は市民を支援できず、コミュニティが助け合う、分かち合い社会にならないといけません。
人口も全体のGDPも右肩上がりではなく、さがって来るのを前提に今後の社会は考えなければなりません。
自治体の予算が減って、自治体のシビル(市民)サービスが今迄通り出来なくなった時はどこを削るでしょうか?
そういった議論はまだされていませんが、できるだけ早くに議論を始めて準備をしておく必要があります。
私が考えているのは最初に削られるシビル・サービスは、道路や下水の維持だろうと思います。
現在の下水道管はが一時間雨量50ミリ基準に計算されていますが、温暖化に起因する最近のゲリラ豪雨などは一時間雨量80ミ以上となっています。
これは土木分野の大きな課題ですが、今後の方向性をどうするかを早く考えなければなりません。
もし土木予算の削減となれば、80ミリへの下水管の更新整備はおろか、維持費も十分でなくなります。
すぐに洪水が起こる事は目に見えていますね。
国交省は平成18年に都市計画法が改定された時、コンパクトシティという考えを提唱しました。
駅前の建築容積率を400%とし、周りの市街地調整区域は学校もつくってはダメで人が住めないようにしようという考えです。
本来人は「里山に住みたい。」というのが自然です。
里山に住んでいてもよい状態にするためには、都市のインフラに依存しない、自給自足のシステムを自立整備すればよいのです。
雨水を土中に浸透させ、トイレも各自浄化槽をつくって浄化しうわ水も浸透させます。
エネルギーも太陽や風、地中熱などで暖めたり、バイマスエネルギーを使えばローコストで自立型の環境建築が実現できるのです。
また環境心理的にも、人は超高層住宅になると他人の事を考えられなくなります。
地上で遊んでいる子どもたちの声や、近所で御祭があればお囃子の音などが聞こえて来るような高くても7~8階以下の中低層、できれば低層の接地型の都市環境の中で生活をしなければいけないと思います。
神奈川にそう言う考えで設計した私立学校があります。七沢希望の丘初等学校といいます。
http://www.nanasawa-kibou.jp/menu01/#kousya
自然から学ぶという内田理事長の教育思想を受けて、自然の樹木より低く、自然より強くなく、自然の木々を避けて建築し自然エネルギーを活かした空調も取り入れています。
自然への感性をもって生活する学校です。
建築は敷地と周辺の杉丸太を多用し、木がめり込んで力を伝える構造を考えて天秤梁でつくりました。
木製サッシや格子壁木造などの新しい工夫もされています。
これは欧州先進建築家に贈られる賞を先駆的な考えと評価され受賞しました。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、槇 文彦 先生
槇先生は日本の空間を大事にし、リベラル(民主的)で都市を良く観察し考えている建築家です。
東大を卒業して槇事務所の所員となって、都市と建築両方を深く考えることをやらせてもらいました。
そして加藤学園やトヨタの鞍ヶ池記念館など今に残る設計を担当しました。
槇先生には本当に深く多くの事を学べました。
特に隙間空間、目的空間と不特定目的空間の間に隙間空間をつくることを学び、都市に必要なものはオープンスペースであり、人が自由に行きかう場所である空間を大事にすることを学び、今も設計に生かしています。
大高先生との群造形の理論がありますが、メタボリズムの中でもメガストラクチャーに行かずに、個の重要性を説き、その集合としての群造形を都市と想定する理論を構築し、その点で私と非常に共通しています。
最近では例の新国立競技場の提案があまりにも大きく、コストも莫大なものになってしまったものに意義をとなえ、白紙撤回を価値とったときのお手伝いをさせていただいたのは貴重な民主主義を取り戻そうとするすばらしい経験でした。
2、広部達也、横山正、下山真司
この3人の東大建築学科の助手の先生たちは、親身になって議論をしてくれました。
後述する、「分からないから面白い」と言ってくれたのは横山先生だったと思います。
とにかく博学で、世界中の情報を読んでいました。
どの雑誌はどういう人が書いていて、この方面にはえらく明るいなど、雑誌批評も楽しかったことを思い出します。
下山先生も日本建築の歴史にしても、日本の文化が醸成されたのは室町後期から安土桃山時代だということを教えてくれ、その時の大徳寺の弧蓬庵や真珠庵などの茶席とその茶人の文化的空間構成などはそれ以前の形式的な形と違って、自由で奔放な好みを大事にし、そして二畳台目に至る、究極の茶室文化を作り上げる時代だったことを教えてくれました。
その後、兄が京大で勉強し、田辺の雲母漬けの茶室に下宿していたことを頼りに転がり込んで、3年の初めは大学に行かずに京都、奈良の茶室を毎日訪問していました。
この時の修学院上之茶屋、金閣寺の夕佳亭、曼殊院のは八窓の席、金森宗和、小堀遠州など、茶席や茶人の好みが空間を自由に操っている様を見て、空間の演出手法はすごいものだと知るようになりました。
