セルフうどん発祥の店「手打ちうどん名玄」
株式会社名玄
代表取締役社長
平井芳和氏
2015.10.16 8:45
生年月日:1952年9月8日
出生地:岡山県岡山市生まれ
◆業種
飲食店経営
自然農法の米づくり
◆子供のころになりたかったものは?
社長
独立して自立したかった。
高校生の頃には、自立した職業として具体的に公認会計士になりたいと思った。
幼少の頃の話をすると、平井家は曾祖父で男児が途絶えていて、祖父も父も養子だった。
そこに私が長男として生まれたので、曾祖父は物凄く私を甘やかし過保護に育てた。
そんな私は曾祖父母、祖母、父母、私と弟という7人家族の中では大将であったが、外では友達に話しかける事もできないような子供だった。
小学生になっても変わらず、中学生になったら先輩が前から歩いて来るだけで恐く、そんな自分が嫌で変わりたいと思ってはいたが、どうすることも出来ないでいた。
そのまま中学3年になり高校受験に一人だけ失敗、誰も知った人がいない私立高校に通う事になった。
とてもショックが大きくて、辛くて一人で港の方まで自転車で行った。
暗くなるまで一人でこの衝撃をとことん味わった。
家へ帰ると、親や先生たちが心配してくれていたが、誰も知った人がいない高校に行けると言う事は新しい自分をスタートさせられると言う事、自分が変われると思った。
友達も真っさらで、以前の自分を知る人がいないので積極的に話しかけた。
直ぐに友達が増え、友達って簡単につくれる事を知った。
とても嬉しかった。
自分の殻が砕けて世の中の広さを感じた。
そして自分の将来を考え、自立した職業として公認会計士になりたいと思った。
そこで大学は京都の立命館大学経済各部に進学した。
大学4年間で公認会計士の資格が取れなければ、岡山に帰って父と一緒に仕事をする約束だ。
元々我が家は母が八百屋を営んでいたが、私が幼い頃、父が水処理の仕事で独立開業し成功していた。
この会社は結局弟が継いだが、私は公認会計士になったら、海外で仕事がしたいと考えていた。
それでも父としては何とか私を岡山に帰したいという思いだったようだ。
公認会計士の試験は年に1回しかないので、大学4年間だとチャンスは4回しかない。
大学に入学して直ぐ、税理士や公認会計士を目指す仲間が共に学ぶサークルにも入り、一生懸命勉強した。
サークルには入学当初100名ぐらいの仲間いたが、勉強の大変さ、試験の難しさに挫折し2年次には20名に減っていた。
公認会計士試験の難しさを目の当たりに感じ、大学の勉強はしないで、会計の専門学校に通うことにした。
大学の試験は、公認会計士の試験勉強をしていればA判定以上をもらえたが、ドイツ語にいたっては勉強しない訳にはいかない。
大学の成績は全てA判定以上と決めていたので、仕方なく半年間はドイツ語の勉強にあてた。
寝る間も惜しんで、食欲も失せる程勉強に集中した。
しかし、卒業して直ぐに行われた最後の公認会計士試験にも通らなかった。
背水の陣で、臨んだ結果だ。
物凄くショックだったが、今回も悔しさ辛さを存分に味わって、気持を切り替え岡山に帰った。
すると父は、家族で出来て日銭の入るうどん屋をやるという。
既にオープン日10月8日で、価格はうどん一杯100円と決まっていて、設計図も出来ていた。
ところが、設計図があり、オープン日と価格が決まっている以外なにも出来ていなかった。
計算してみるとうどん一杯100円では赤字になる。
そこで人件費を削ることを考えていると、大学の学食を思い出した。
セルフサービスにすれば、人件費は厨房の人だけで賄える。
更に、仕上げにうどんを湯がくのも各自お客様にやってもらえるようにした。
オープンまで半年もない中、設計変更して自分も大工と一緒になって施工を手伝った。
保健所では、うどんを湯がくのが調理になるのではないかと物言いがついたが結局、焼肉店等で、自分で仕上げに肉を焼くのと同じと許可が降りた。
ところが、この許可は岡山県のみなので他の都道府県では通用しない。
その後、セルフうどんのシステムは特許を取らなかったので、大手のうどん専門店が調査導入し全国に広まったが、うどんを湯がくシステムは他県にはない。
そうこうして店舗が出来たのがオープン日2日前。
しかし、うどんもつゆもできていない。
どうしたものかと考えている時、母の八百屋の仕入れ先に香川県出身の人がいることを思い出した。
香川の人は、ほとんどの人がうどんを打てる。
その人の打ちたてのうどんは絶品だった。
早速、交渉してうちの店で働いてもらう事にした。
後は、うどんつゆだ。
出し屋から鰹や昆布等たくさんのサンプルを取り寄せ本で学び、独自に調合したところ奇跡的にも「これはうまい!」というものが仕上がった。
オープン前日のことだ。
