ブリキのおもちゃ博物館
機械じかけのおもちゃ館
箱根おもちゃ博物館
河口湖 北原ミュージアム
フュージョンミュージアム ニット&トーイ館長
株式会社トーイズ
代表取締役
北原照久氏
2015.5.8 15:30
生年月日:1948年1月30日
出身地:東京都中央区京橋
◆業種
博物館の運営、オリジナル商品の企画・販売
◆子供のころになりたかったものは?
幼稚園の頃から反抗期だった。
この反抗期は中学まで続いた。
私は、4人兄弟の末っ子であり、兄も姉も物凄く出来が良く、何処にいっても誰からも「お兄ちゃんやお姉ちゃんは出来るのにね。」と言われ続けた。
面白くない私は、何処で何を言われても「プイッ」としていたが、両親だけは、比べるようなことは言わなかった。
父は、仕事も情熱的にこなし、心も大らかで新しい物が好きだった。
また母も、いつもポジティブに物事を捉え人の悪口を一切言わない人だった。
私は、この母の言葉で幾度となく助けられた。
戦後で、そんなにものが豊富にある時代ではないので、私のものは殆どが兄のおさがり。
ある日、母が私に新品の「マイ長靴」を買ってくれた。
それはもう嬉しくて…。
雨も降っていないのに、母と散歩に出かけた。
水たまりを見つけてビシャビシャはしゃいでいると、「お前は優しい子だねぇ。こんな小さな花を踏まずによけて遊ぶんだから。」と母が言った。
実は全く意識していなかったが、母が褒めてくれた。
嬉しかった。
それ以来、私は花を踏んでいない。
中学生の時、父の所有する日本刀を自分の部屋で振ってみた。
ところが、日本刀の刃が外れて、窓の隙間から道路に落下してしまった。
幸い誰に当たる事も無く済んだが、私の家は、東京の京橋でスキー専門店を営んでおり、自室は自社ビルの最上階にあったため、「やくざの出入か!?」等と騒がれニュースになる程だった。
もちろん過失なので何の罪にも問われなかったが、中学校は許してくれなかった。
幼稚園の頃から世間に比べられていたので、兄や姉を知らない環境でスタートさせたいという両親の計らいで、中学は千代田区に越境していた。
しかし、越境しても私の反抗期は治まらなかった。
ケンカもよくしたし、授業をさぼった時の居場所は、後楽園のお化け屋敷。
水道橋にある後楽園の金網をやぶり、自分専用の入り口を作って忍び込んだ。
日常の素行から、日本刀落下事件をきっかけに千代田区の中学は退学になり、地元、中央区の中学に通う事になった。
義務教育で退学って・・・・・思春期の私は失意のどん底。
さすがの母も怒り心頭と思いきや、「お前は花を踏まない優しい子だし、タバコも吸わないから良い子だね。」と言った。
更に、「お前の人生これで終わったわけじゃない。これからの方がずっと長い。人生はやり直しは出来ないけど、出直しはいつでもできる。」と言ってくれた。
この言葉に物凄く救われた。
言葉で人はこんなにも救われる、言葉の力を知った。
しかし、ずっと勉強もせずプラプラしていたので、さすがに高校には進学できないだろうと思っていた私に、父が「捨てる神あれば拾う神あり」と言ってくれた。
父は、可能性を探してくれた。
お陰で運良く、私立本郷高校に入学する事ができた。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
1、感謝と有難う、そして祈り
日に何度も、太陽や月、自然のものに向かって「感謝、ありがとうございます。」と3回唱え感謝する。
中学までは、自分の波動が低かった。
だから同じ低い波動の人間ばかり引き寄せてしまったのだと思う。
その証拠に、何処に行ってもトラブルメーカーと出会っていたが、高校に入ってからは一切出会わなくなった。
波動を上げるためには、「感謝と有難う」そして祈りだ。
それは人の恩、そして自分の幸せに気付いてわかった。
母の言葉に救われた恩、高校の沢辺先生の言葉に救われた恩、「原宿ゴールドラッシュ」という本に背中を押して貰った恩、等等、全て感謝だ。
そしてその感謝を「有難う」と表現する。
相手に伝わり、「感謝と有難う」の循環が生れる。
司馬遼太郎は、「やさしさ、思いやり、人の痛みを知る」の3つさえあれば平和な世の中になると言っている。
人は、そんな思いで戦争など出来ないだろう、世の中の皆が常にそういう思いになればいい。
おもちゃを通して人々の心を豊かで温かくするのが、神様が下った私の使命と思っている。
2、ゴロゴロで筋トレ
50歳から始めて、毎日30回くらい続けている。
両手にゴロゴロを持ちうつぶせになり、伸びたり「くの字」になったりする。
また最近、手品を始めた。
