日本絵手紙協会
会長
小池邦夫氏
2013.11.25 16:30
◆業種
手紙書き
◆子供のころになりたかったものは?
芸術家
しかし、それは無理な事と思っていた。
絵にも、文にも自信がなかった。
書道ならと、小学校3年生から近所の書道教室に通わせてもらった。
生まれ育った所は愛媛の道後温泉で、両親はみかん農家を営んでいた。
あまり裕福ではなく、車もなかったので、収穫したみかんはリアカーで運んだ。
私は、そのリアカーを後ろから押して手伝った。
小学校3年生のある日、リアカーを押しながら神社の前を通った時、石に彫った字を見て衝撃のあまりしゃがみこんでしまった事がある。
なんと書いてあるのかも読めないのに、ドォーンと迫り来るものがあり心を鷲づかみされたようになった。
この感受性は、私の財産だと思う。
ハートに感じるものを授かったことに感謝している。
その字を書いたのは三輪田米山(べいざん)という神官で、村にあるいくつかの神社を受け持っていた。
良く観ると、石に彫られた字と同じ字体が、神社の幟(のぼり)や鳥居等、村のあちらこちらで見かける事ができた。
村の人も米山さんの字が好きだったのだろう。
この石は後に、私がNHKの番組『新日曜美術館』の担当者に紹介し取材された。
更に高校一年生の時、空海の字を見て、生き物を見ているような感覚に陥り、ドキンとしてワクワクした。
書は器用じゃダメだ。
最初は中々伸びないが、コンプレックスがあるくらいの方が、「表現したい!」という強い思いが字に現れる。
私は次男で、下は妹なので、兄は泣く泣く家業の農家を継いだ。
兄にもやりたい事はあったと思うが、私を大学に進学させてくれた。
不器用だし、人とのコミュニケーションもあまり得意ではなかった私を、両親も兄もいつも心配してくれた。
私が、30人しか入れない東京学芸大学の書道科に入学した時は両親と共にとても喜んでくれた。
ところが、1年程で中退してしまった。
これには、兄や両親を失望させてしまったと今でも申し訳ないと思っている。
大学では、書道の神様と呼ばれる、中国の王羲之(おう ぎし)や、空海、良寛さん等の名作古典字をどれだけ上手に真似る事が出来るかで評価される。
書道科といっても書道家をつくるのではなく、学校の先生をつくるところだったのだ。
それは入学してからわかった事で、高校生の頃から、大学に入ったら芸術的な字が書けるとじっと我慢していただけに物凄くガッカリしてしまった。
それでも、基礎を思って真似字を極めれば、後は自由に書かせてもらえると言うが、有名な日展の書道展に行っても全く感動できなかった。
という事は、書道家の道をこのまま進んでも、私の感動できる場はないという事になる。
大学を中退し、全く先の見えない状態になったが書は諦めきれない。
そこで書の歴史を調べてみると、王羲之や空海、良寛さん等の作品で、名作の多くは手紙やメモであることに気付いた。
王羲之にいたっては約6割が手紙だ。
その手紙を見ると、生命力が有り、何か心に迫りくるものがあった。
飾ってないものに真実があり、その人の一番大切なものが無意識に、率直に出てくる。
国宝にもなっている空海の書は、裏紙に書いたメモだ。
手紙やメモには人間性も現れる。
人に見せるために上手に書いた作品には、魂が入らないし、何よりつまらない。
手紙は、受け取る人を思い、心を込めて書くから魂の入った生き物のようになる。
「下手でいいんだ。」と思った。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
絵手紙を書いている。
19歳の頃から、もう50年以上、毎日、一日3人以上に出し続けている。
最初に書き始めたのは、中学の同級生だった正岡千年君宛てだ。
友達の少なかった私だが、正岡君とは気が合った。
彼といるときは、とてもリラックス出来たし、飾らないでいられた。
大学を辞め、これからは「手紙で行こう!」と決めたが、何から手をつけて良いかわからない。
正岡君に毎日、ボールペンや万年筆、毛筆で手紙を書くことから始めた。
正岡君は、特に書の勉強をしている訳でもなく、返事の来ない一方的な手紙だが、出来が良いと私の書いた手紙を持ってわざわざ訪ねて来てくれた。
「この字が良い!とか、この墨は悪い、こっちの墨にしろ」等と、褒めたりアドバイスもしてくれた。
ところが「これは!」と思った自信作を送った時は、全く反応がない。
逆に「これはあまり人に見せたくないな。」といったものの時は「これは良い!」と言う。
このお陰で、これ見よがしのものは良くないと知った。
その昔、野口英世の母「シカ」が、海外に行って帰ってこない英世に、「早く帰って来てほしい」と書いた手紙を見た事がある。
この手紙は有名で、文章が良いと評価されているが、私は字を見て驚いた。
「魂がこもっている字」にそれが出ていた。
つたない文字だが魅力がある。
肩肘を張ってない人間の叫びのようなものが字に表れていた。
技術ではない。
ここに秘密があると思った。
不器用は味がある!不器用な世界へ行こうと思った。
それからは、左手で書く方法も取り入れて行った。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、画家:中川一政
氏
大学の友人が訪ねて行って親しくなったので、私も中川先生が好きだと言ったら一緒に連れてってくれたのが最初。
