東京有明医療大学
保険医療学部 鍼灸学科 教授
東洋医学研究所 付属クリニック 自然医療部門
川嶋朗先 氏
2014.2.7 19:30
2014.2.15 11:00
◆業種
医学博士 医師 大学教授
◆子供のころになりたかったものは?
両親の意向で劇団に入れられ、6歳から中学1年の終わりまで子役をしていた。
やりたくてしていた訳ではないが。どうせなら子供に人気のドラマや怪獣ものの映画に出たいと思った。
実際、怪獣映画「大巨獣ガッパ」主演子役の話も来た。
しかし、撮影場所が沖縄、撮影期間は40日もかかると言われたので親が断った。
学校を休まなければならないからだ。
学校を休まないでも出演できるのはNHKに限られるため、自然にNHKの仕事が多くなった。
当時は労務管理が適当で、撮影が押せば子役でも深夜まで残された。
忙しさのあまり、放課後友達と遊ぶ事も出来ない。
そんな状態だから、ずっとやめたいと思っていた。
母に話すと「主役をとるまでやめさせない」と言う。
中学1年の1年間、NHKのドラマで主役になって、やっと辞めることができた。
その後、大河ドラマの出演依頼や、有名監督から「それでいいのか」と何度もお電話を頂いたが、戻ろうとは思わなかった。
やめてみて、時間の豊かさを感じた。
落ち着いて将来を考えた時、医者になろう!と思った。
何故かと言うと、私自身が原因不明の病気を抱えていたからだ。
物心ついた時からずっと、右足ふくらはぎにしこりがあり痛みがあった。
ところが、医者が嫌いで、白衣をみると恐くて仕方がない。
白衣を着ているからという理由で、床屋さんにも行かれない程だった。
足が痛いと母に言えば、医者に連れて行かれる。
行きたくないので、我慢しようと決めた。
それでもある日、母にお風呂で体を洗ってもらっているとき、ふくらはぎを押されて思わず「痛い」と言ってしまった。
早速、医者に連れて行かれたが原因がわからない。
当時、都内の病院で行ってない所がない位、多くの病院にかかったがわからなかった。
それなら自分で治そうと思った。
また、子役をやめた頃から母がリウマチを患い、痛くて泣いている夜もあった。
その事も、医者になる決意を固めた理由になった。
母に「医者になろうと思う。」と話すと「お金ないわよ」と言われた。
「お金のかからないところに行くから」というと、「なにバカな事を言ってんの!入れるわけないじゃない。」と学校の先生に息子が大それた望みを持ったと言いに学校に飛んで行ってしまった。
暫くして戻って来た母が「あんた成績良いのね。先生は良いって言ってたわよ。」と医学部進学を認めてくれた。
「成績表を見ているのだからわかるでしょ。」と思ったが、母に言わすと「そんなもん、数字が並んでいるだけでわからないわよ。」だった。
子役の時から、セリフを1回聞くと一字一句間違えず全て覚えてしまう。
記憶力が良かったのだ。
他の人のセリフまで覚えてしまい、一字一句間違わずに言うので、業界では結構有名だったのだが、母は成績まで良いとは思っていなかったようだ。
大学は、家を出たかったので東京から遠い北海道大学を選んだ。
当時は、両親の夫婦仲があまり良くない時期だったし、結構マザコンだったので親離れしないといけないと思ったからだ。
医学部に進学して、診断技術が進歩したおかげで、ふくらはぎのしこりが良性腫瘍とわかった。
しかし、取り除くとなると暫くは歩けなくなるという先輩医師のコメントだった。
それが嫌で結局今でも大事に持っている。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
診療中、ずっと湯たんぽを太ももに置いている。
太ももが一番、筋肉の量が多いから。
温まりすぎないように、腰やわき腹等に移動する。
電気あんか等もあるが、電磁波のでない昔ながらの湯たんぽが良い。
体を温めると、一週間で、リンパ球が増加する。
癌の治療に600万円もかけたにも関わらず、リンパ球が殆ど上がらなかった患者さんが来院した。
早速、湯たんぽを試したところ、リンパ球が、一週間で3倍以上に跳ね上がった。
複数のがん患者さんに試して、同様の結果を得、英文で報告した。
冷えに関する本もたくさん書いた。
今では「冷えのカリスマ」と呼ばれている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
母
小学生の頃は、忙しかった割に結構ないたずら少年だった。
いじめられた時も、いじめた時もある。
ある時は、学校の塀の内側に穴を深く掘り基地にして遊んでいたら、1回のトイレの地下まで掘ってしまったらしく声が漏れて大騒ぎになった。
そんな時も、母が来て一生懸命謝ってくれた。
いつも守ってくれた存在。
今は家族。
どんなに強いストレスにさらされても、家に帰って倅達の寝顔を見るとすべて吹き飛ぶ。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