私は、あまり「人が出来て自分には出来ない。」と思う事が無い。
目の前で手品を見て、人がやっているものなら自分にも出来ると思うタイプだ。
殆ど指の訓練だが、65歳から始めて2年で、結構様になるところまで来た。
新幹線で切符拝見の時、トランプの換わりに切符を空中から出してみたりして遊んでいる。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、両親
特に母の言葉では何度も救われた。
この歳になっても心に深く刻まれているので、言葉というのは本当に強い力を持っているものだと思う。
だから私は「言葉コレクター」とも言われている程、言葉を大事にしている。
また自分の誕生日は「母に感謝する日」と思っているし、母には、何処に出張しても駅や空港から必ず母の好きなものを送った。
これは母が95歳で亡くなるまで続けた。
親孝行で、「子供にしたい人No.1」と言われたこともあるが、それでも足りないくらい母に感謝している。
2、沢辺利夫先生
高校一年生の担任。
小学校からずっとテストは、名前だけ書いて白紙で出していた。
問題を考えたことも無い。
ところが、高校一年の中間テストで、A,B,Cの三択の問題だった。
勘で○をしたら60点が取れた。
そのとき、沢辺先生が大感動して「お前やれば出来るじゃないか!」と褒めてくれた。
物凄く!本当に嬉しかった。
「あー俺ってやれば出来るんだ。」素直にそう思った。
やって出来た時に言ってくれた「やれば出来る」の言葉は一生の自信となった。
もうそれからは期末テストに向けて猛勉強。
ところが勉強の仕方が全くわからない。
だから教科書を丸暗記してみた。
すると今度は、70点が取れた。
沢辺先生は、更に喜んでくれ、褒められたい、喜んでもらい一心で、一生懸命にがんばった。
褒められる→がんばる→褒められる→がんばる→褒められる・・・・・の連鎖が続き、卒業する頃は、なんとビリから800人抜きの総代となった。
「全ては出会い!」そして言葉とタイミングが大事だと思う。
3、矢野雅幸氏
1973年25歳の時、インテリア雑誌「私の部屋」で見つけた矢野雅幸氏の部屋を見た。
ブリキのおもちゃがビッシリと飾られたその部屋の写真に、物凄い衝撃を受けた私は、雑誌編集部に連絡して、矢野さんの住む部屋を訪れた。
矢野さんに会い、部屋を見て更に軽く電気が走ったかのような衝撃を受けた。
20歳くらいから、ぼちぼち集めていた古い物を、この出会いにより本格的に集めるきっかけになった。
その後も、交流を深め、今でも大事な存在だ。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「やれば出来る!」
沢辺利夫先生の言葉。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、中学退学
2、沢辺利夫先生との出会い
3、スキー留学
大学は青山学院大学経済学部に入学したが、大学紛争真っ只中で授業がない。
高校から学校で勉強するのが当たり前になっていた私は、どうしていいかわからず困った。
すると父がスキー留学を勧めてくれ、ヨーロッパのオーストリアにあるインスブルックに留学した。
そこでは、皆が古いものを大切にする。
家の中の置物や雰囲気にとても魅了された。
そういった文化に魅了され「あーこんな部屋に住みたい。」と思った。
帰国して直ぐ、粗大ゴミの日のゴミ置き場に驚いた。
なんと立派な壁掛け時計が捨ててある。
ヨーロッパだったらこんな事はありえない。
その壁掛け時計を拾ってきて修理してみた。
するとカチカチ動きだし、まるで命を吹き込んだかのように嬉しくなった。
これが、収集第一号となる。
それから、50年近く集め続けている。
4、独立
37歳の時、おもちゃ博物館を開館、独立した。
大学を卒業して直ぐは、家業のスキー専門のスポーツ用品店を兄と共に手伝った。
スキーを販売するだけでなく、父が長野にロッジを持っていたので、お客さんを対象にスキーツアーを組み、同行し、スキーを教えたりしていた。
スキーは好きだったので、良かったのだが、スキー一式を選ぶのに、一生懸命に接客して、ビンディングを取り付けて、最後に言われる言葉が「それで幾らまけてくれるの」だった。
この言葉を聞くとがっかりするし「うんざり」だった。
うちは自社ビルだったので、店舗の家賃が無い上、他の階の家賃収入があったからそれでも何とかやってこられたが、本来赤字の商売だ。
その間も、並行しておもちゃ等の収集は続けていた。
33歳の頃、西武百貨店のキャンペーンコマーシャルに「北原さんのブリキのおもちゃを使いたい。」というオファーがあった。
