元ハンドボール日本代表
主将
東 俊介氏
2017.10.11 10:30
◆業種
物流会社 取締役
コンサルティング会社 パートナー
腸内細菌解析事業会社 顧問
パーソナルジム アドバイザー
◆子供のころになりたかったものは?
マンガ家
絵を描くことが得意で、本やマンガを読むのも好きだったので、マンガ家になりたかった
最も好きだったのは少年ジャンプに連載されていた「キン肉マン/ゆでたまご」。
小学生の頃は休み時間になると友達に頼まれてノートに「キン肉マン」の絵を描いてあげていた。
運動は得意ではなく、俗に言う「運動音痴」だった。
昔から身体が大きく、小学6年生の頃には身長が170センチあり、周りから見れば運動が得意そうに見えるのに運動音痴なので、馬鹿にされ、からかわれていたため運動は嫌いだった。
東の父はその頃の息子の成長速度を、朝「行ってきます」と出かけて、「ただいま」と帰って来た時に身長が伸びていることがわかったほど急激だったと振り返る。
今、改めて考えるとそれくらい急激に身長が伸びていたわけだから、自分の身体であってもうまく使いこなせなくて当然だが、当時は自分が運動音痴なのだと思いこんでいた。
中学に進むと、何かしらの部活動に入らない生徒は必ず応援団に入らなければならない決まりがあった。
人前で大声を出さなければならない応援団にも、身体が大きいことを馬鹿にされそうなイメージのあった文化部にも入りたくなかったので、中学の運動部の中で最も練習が楽そうに見えたハンドボール部を選び、入部した。
もちろん、ハンドボール自体は激しいスポーツだが、東の通っていた中学では人気がなく、何かの部活動をやめた生徒や素行の良くない生徒の集まる部で、あまり練習しているようには見えなかったのだ。
そんなあまり前向きではない動機で入部したものの、いざ、ハンドボールをプレーしてみると、その面白さに気づいた。
ハンドボールは、走り、跳び、投げ、ぶつかり合う「総合格闘球技」であり、あらゆる運動能力が求められる激しい競技である。
東は幼い頃から走るのが遅く、泳ぎやマット運動はもちろん、野球やサッカーなどの球技も苦手。
お世辞にも運動能力が高いとは言えなかったが、唯一得意だったスポーツがある。
それは、ドッジボールだった。
少し大きめのボールを投げることが得意で、身長が高かった東にとってハンドボールは非常に相性が良く、面白いようにシュートが決めることが出来、チームの中心選手として活躍したことで監督や先輩、同級生に褒められた。
これまでの人生でスポーツをやって褒められたのは初めての経験で、とても嬉しく、一気にハンドボールが好きになった。
中学時代は最高で石川県3位という成績を残し、3年生時で183センチという高さもあり、県内のハンドボール強豪校へとスカウトされ、進学した。
ところが、全く練習についていけない。
東は高さと天性のボールスピードはあったものの、中学時代に基礎練習を怠っていたため、ハンドボールに関する知識やテクニック、基礎体力が圧倒的に不足しており、チーム練習にも参加させてもらえず、たったひとりで個人練習を続ける日々が続いた。
そんなある日、練習中に同級生に「お前、口だけで全然ダメだな。」と言われた。
この一言で火がついた。
昔から「ダメ」という言葉に強烈な拒否反応を示してきた。
東の生まれ育った街は、金沢の中でも治安が良くないとされていた地域で、時代的にもいわゆる不良とかヤンキーと呼ばれる生徒が多く、他人、特に同級生に嘗められては生きていけないため、喧嘩は日常茶飯事だった。
揉め事が絶えない街の空気が、嘗められたり、馬鹿にされたままでいることを良しとしない東の性格をつくりあげた。
相手に嘗められないように、「ダメなやつ」だと言われないようにするにはどうすれば良いか?
必死に考えた東は「ダメじゃなくなればいい」ということに気づいた。
そんな風に考えられたのは、母親と「キン肉マン」の影響ではないかと思う。
東の母親の口癖は「為せば成る」で、事ある毎に「東洋の魔女」と呼ばれた1964年の東京オリンピックで強豪ソ連を破り金メダルを獲得した「鬼の大松監督」率いる全日本女子バレーボールチームのエピソードを「6頭身の日本人が9頭身のソ連に勝ったんやさかい、努力すれば何でも出来るんや!」と耳にタコが出来るほど繰り返し聞かされた。
6頭身は酷いだろうと思いながらも(笑)、それが脳裏に焼き付いていたのだと思う。
また、大好きなマンガ「キン肉マン」の主人公「キン肉スグル」は、「ダメ超人」と周囲にバカにされながらも、努力を続け、仲間とともに様々な強敵と戦い、偉大な王者となった。
現在でも週刊少年ジャンプのテーマとなっている「友情・努力・勝利」を、キン肉マンをはじめとする魅力的な超人レスラーの生き様から学んだ。
そんなことから、自分がダメだと言われるのは、才能が無いのではなく、努力が足りないからだ、と考えることが出来たのだと思う。
中学時代のポジションはセンターバックだったが、高さとキャッチング能力の高さを見込んだ酒井監督にポストにコンバートされると、一気に才能が開花。
デビュー戦となった高校1年の秋に行われた新人戦からチームの中心選手として活躍。石川県を制すると、2年の秋には石川県選抜チームの一員として国体に出場。
3年時にはインターハイと国体に出場し、高校日本代表や日本代表Bチームのメンバーにも選ばれるなど順調に成長した。
もう、誰も東のことを「ダメなやつ」とは言わなくなった。
大学進学時、高校日本代表のメンバーだった東のもとには複数の強豪大学から誘いがあったが、選んだのは当時、関東学生2部リーグに所属していた国際武道大学だった。
高校時代には、全国大会で納得のいく結果が残せなかったため、日本一を目指すことが出来る強豪大学へ進みたいのは山々だったが、あまり裕福とはいえない東家の家計を考えると、チームの強さや己の好き嫌いよりも学費の免除など、優遇措置の有無を優先しなければならないと感じた。
