株式会社経営パワー
代表取締役社長
山形大学 産官学連携 教授
岩井利仁氏
2016.1.7 14:00
1959年生まれ
東京都出身
◆業種
コンサルタント業、中小企業診断士
◆子供のころになりたかったものは?
中学校の数学先生
小学校から中学校に進学すると環境の変化からかやる気がなくなってしまい、中学一年の夏から学習塾に通い始めた。
その学習塾の先生に憧れた。
男性の数学の先生で、お陰で成績もトップクラスになり、やる気も取り戻した。
そんな先生になりたいと、大学は理工学部に進学し教職課程を取り、学費を自分で稼ごうと家庭教師のアルバイトを始めた。
最初に受け持った生徒は、通知表に2が3つ、その他は全て1という生徒だった。
教えても、教えても「わからなーぃ。」と言う感じで、何が楽しいのかもわからないという。
よくよく聞いてみると視力が悪いということだったが、メガネも持っていない。
担任の先生も持て余していたようで学校では一番後ろの席にされているという。
現実を見た気がした。
学校の先生になると40名前後のクラスに必ず一人二人、そういう生徒がいるということを知った。
これは自分の手には負えないと思い、学校の先生になることを断念した。
しかし、子どもと接するのが好きだったので、社会福祉法人・朝日新聞厚生文化事業団が主催する臨海学校のボランティアに応募した。
説明会に参加してビデオをみていると、重度の障害児を抱きかかえてプールに入れている。
聞けば、体にハンデキャップのある子や、親に虐待されたり経済的な理由で親と一緒に暮らせなくなった児童養護施設の児童が3泊4日で、夏休みの間入れ替わり参加する、そのお世話係だとわかった。
これはとてもたいへんそうだし、責任も重そうだったのでやめようと席をたった。
すると、先輩男性スタッフ数名に囲まれた。
「とっても楽しいよ。」「一緒にやろうよ。」と満面の笑顔で必死に話しかけて来る。
このボランティアは9割が女性で男手が少ない。
なんとか私に参加してほしいと説得され、参加する事にした。
夏休みはアルバイトの稼ぎ時だったが、それからは4年間連続で参加した。
また、大学2年の秋に、朝日新聞厚生文化事業団主催する「車いすヨーロッパの旅」に同行した事もある。
15名の車いすの方々とヨーロッパ4ケ国の福祉施設を13日間寝食を共に視察した。
ボランティアといえども旅費の半額は自己負担だったので、夏休み以外は必死でアルバイトしてお金を貯めた。
親に入学金と初年度の学費を出して貰ったが、2年時から卒業までの学費は自分で払おうと決めていたのでその分も稼がなければならない。
親は全額学費を出してくれるつもりだったようだが、自然と自分で払おうと思った。
父も母もおおらかで、幼少の頃から何かやりたいと言うと何でもやらせてくれた。
勉強しろと言われた事もない。
だからこそ、自分で言いだした事、やりだした事への責任感のようなものが自然と身についたとも言える。
今思えば、そんな両親への感謝の気持ちもあったのではないかと思う。
しかし、家庭教師のアルバイトだけで学費を支払うのは結構大変で、新宿のそば屋の出前や、通信教育の添削などアルバイトもかけ持った。
多い時で、3日で1000枚の添削をした事もある。
とても充実した学生生活であった。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
1、水素水をコップ一杯飲む
1年3ヶ月前に、パナソニック製の最新式の水素水器を購入した。
健康のために始めて、肌の色つやも、血圧の調子もよい。
2、娘たちをハグする。
娘たちはもう成人しているが、「ハグハグ理論」と名付けて、小さい頃から朝晩寝る前の一日3回ハグし続けて来た。
これは私が22歳の時、カルフォルニアのディズニーランドで見たアメリカンファミリーの影響が大きい。
ニコニコしながらハグしているアメリカ人親子の自然体な光景がとても新鮮だった。
お陰で娘とは成人した今でも、一緒に買い物に行く仲だ。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、中学一年時の塾の先生
2、愛知県の小さなパソコンソフト会社の社長
1988年頃の事。
私は、大学を卒業して松下電器産業(現パナソニック)に入社し、中部支社でパソコンの営業をしたが、非常に売れないパソコンだった。
何とか売れる方法を考え、使い勝手の良いソフトを搭載して売れば良いと思った。
当時は、日本語ワードプロセッサの「一太郎」というソフトが人気だった。