知り合いにも「食べにきてね」と電話し、お客様も用意しオープンにこぎつけた。
セルフうどんが珍しく、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌に取り上げられ、お陰さまで繁盛店となった。
ただセルフのやり方がわからないという事で、最初の内は一人店頭に出したが、今では一度来た事のあるお客様が初めてのお客様に教えて下さっている。
有難い事だ。
「食文化を通じお役に立ちます。」という思いで経営している。
セルフサービスのうどんは香川県発祥と思っている人も多いと思うが、実はうちが発祥店。
名玄のオープン日の10月8日は「セルフの日」に認定されている。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
水行
朝起きて、洗面器に水をくみ、気が済むまで数杯かぶる。
心身ともに清め、自分に関わる人々の幸福を祈る。
今年の2月から100日の予定だったが、やめられなくなった。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、小野哲敬 氏
日蓮宗のお坊さんで、霊感の強い人。
両親もそのお寺の檀家で、総代も務めていて中学から30歳迄お世話になった。
うどん店の名前や開業日、玄関の向きなども決めてもらった方だ。
生き方を求めて、小野氏と一緒に仏教遺跡がたくさんあるインドに5、6回行った事もある。
そうは言っても、全て決めてもらう訳ではなく、実践するのは自分自身、腹決めをさせてもらうときにアドバイスをいただいていたが、私が30歳の時に亡くなってしまった。
どんな生き方をするか迷っていたし、もっと生き方について知りたいという気持が強かった。
師事する人を求めながら40歳の時、壁にぶつかった。
もう一つの会社であるジーンズショップの経営が何をやってもうまくいかない。
宗教団体に参加すると、見た事ある人の写真が飾ってあった。
たまたま大学生の時に、とても感銘した本の著者だったので誰なのかと尋ねると、教祖だと言う。
それで15年間もすっかりはまったが、幹部になり運営側に回った時何かが違うと感じ退会した。
2、高木利美 氏
経済同友会で知り合い、豊友経済研究会を立ち上げた人。
小野哲敬 氏亡き後、高木氏についていた。
ある日突然、高木氏が「今から一週間、誰にも言わずに家出しろ」という。
会社は社長が居なくても回るからやってみろという訳だ。
言われるがまま、その日の夜に何も持たず誰にも告げず名古屋に家出した。
ところが、翌日、会社に国税が入った。
とてもてんてこ舞いになっていたようで、帰りたいという気持をグッとこらえ、私は日蓮宗の総本山がある身延山に一人登り朝日を浴びた。
それまで、うどん店を開業してから数年間一日も休まずに働いてきた。
山の頂上で太陽をいっぱいに浴びると、自分自身をリセットすることが出来た。
自分は自由で何でも出来る!と思えた。
母が泣くので家に帰り、これをきっかけに私がいなくても会社が回るようにシステムを変えた。
無謀だったかもしれないが良い経験をしたと思う。
3、倫理研究所の先生
家庭の事を相談すると、これまた無謀とも思われるアドバイスを頂いた。
しかし、実践することによって、家族が一つになることが出来た。
今でも実践し続けている。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「やればできる!」
自らの経験による。
やればできるが、やってみないことには答えがでないと思っている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、高校受験の失敗
2、公認会計士になれなかった時
3、うどん屋を始めたとき
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
攻め心があっては解決しない。
攻め心を押さえて、自分を正すようにしている。
問題障害も、人の出会いも、アドバイスも、「きっかけ」と思い、素直に実践する。
それも自分一人ではできない事と実感し、感謝している。
◆夢は?
大家族でいたい。
一つの家でなく、近隣に家族が住んでいればいい。
修行中の息子たちや、嫁に出た娘と娘婿も岡山に大集合する約束になっている。
また、うどん店の隣には500坪の土地を買ってある。
うどん店を長男に引き継いだ後、少し高級でリラックスしてゆっくりお茶を飲める店を開きたいと思っている。
手打ちうどん名玄
http://udon-meigen.co.jp/
地球環境・共生ネットワーク岡山県世話人
http://www.unet.or.jp/docs/u-net/pdf/79.pdf