すぐさま父の要望に応えて自宅の応接間を改造し、4畳半の茶室を設計しました。
今でも中間の無い床柱の茶室が残っています。
3、吉武泰水 先生
東大の2年後期から建築計画を学んだ教授で、吉武研究室でも人間の空間を大事にすることを学びました。
当時、吉武先生はイギリスの学校のプランを詳しく解説し、教室へ入る前の前室としての空間の重要性を強調していました。
準備のためのロッカーや子供たちが先生とおしゃべりするコーナー、小さな坪庭など、驚くべき豊かな空間が教室と廊下の間に展開していました。
この設計は当時の大学院学生だった石井一紘氏や下山真司氏の直島小学校や七戸小学校の計画に表れており、感動したものです。
これは後の加藤学園初等学校や聖マリア学園小学部の公共空間と教室との間の空間の考え方に繋がっていきます。
当時、オランダのアルドーファンアイックの子供の家にも通じる考えでした。今でも大事にしています。
4、長島孝一、キャサリンさん
長島氏は槇事務所の10年先輩で、ハーバード大学卒業後、ギリシャのドクシアディスの事務所で奥様のキャサリンさんと結婚され、その後シンガポール大学で教えてから槇事務所に戻ってきました。
都市デザインを勉強してきた人です。
大学時代のマレーシアの学生が測量技師となり、サバ州のスポーツ施設を依頼してきたときに私が担当となり、基本構想、基本設計を東京で行い、実施設計をマレーシアとシンガポールの設計事務所とJVで行ったものです。
その縁でサバ州の開発計画を依頼され、私を誘って(株)AUR建築・都市研究コンサルタントという事務所を立ち上げました。
槇先生もそうですが、長島さんの国際的な知己はものすごく幅広く、UIA(国際建築家連合)Union Internationale des Architectesの理事もされていました。
私も長島氏の代理としてバルセロナ大会でUIA国際会議に参加しました。
日本ではUIAの中に未来の建築について議論をするAOF (Architecture of the Future未来の建築)WGを立ち上げ、21世紀に向けてどういう建築が必要になってくるかを議論しました。
世界のあちこちで色々な議論をしてきましたが、そのきっかけをつくってくれた人でもあります。
今でも奥様のキャサリンさんも含めて家族は世界中に広がっており、真の国際人だと思っております。
5、大学1年目、教養課程の英語の先生
英語はあまり好きではありませんでしたが、この先生のお陰で現在では英語での議論ができるようになりました。
この先生は、日常的に使える言語は日本語と同様に、一字一句考えて解釈するようなものではなく、30分で30pもの新聞を読んで今日の大事な問題がどこにあるかを分かる能力が大切なのだ。
クリントン大統領は速読の大家だったと教えてくれ、徹底的にディクテーション【dictation】(読み上げた文章をそのまま書く)と斜め読み、速読の方法を実践することを一年間訓練してくれました。
一年たってもどこまでできるようになったかおぼつかないですが、耳は慣れてきましたし、分からないところ鸚鵡返しに聞き直せば必ず別の方法で説明してくれる極意も教わりました。
聞き間違いをしてもよいといわれ、繰り返し聞くこと、速読することを訓練されました。
同時に厚い3000ページもある英文の文法の参考書を持たされ、毎週毎週100ページずつ読み、その他にも英語の小説を速読させる訓練をして英語漬けにして下さったお陰です。
それまでは丁寧に一字一句調べていましたが、「そんなことしなくていい、日常的に全体を把握すればいい。」と教えてくれたので気が楽になり、この一年間とても楽しく学べました。
6.吉田一平、小沢昭一
小沢昭一さんは足助屋敷を創った人で、1985年ごろにお訪ねし、後に足助町長になった矢沢さん(当時係長)と一緒にお会いしました。
小沢さんは三州街道の入り口にあたる、足助の歴史と森の文化を豊田市の近代都市からの圧力から守ろうと、足助屋敷やジジ工房、バーバラハウス、百年草(福祉施設兼ホテル)など、足助の人々が自分の独自な生き方で生きようとする気持ちを持ち続ける政策を次から次へと考えている人でした。
小沢さんに影響を受けた吉田一平さんは、長久手市の猪高緑地との境の森の中で、長久手南部の開発と闘って、雑木林郷と名付けた特別養護老人ホームとたいよう幼稚園を中心とした高齢者福祉施設を創ってきた人です。
吉田さんはその後長久手市長になりますが、高齢者の生理性をよく理解し、空間は「つるぴか」より「がさごそ」の世界が常に新しく、大きい空間より小さい、低い、ごちゃまぜの空間が良いんだといって、森の木を切らずにその間に空間を置くように施設を創っていました。
この二人には、近代化社会と対比的な、おどろおどろしい網野善彦的世界感を教えていただきましたし、新鮮なものは人工物ではなく、自然なのだということも教わりました。
自然は常に生き物がいる環境で、古びることはありません、枯葉にしても、それが腐って肥料になり、また新しい生命が宿るかもしれません。