ところが「一太郎」は、NECのPC‐98でしか使えない仕様だ。
松下電器製パソコンで使えるソフト開発をしてくれる会社を愛知県じゅう200社くらい探し回った。
その時、ガレージを改装した土間で開発しているソフト会社の社長に出会った。
その社長はパソコンの将来性について熱く語り始めた。
熱弁をふるう事3時間、話の内容は殆どわからなかったが、パソコンがこれから凄い市場を生み出すことを確信した。
結局この社長とは仕事にはならなかったが、お付き合いは続き、会社の大小は関係ない、個人の生き様が大切であると物凄い影響を受けた。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
有志開道(ゆうしかいどう)
仲間と志を同じくして突き進めば、必ずや道は開ける。
1993年34才のときに松下電器に社内ベンチャー制度を自らで創り、24名の社内ベンチャーの社長を務めた時、営業もSE技術者もとても仲が良かった。
仲が良いというより同志と言った方がピッタリくる。
一般的には、営業とSE技術者の仲は悪い事が多い。
SEが不具合を出しても謝りに行くのは営業であり営業マンは不満を持つ。
逆に、お客様に良い顔をして技術的に無理な注文を営業が取ってくることも多く、SE技術者は被害者になる。
しかし、私たちは不具合があっても、「良いよ、謝りに行って来るよ!」と当たり前のように営業が出て行く環境にあった。
そうなるとSE技術者は「もっと良い物をつくろう!」とやる気になる。
私は、「部下」という言葉があまり好きではない。
常に同志と思ってやって来た。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1993年6月、社内ベンチャーを立ち上げたこと。
社内ベンチャー制度が無かった時代、初めて社内ベンチャーを提案し、制度を自らつくり実行した。
Windows95も無かった時代で、オフコン(オフィスコンピユータ)と呼ばれる中小企業等での事務処理を行うために設計されたコンピュータが主流だった。
当時は、ハードウェアとオペレーティングシステム (OS)や業務ソフトウェアが一体型で各社独自仕様、価格も数百万から数千万円と高額だった。
そこで、パソコンで動くように、オフコン用の業務ソフトを移植開発した。
互換性のないPCでもパソコンLANに接続すると互換性ができる仕組みを構築した。
また、操作画面や機能をお客様の要望に合わせてカスタマイズできるようにし、価格も半額以下と安くした。
これは売れに売れた。
やりがいも充実感も大きく、刺激的な4年間だった。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
人生の新たな目標を持ったこと!
社内ベンチャー失敗後、約10年間、燃え尽き症候群のようになった。
社内ベンチャーが4年間で終わったのは、Microsoft社のWindowsNTというオペレーティングシステムが殆どのシェアを占める事になったからだ。
業務ソフトをWindowsNTで動作させるには大きな投資が必要となり、社内ベンチャーを解散することにした。
時代の流れを読めなかった自分は失格だと思った。
社内ベンチャー時代の充実感が大きかったせいか、その後、何十億という売上を獲得して社長本部長賞を頂いてもあまり喜べなくなった。
4年前の52才の時に、勤務先のパナソニックが大きな赤字になり先輩がリストラされたときに早期退職を考えた。
早期退職と言ってもパナソニックは、55歳になれば定年扱いになりOB会にも入れる。
55歳で早期退職し起業する事を決意した。
それまで大企業の重役や官公庁の責任者と多くの仕事をし、成果を出してきた。
人脈も経験も豊富にあるが全て岩井流、コンサルタントで起業するなら中小企業診断士の資格をもとうと思った。
しかし合格率は4%しかない。
決意してからの4年間弱は寝る間も惜しんで勉強し2015年3月に合格した。
◆夢は?
生涯現役!
第一の目標は80歳。
それと定年のない会社にしたい。
コンサルタントは、クライアントから仕事の依頼がある限り退職する必要はないと考える。
一人で起業したが、これからはその道のプロをパートナーとしていく。早く1,000人規模にしたい。
経営パワー株式会社
http://www.keieipower.com/
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