株式会社スペクター・コミュニケーションズ
代表取締役
京子 スペクター氏
2013.12.20 13:00
◆業種
プロダクション経営
◆子供のころになりたかったものは?
英語が好きだったので、客室乗務員(スチュワーデス)か、海外のホテルで働きたかった。
父が商社に勤めておりましたので、若い頃、海外勤務についていた時の話をよく聞かされました。
海外に憧れを抱いたのはその影響が強い。
高校を卒業すると、英語圏に留学したくてハワイに留学しました。
留学に関して、母は心配のあまり意欲的ではなかったが、普段は「黙って食事しなさい!」と言う程しつけに厳しい父が「行っても良い。」と言ってくれました。
当時は1ドル360円の時代、しかも外貨の持ち出しは1000ドル以内と決められていましたので、通常殆ど手に入らない1000ドル札を握りしめて日本を飛び立ちました。
ところが現地で学んでいるうち、ハワイの英語はアメリカ本土と違うことに気づきました。
「このままここにいたら、ハワイなまりの英語になってしまう!」と1年後、ユタ州ソルトレイクのビジネススクールに入学。
2年で卒業し帰国しましたが、アメリカの自由な空気が忘れられず、
何とかアメリカで仕事が出来ないものか?と常に考えていました。
すると3年後にチャンスがやって来て
友人の伝手をたどってロサンジェルスのホテルで働くことが出来ました。
日本語の出来る総合案内係として「コンシュアージ」を探していたのです。
ホテルの仕事が初めての上、「わかりません」とは絶対にいってはいけないコンシュアージの仕事に採用されたため、毎日が必至でした。
空港からホテルまでの道案内やホテル内の事、何でも即答しなければならないのです。
道順などはガイドブックで学ぶだけでなく、実際に自分で行ってみて確かめたりもしました。
しかも、日本人のアメリカ旅行ブーム全盛期でしたので、問合せの電話は鳴りやむ事がなく、毎日が戦争のようでした。
仕事が楽しくなって来たのは3ヶ月位過ぎた頃からだったと思います。
それから1、2年して、デーブ・スペクターがコンシュアージをしている私の前を通りかかりました。
私が28歳の頃だったと思います。
日本人とわかったのか、何かと日本語で話かけてきました。
当時は、アメリカ人であんなに日本語が話せる人は珍しかったので、「何でこの人こんなに日本語が話せるんだろう?」というのが彼に対する私の第一印象でした。
それから何度かデートに誘われ、交際して3年半くらいした頃、私の母と叔母を紹介するため、ハワイ旅行することになりました。
母と叔母は日本から、デーブと私はロサンジェルスからハワイに向かったのですが、私は、ハワイに1年間住んでいたことがあり、デーブは始めてのはず。
それなのに、レストランや観光名所など何故か非常に詳しいのです。
後から聞いたのですが、私たちをもてなす為にデーブは一人朝6時に起きて、スクーターで案内する予定の所に足を運び下見をしていたのでした。
デーブは今でも、私を連れて行くレストランは、全部自分が先に食事をして確かめます。
また、日常の生活で何気なく「これ素敵ね。」とか「これ欲しいなぁ。」と言ったことを覚えていてくれて、誕生日や記念日にプレゼントしてくれます。
彼は結婚して何十年過ぎた今でも忘れずに私に気を使ってくれます。
ハワイ旅行を終えて、ロスに帰った私に母から「結婚しないの?」と電話が入りました。
私の今の正直な気持ちを伝えなければ、この後後悔するかもしれない、後悔するよりも素直な言葉で彼に伝えなければと思い、
結果はどうであれ彼に「結婚したい。」と私から伝えました。
デーブの答えは、「O.K」だった。ということになりました。
その後、デーブは米国ABC放送のプロデューサーとして番組を担当することになり、撮影で日本にもよく行くようになりました。
アメリカは、妻が同行するのは当たり前ですので、私も番組スタッフとともにデーブに同行することになりました。
そのうち、日本での仕事が増え、日本に住むようになったある時、デーブが国賓のパーティに招待されました。
しかし、どうしてもスケジュールが調整できない。
私が代行で出席したことをきっかけに、各国大使方々との交流が増え、ヨーロッパのロイヤルファミリーの取材や大使公邸訪問等のテレビコーディネートを担当するようになりました。
その関係で、今ではタレントのプロデュースや執筆活動をしながら、連日パーティで忙しい毎日を送っています。
デーブと結婚したことを、とても幸せに思っていますし、毎日感謝の気持ちでいっぱいです。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
ムダに食べない!