これまでにも相当な負担をかけていたことは理解していたし、県外で一人暮らしをすることには相当なお金がかかり、家族に迷惑をかけるだろうとも感じていたが、どうしてもハンドボールを続けたかった。
自分の人生を輝かせてくれたハンドボールが好きで好きでたまらなくなっていたのだ。
大学入学後は1年からレギュラーとして活躍。
2年時には1部リーグに昇格し、東日本インカレで準優勝。
全日本インカレベスト8と国際武道大学ハンドボール部史上最高の成績を残し、個人としても20歳以下の日本代表チームの一員としてアジア選手権に出場するなど実績を積み、卒業時には複数の実業団チームからの誘いを受け、大崎電気に入団した。
入団後、しばらくはチーム、個人ともに雌伏の時期を過ごしたものの、他の実業団チームの休部によって移籍してきたプロ選手やハンドボール界のスーパースター・宮﨑大輔選手の入団など出会いにも恵まれ、着実に成長。
11年間の実業団選手生活の中で、9度の日本一を経験。
大崎電気と日本代表の主将を務めるなど、記録にも記憶にも残る選手として活躍した。
現役生活を通じて一貫しているのは、どれだけ周りから馬鹿にされても、「いつか見ていろ!」との思いを捨てずに努力を続けたことだと言う。
人生で大切なのは、出来る出来ないではなく、やるか逃げるか。
どんなに困難なことだとしても、「夢は逃げない。逃げるのは自分」と言い聞かせ、現在は日本において「ハンドボールをメジャースポーツにする」という夢に向かって、日々を全力で過ごしている。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
友人の誕生日を祝うこと。自分がされて嬉しいことをしたい、との思いで、SNS等でお祝いのメッセージを送ることをしている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
元々読書が好きなので、「アルジャーノンに花束を/ダニエル・キイス」や「蒼穹の昴/浅田次郎」、「水滸伝/北方謙三」、「人を動かす/デール・カーネギー」など多くの本に勇気をもらい、支えられてきたが、あえて一冊挙げるとすれば、「NASAより宇宙に近い町工場/植松努」。
植松さんは北海道の赤平という小さな町にある植松電機という会社の専務なのだが、「どうせ無理」という言葉を世の中から無くすことを目指して様々な活動をなさっている。
ハンドボールをメジャースポーツにするために早稲田大学の大学院で学び、卒業したものの、チームの運営に関わることが出来ず、自暴自棄になりかけていた時に偶然講演でお話を聴き、感動してすぐに購入したのが出会いだった。
現在でも読み返す度に涙が出るほど感動し、勇気と元気を貰える一冊なので、未読の方には是非読んでいただきたい。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
誰にでも出来る仕事を誰にも出来ないクオリティーでやれば、自分にしか出来ない仕事を任せられるようになる。
とある役職をオファーされた際に、どうしてこんな誰にでも出来るような仕事を自分がやらなければいけないのだと思い、大学院の同期生であるボートレーサーの江口晃生(えぐちあきお)選手に愚痴をこぼした際に言われた言葉。
一つ一つの仕事に真摯に取り組む大切さを学びました。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
高校のハンドボール部の監督「酒井信幸」先生に指導いただいたこと。
酒井先生は運動部の監督にありがちな指導者や年長者には絶対服従というような封建的な指導をするのではなく、理詰めでハンドボールの仕組みを理解させ、結果ではなく、考え方を重視して指導してくれたし、感情的に怒るのではなく、愛情をもって叱ってくれた。
もし、酒井先生が上から頭を押さえつけるような指導をする人で、先輩たちが無意味な体罰をするような部だったら、あっという間にやめていたと思う。
単に年齢が上だからと言って、威張るような人は大嫌いだし、暴力に怯んで言うことを聞くような性格ではないので(笑)。
私は人とのご縁にとても恵まれていると思うが、酒井監督に出会っていなければ、間違いなくろくな人生を送っていないはず。
人生をかけて恩返しをします。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
問題や障害、試練に出会った時に、出来ない理由を探し、やらないことは簡単だが、何も変わらないし、変えられない。
どうすれば問題を解決し、障害を乗り越え、試練を克服出来るのかを真剣に考え、全力で行動し、挑戦と失敗と成功を繰り返してきた。
与えられた課題のみをこなしていても、己の実力を上回る相手にはいつまでたっても追いつかないし、追い越せない。
与えられた課題を自主的に3回多くおこなう「+3(プラススリー)の法則」で、他よりも努力する実績を積み重ねることで、自分を信じることが出来るようになり、「自信」がつく。
自分は他よりも頑張る人間なんだ、どんな困難にも立ち向かい、乗り越える人間なんだ、と思い込めるくらいの努力をするのが大切だと思う。
◆夢は?
日本のスポーツを産業として活性化させ、人生を変えてくれたハンドボールのメジャー化を実現することで、これまでお世話になったすべての方々に恩返しをする。
一生をかけても必ず叶える。
東 俊介 Twitter
https://twitter.com/shunsukeazuma
東 俊介 Facebook
https://www.facebook.com/s.azuma
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