コピーライターは糸井重里さん、ブリキのおもちゃが動いた画像の後に「不思議、大好き」のフレーズが流れるCMは話題になった。
その後、西武百貨店でブリキのおもちゃ展の催事を開いたところ、「入場料をまけろ」と言う人も、ポスターを10枚買っても「一枚おまけにつけろ」と言う人も、一切いないことに驚いた。
これに感動して、前々からやりたいとおもっていた「おもちゃの博物館」を始める気持が高まった。
しかし、もう一つ思い切りがつかない。
そんな時、一冊の本と出会った。
「原宿ゴールドラッシュ」
原宿のショップ経営で成功した、山崎真行氏のサクセスストーリーだ。
とにかくカッコ良く、憧れた。
この本に背中を押されたと言っても良い。
だから、私が夢を実現させた時書いた本は「横浜ゴールドラッシュ」と名付け、恩返しのつもりで表紙を開いた最初のページに「山崎真行氏に捧ぐ・・・」と書いた。
この本を、直接山崎氏に手渡したいと原宿のショップまで届けに行ったことがある。
すると私の前に、一人ショップに入る人がいた。
「大工さんかな」と思うような風貌だ。
店に入り事情を話すと、リーゼントで決めた店員さんが奥に通してくれた。
すると、その大工さんかなと思った人が、まさに山崎氏であり、「いつもうちの話をしてくれて・・・」と逆にとても恐縮してくれた。
私が、あちらこちらで、「おもちゃの博物館を開いたのは山崎氏の本のお陰」と言っていたのをご存じだったようだ。
それでも、握手する時の手の出し方なんて、ビシッと垂直に切れが良く、あの感動は今でも忘れられない。
ほしいと思ったものは何十年かけても手に入れる。
1973年25歳の時、矢野雅幸氏の部屋がインテリア雑誌「私の部屋」に紹介された別のページに、元宮家の別荘が載っていて、一目で気に入った。
当時8億円で売りに出ていて、とても買えた金額ではなかったが、その時「絶対買う」と決めた。
バブルの頃は25億円だったこともあるそうだ。
ところがバブルが弾け、数人の人を経て今は私の持ち物になった。
手に入れるまで、約25年かかったが、イメージして思い続けて手に入れた。
おもちゃも車も同様だ。
私は飽きないし、いつまでも大事にする。
出演番組も同様で、TV「なんでも鑑定団」を含めテレビ、ラジオのレギュラー番組は5本あるが、どれも長寿番組だ。
更に、会いたいと思ってずっと憧れていた加山雄三さんや吉永小百合さんにもお会いする事ができた。
夢を書き出したり、写真で見たりしながらずっと思い続ける。
佐島の家のことは、天井が一段高くなって・・・と著書に書いていたら、中に入ると本当に一段高い天井があった。
外観しか見ていなかったから、購入後に中に入って驚いた。
イメージするのはとても効果的、イメージ出来るものは叶う。
逆に、イメージ出来ないものは無理だと思った方がいいね。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
いっぱいあるが、100の悪い事があっても101の良い事がある。
「ピンチはチャンス」
「あーピンチがきたな」とおもったら、「おーチャンスがきた!」と思う。
最初のうちは、そう思うように努力したが、今は本気で思える。
ピンチは「難」が「有」るから起きる。
「難有、難有、難有難有難有・・・・・」と繰り返せば、「有難」、有難うとなる。
難が有っても、「有難う」と、感謝してしまえば「難」も逆転する。
「災い転じて福となる」「万事塞翁が馬」等、事実そういったことわざはたくさんある。
美しい虹は、雨が降らなければ見られない。
「No Rain No Rainbow」と心得る。
◆夢は?
1、宇宙へ行く事!
民間宇宙飛行士の山崎大地君が、大きな気球を取り付けた宇宙船で行く「宇宙への切符」をプレゼントしてくれた。
お陰で、来年か再来年には叶いそうだ。
2、75歳までに大きな博物館をつくる事!
今、5つある博物館を一カ所に出来れば一番いいが、それ以外に倉庫にあるコレクションもある。ダンボールに詰め込んでも、倉庫にあるコレクションだけで4トントラック109台分が必要になる。
これは、数年前の数なので、75歳になった頃はもっと増えているだろう。
大きな会社とのタイアップも視野に入れて考えているが、日本の貴重な文化遺産として、国や県などの協力を得て全てのコレクションを一堂に展示したい。
株式会社トーイズ
http://www.toysclub.co.jp/
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