ここ1年で5、6キロ太ってしまいました。
体重を戻すために気をつけています。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
小学校5、6年生の担任の先生
テレビドラマに出てくるような熱血先生で、子供たちに近い存在でした。
その当時テレビ学園ドラマの中の一コマに出てくる言葉として、「日々前進、今日を出発点とせよ!」という言葉が今でも忘れられない。
たとえ失敗したとしても、それをいつまでも引きずらず、今日からやり直せば良いということ。
「また失敗するんじゃないか」なんて恐れなくて良いことを知りました。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「日々前進、今日を出発点とせよ!」
2、「やりたいと思ったことが100%出来ないのなら仕方がないが、99%出来なくても1%でもできる可能性があれば、その1%にかける!」
自分の経験から生まれた言葉。
直ぐには出来ない事もあるかもしれないが、可能性が低いから諦めるのではなく、常に忘れずにチャンスを待つ。
そのチャンスは明日なのか10年後なのかわからないが、忘れないでいればその願いは必ず叶う。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
18歳の時、アメリカ留学
生活習慣や考え方が全く真逆でした。
アメリカの授業では、答えがわからなくても皆手を挙げて発言する。
今でも、あの子たちは、自分の答えが間違っていると自覚して手を挙げていたのか?それとも本当に間違えてしまったのかわからない程でした。
ただ自分の考えていることを発表したいとしか思えない。
それでも、誰一人として他人の意見をバカにしたりしない。
むしろ認めている。
だから自分の考えが、間違っていようが合っていようが、恥ずかしいという感覚が全くない。
現に、日本では数学が嫌いだったが、アメリカでは好きになりました。
更にディベートも盛んで、鍛えられた。
そのお陰で、日本に帰って来ても、人の目を気にして言いたいことが言えないということは無くなりました。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
デーブがテレビ討論会等に出るようになった頃。
アメリカとの問題になると、アメリカ人であるという理由だけでデーブに問題の矛先が向きました。
デーブとしては、日本が好きで子供の頃から日本語も覚えたし、日本人と結婚して、日本に住んでいるのに何でそんなことを言われなければならないのか!という思いでいっぱいでした。
ある日、耐えかねたデーブが「アメリカに帰ろう」と言った事があり、
そこで私は「『徹子の部屋』にまだ出てないじゃない。」と言いました。
彼は元々アメリカのABCテレビのプロデューサーということもあり、外国人タレントブームの時から、丁寧かつ膨大な下調べをしてからテレビ出演していました。
プロのエンターティメントだけが認められる厳しい世界にいた彼は、いくらブームでも素人が下調べ無しにテレビに出るということは考えられませんでした。
そういう、人の見えないところで何倍も努力している彼を知っているだけに、当時のデーブの心境を考えると心が痛みました。
当時の『徹子の部屋』は、今よりずっと出演するには難易度の高いテレビ番組の感じがして、自分から出たいといって、出られるものではないですし、 出演のオファーをもらうには、おのずと努力しなければならない。
しかし、ただ「ガンバレ」というだけでは前に進めない。
ですから二人で目標を持って乗り越えてきました。
◆夢は?
事務所をもっと大きくしたい!
今でも、多くのタレントさんやタレント志望の方から「事務所に入りたい」と問合せを頂くにつけ、とてもありがたいことですし、何とかしてそのように仰って下さる方々と共に一緒にやっていきたいという気持ちが日々強くなっています。
株式会社スペクター・コミュニケーションズ
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