自然の輪廻とこの社会の在り方を考えるきっかけとなった大事な二人です。
他にもたくさんの方にお世話になりました。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「人は冷や汗をかいて成長する」
これは自分の経験から得た言葉です。
大学を卒業して槇事務所に入った時に、日本語が話せないブルナーさんというスイス人建築家がフィラデルフィアのカーンの所から槇事務所に入所してきました。
私はブルナーさんのお世話を担当しました。
ファミリーで日本に来たので、まず家探しから始めたのですが、賃貸契約の契約書も一字一句説明なければならず、「なんで釘は何センチまでしか打ってはいけないんだ?」等、日本でしたら当たり前の質問にも英語で答えなくてはなりませんでした。
都市計画の会議等にも一緒に出席し、議論している最中にも筆記で同時通訳する等、毎日が冷や汗ものでしたが、1年半くらいいたのでとても実践的な英語の勉強になりました。
もう一つは、外務省のサウンデイング調査で東南アジアを訪問したとき、シンガポールの計画部長に面会し、突然あした日本の都市と建築の最先端情報をスライド講義してくれといわれた時です。
大変光栄なチャンスでしたが背筋が凍りついたようで、その後ホテルに帰って持ってきたスライドを再編集し、英語の説明を付けました。
次の日、会場にいくと、100人位の都市計画部門の住宅部門の設計者が集まっており、腹を据えてスライド講義を行いました。
シンガポール英語は撥音が多く、聞きずらいので、質問も完全には理解できませんでしたが、何とか終わってほっとしたことを覚えています。
このような修羅場を経験すると、その後は何とかなると思うものです。
2、「建築はわからないから面白い。」
大学2年の時に、広部達也、横山正両先生から教えられた言葉です。
それまでは数学のように、問題を解く方法が見つかれば必ず答えは明瞭に見えていました、ところが建築の設計は課題に対してすべての学生の答えは違うのです、そしてどれも間違いではないと先生はいうのです。
思えば、理一から建築へ進むときは理科系にきたことを悩み、哲学や宗教、心理学などの文系を探っていた時期に、建築は理科系の中で唯一人間の空間を考えるところだと考え、建築の設計に進んだのです。
それに対して、分からないからというのは、人間のことはわからないというようなもので、設計は一つの解で終わりではなく、人の意思、人生のステージなど、奥深いものだということをこの言葉は表しているのです。そしてわからないものは、それだけ一生かける価値があると言われたのです。
更に、この言葉は息子にも響きました。
息子は音楽と絵が好きで、高校生の学園祭ともなれば全ての出演者のドラムを担当し、舞台に掲げてある高さ12階建くらいのポスターを手掛け、夜になると渋谷のクラブでDJをするという生活をしていました。
その息子に「将来どうするんだ?」と聞くと「グラフィックデザインをやりたい。」と言いました。
そこで私が、「建築は面白いぞ。なんで面白いかというと何だかわからないから面白い。」と言いますと、息子もハマって、今では東大工学部建築学科の研究室で助教をしています。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、哲学との出会い
数学や理科が好きで東大の理科1類に入ったが、入って直ぐ失敗したと思いました。
その当時は哲学をやって小説家になるのが夢でしたので、人が生きるという事はどういう意味をもつのか?を考えていました。
そう考える中、オパーリン生化学、哲学、宗教、建築の計画学、等色々な学問に出会い心惹かれました。
オパーリン生化学は、生命とは何か化学から問おうという学問です。
哲学はジークムント・フロイトやマルティン・ハイデッガー、ジャン・ポール・サルトルなどの影響を受けました。
それぞれ、なぜ人間は生きようとするエネルギーがあるのだろうか。
個人としての力がどう集まり、全体の力となるのだろうかということを考えていました。
フロイトの、人の内面にエスとイドという欲求や感情のエネルギーの源があり、それが人の意志を動かすというのもとても興味深かったです。
建築の計画学は、人が充足できるような機能のための空間のあり方を考える学問で、建築は工学部の中でも唯一人間相手の学問だと言われます。
ものをつくる材料学だとか構造学も建築の重要なものですが、建築空間を設計するということは、人間の生活する空間、その空間と空間の関係を考える学問と知り、計画学を勉強してから設計をしたいと思いました。
隣との空間、建物と建物との空間、壁はガラスで見えた方が良いのか、閉じた方が良いのか等その関係性を示す方法は色々ありますね。
家の中であれば、お母さんと子どもたちとの関係をどのようにつくるかを考えて間取りをつくる等、建築の計画学に出会い、これが凄く重要だと思いました。
また、空間を大事に、人との関わりを重視するアメリカのフランク・ロイド・ライトが実践した有機的建築にも影響を受けました。