ご自宅に伺った時、ゴッホの作品を見せてくれた。
普段はしまってあるが、わかる人が来た時だけ床の間に飾るのだそうだ。
レプリカでない、本物作品をみせてもらったのは初めてだった。
2、作家:瀧井孝作 氏
大学を辞めた時、高校の書道の先生から紹介された。
芥川賞の審査員を何年もしているので有名で、書が好きな方だった。
そのお陰で、著名な作家を23人紹介してくれ、見聞を広げる事が出来た。
その中の一人に「井上靖」先生もいた。
井上先生も書がお好きのようで、自分の作品に押す朱印は、田黄という物凄く良いものを使っていると、あるエッセイに書かれていた。
お会いした時、朱印の話をすると、「君わかるかね。」と言って物凄く身を乗り出して話し始めた。
そんな話が出来る人があまりいないそうだ。
本来20分くらいの約束が2時間を超えて話し合った。
また、瀧井先生とは美術館にご一緒したりして話し合った。
「君の手紙は中々良い。日記だって手紙だって文学だよ。」と褒めて下った。
私のもっているものを引き出してくれた人だ。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「君には秘めたものがあるのを私は知っている。」
中学3年生の時、担任の先生から頂いた暑中見舞いに書かれていた最後の一文だ。
渡辺先生という男性の先生だが、クラスで私は全く無視された存在だと思っていただけに物凄く嬉しかった。
今でも忘れられない。
引っ込み思案で、コンプレックスが強かった私は、先生が自分の身方をしてくれているかのように感じた。
一枚のハガキのたった一言だが、言葉にはこんな力があるのかと思った。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
38歳、6万枚の絵手紙を書いた時
2度目の個展で、「銀花」の編集長が目をつけてくれなかったら今の私はない。
今でこそ絵手紙を知っている人も多くなったが、当時は全く認知度がなかった。
絵手紙という言葉も私がつくった。
大学を中退した私に、絵手紙書きとして収入の道はなく、塾の講師をして生計を立てていた。
19歳から50歳まで、絵手紙で収入を得られる事はなかった。
それでも毎日書き続けていた。
知りあいばかりがお客様の個展を2度目に開いた時、「銀花」という美術雑誌の編集長が見に来てくれた。
とたんに気に入ってくれ「これは世に出さなきゃいかん!」と言ってくれた。
そこで、「銀花」の一冊一冊に手書きの絵手紙を其々入れるという企画を立ててくれた。
一回の出版数は5万部、しかもこの時は特別企画で6万部出版することになった。
必然的に、私は6万枚の絵手紙を書くことになった。
毎日200枚ずつ、1枚1枚違ったものを、心を込めて書き続けた。
最後の1枚を書き終え、家族ですき焼きを囲みお祝いをしていた日の夜に、妻が突然クモ膜下出血に倒れた。
ずっと支えてきてくれてこれからという時だったのに、安心してしまったのだろう。
小学校3年生の息子と、まだ幼稚園の娘を残してその日のうちに逝ってしまった。
途方に暮れたが、縁あって妻の教え子が子供たちの面倒を見てくれ、後に再婚することになった。
この頃から、じわじわ評判を呼び、郵便局からも展示会や講習会の依頼が来るようになった。
今では年に数回大学でも教えている。
誰にでも簡単にできるやり方を編み出し、NHKの「趣味悠々」という番組の出演も決まった。
NHKで出演に当たり、一つだけ禁句があるから絶対に言わないでくれという。
皆、上手になりたいから見ているので、「ヘタで良い」と言わないでほしいというのだ。
わかったつもりで本番に臨んだが、熱く語るうち「ヘタで良い、ヘタで良い!」と言ってしまった。
しまったと思ったが、逆にそれが受けて、次回から禁句は無くなった。
本を出版したり、通信講座を設けたり、50歳を過ぎてようやく塾の講師をしなくても生活できるようになった。
また1985年には、日本絵手紙協会を前事務局長が立ち上げてくれ、多くの人の協力により今に至る。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
長年、絵手紙で収入を得られなかったこと、その中で妻が亡くなった事等、色々ある。
とにかく、諦めず続けていると報われることを知った。
◆夢は?
若い人や外国人にも広げて行きたい!
中高年の女性を中心に広がったが、もっと若者や外国人にも支持されるようにならなければ滅びると思う。
幸い、じわじわと若い人にも広がりつつある。
4年前、私の教え子で、群馬県にある上武大学の理事長 澁谷朋子さんが、大学野球の大会で優勝を果たした監督に、お祝いとして巻紙の絵手紙を送ったことがある。
受取った監督は感動して、理事長に絵手紙を書く上で一番大事なことは何か?と聞いた。
すると理事長は「集中力」と答えたそうだ。
だったらスポーツと同じじゃないか!部員にも習わせよう!となった。
部員たちは、意外にも絵手紙を面白がり、今では上武大学の人気講座となった。
更に、上武大学の留学生にも楽しんでもらう事が出来た。
もっともっと広めて行く!
日本絵手紙協会
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