大学を出て4年目にアメリカを旅行した時はシカゴのライトの住宅をたくさん見て、予想通り感激したものです。
ライトの建築は世界中の近代建築の建築家に影響を与えました。
いまでも原点ではないかと思っています。ライトのような設計者の想いが伝わる建築を設計したいと思っています。
大学3年の5月祭の時、私が考えていた空間の認識プロセスを実物大の模型で展示し、空間体験の要因を狭さ、低さ、騒音などに規定し、そのような空間を通ってきた空間体験者がどんな感情を持つかをアンケートしました。
結果は忘れましたが経験の蓄積によって空間認識が確かめられるということは確信しました。
2、東大闘争
4年生の夏に始まり、翌年の2月安田講堂で終わった東大闘争では、本当に社会を変えられるかもしれないと思いました。
社会は弁証法的な方法論で変えられるとその時は本気で思いました。
弁証法は、それぞれの経験の中から、それぞれが深く考えた中から出て来る力みたいなものです。
それを繰り返し経験し、経験を重ねていくことで自分自身も変革でき、社会も変えられるという方法論です。
東大闘争は、弁証法という方法論で社会を変えようと考えていました。
実際、社会の仕組みはそんなに短期間で変えられるものではありませんでしたが、これが一つのきっかけになってだんだん変って行けばいいとわれわれは思い、安田講堂で終わったとき、そういうきっかけをつくったという勝利感がありました。
卒業論文は「建築の弁証法的方法論」とし、その後考えてみると、今の生き方も弁証法的だと思うことがあります。
就職してからも、常に個人と総体ということを考えています。個を尊重し、その自由度を保証しながら、構築される社会はどういう形が良いのだろうかといつも考えています。
個人と全体として考えれば、全体に押しつぶされている個人という考えになりますが、個人が主体となれば社会は総体であります。
社会に加護されている個人ではなく、個々が社会を考えるようになれば社会全体が良くなります。
個々がといって、俺が俺がという自我を主張しすぎると社会は良くなりません。建築家という職能も、自分のという作品主義の建築家は好きではありません。
むしろ社会をどうしたいかを考えている建築家になりたいと思っていましたし、後輩や学生たちにも社会や都市、そこで生活している人々を考え、その人たちが幸せになる建築をつくる設計をするよう教えているつもりです。
大学3年生の時にドイツのベルリンにベルリン自由大学で建築コンペがあり、そこで1等になったプランをみて物凄く感動しました。
その建築は、全体の中で個というものが大切にされていて、それぞれが活き活きとしていながら、全体が輝いているのです。
そのような個と全体の関係のような世の中になれば素晴らしいと思いました。
それが弁証法的な考えによるものだと思います。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
冷や汗をかくような出来事
冷や汗をかき終えた時は、既に乗り越えています。
ある出版社から依頼を受けて世界の1960年代の建築の特徴を調べ、カードにまとめた事があります。
800冊余りの外国の雑誌を一年かけて読み、1年間かけて1建築を1枚ずつのカードにしました。
毎週土曜日になると大学の図書館に通い、ほとんど図書館で一年過ごしました。英語に限らない外国語の建築専門用語を、日本語に訳すのも大変だったが量の多さにも苦戦しました。
結局、その本は出版されませんでしたが、そのお陰で世界中の建築がどうなっているのかとても詳しくなりましたので、先輩達と世界旅行に行っても詳しく説明でき、現地外国人とも親しくなれました。
◆夢は?
出来るだけ長く生きることです。
私を勤皇の志士と呼ぶ人がいます、そういった低炭素社会への社会改革をしたいと思っています。
都市建築をしていると、世の中が真の民主的ではない矛盾の部分が見えて来ます。依存型から自立型の民主主義へ、社会は変わらなければなりません。
市民が自分のことと社会をとらえ、自分で課題を引き受ける社会が必要です。
将来の社会の姿を描いたうえで、そこからのバックキャスティングとして現在何をするべきか?ということを常に考えています。
※バックキャスティング(backcasting)
将来を予測する際に、持続可能な目標となる社会の姿を想定し、その姿から現在を振り返って今何をすればいいかを考えるやり方。目標を設定して将来を予測する こと。地球温暖化のように現状の継続では食糧不足などの破局的な将来が予測されるときに用いられる。→フォアキャスティング (デジタル大辞泉より)
中村勉総合計画事務所
http://www.iceice.com/ben/index.html
一般社団法人都市エネルギー協会 機関誌 NEW
ENERGY 連載中
「低炭素社会の理想都市と分散型エネルギーネットワーク」
http://www.toshiene.or.jp/publics/index/30/