母の言葉
1、「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
子役時代から母がよく言っていた言葉。
主役になることも、医者になることも、「やって出来ない事はない。」と教わった。
2、「それが大人になるってことよ。」
大学時代、長期休暇で家に帰ってくると、いつも何もしないでゴロゴロしていた。
朝も遅くまで寝ているので母が「もういい加減起きなさい。」と言って来る。
「いいじゃないか、いつも北海道では掃除・洗濯・自炊をしているんだから家に帰った時ぐらいゆっくりさせてよ。」と言うと。
「家族の中でも気は使うものよ。」と言われたので「なんでだよ。」と答えた。
すると母が、「それが大人になるってことよ。」と言った。
19歳で、もうすぐ20歳になる時この言葉を聞いて、暫くボー然として言葉が出なかった。
「そうか、大人になるというのは気を使わない場所がなくなることなんだ。これからは、100%自分をさらけ出せる場所などなくなる。家族にすら気を使わなければならない。そうやって生きて行かなくてはいけないんだ。」とかなり落ち込んだが、その後、背筋が伸びた気がした。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
留学中、帰国を決意した時
北大卒業後、女子医大の腎センターで働いていたが、研究がしたくて大学院に行く事にした。
大学院で基礎研究をしていると、比較的多くの人がアメリカで留学したくなる。
私も、アメリカ留学がしたくなった。
ハーバード大学に手紙を出すと、給料付で迎えてくれると言う。
早速、行く事にしたが、先輩から「お前のようなやつは一人で行くと壁に向かって日本語をしゃべるから誰か連れて行け」と言われた。
飲み会で「誰か一緒に行く人!」と声を掛けたら、一人「はい!」と手を挙げた人がいた。
それが当時研修医だった今の妻だ。
妻は肩こりが酷かったので、アメリカへはハリと漢方を持参することにした。
私が、ハリと漢方を使う事になったきっかけは母にある。
リウマチで苦しんでいた母が、ある日スヤスヤと寝ている日があった。
その日は、ハリ治療を受けてきたのだそうだ。
その記憶でハリや漢方の素晴らしさを知っていたので、北海道大学医学部在籍中には何人かで東洋医学研究会創設・主宰していた。
女子医大でも、B型肝炎の患者さんでひどい便秘の女性がいた。
指導医の指示で、その女性にハリを打ったところ、15分後には排便し、連日続けたら排便習慣がついた。
アメリカでも、技士が寝違えて苦しそうにしていたので、「オリエンタルマジック!」といってハリを打ったら直ぐに治った。
そんな話が口コミで、近くのマサチューセッツ工科大学まで伝わってしまった。
ハリのセミナーを開いてほしいということになり、講演したところノーベル賞受賞者を含むマサチューセッツ工科大学の人達が「何でこんな面白いものをあまり研究しないのか」と問うので、「日本人は頭がかたい」と応えたら、「じゃあ我々が研究しようか」と言い出した。
「このままでは、ハリすらアメリカに先を越されてしまう。だったら日本へ帰って研究し、アメリカのはなをあかしてやろう!」とあわてて帰国する事にした。
阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件のあった年だけに、皆から相当心配されたが1995年3月に帰国した。
ところがその翌月の4月19日に突発性難聴になり、右耳が聞こえなくなるという事態が起きた。
元々花粉症だったがアメリカにいる間は治まっていた。
それが、日本に帰国したらひどくなったことが原因でそれによる中耳炎と勘違いした。
数日して仲間から突発性難聴じゃないかと言われあわてて耳鼻科を受診したが、遅かった。
ステロイドを含む治療を受けたが、結局戻らず、1ヶ月後病院内ですれちがった耳鼻科の教授からもう治らないと言われた。
自分にはハリや漢方薬があるが、治らないと言われた患者さんには何もない。
患者さん自身のできることはないかと考えて思いついたのが気功だった。
しかし、調べてみると気功には3,000もの流派があった。
迷っているとナースが、(腎センターの)所長の阿岸先生は気功ができると教えてくれた。
そんな身近にいたのか!と、さっそく伺って「教えて下さい。」とお願いすると「無理」と言われた。
北大時代に東洋医学研究会をつくったことを話すと「じゃあ教えてやる」と言って真氣光の中川雅仁先生を紹介してくれた。
1995年7月、初代中川雅仁先生の主宰する10日間の合宿に参加することにした。
この合宿の少し前、初代中川雅仁先生は脳梗塞で倒れたが奇跡的にも合宿に現れた。
合宿所では、中川先生が氣を出すと、参加者で歩けなかった人が歩けたり、目の見えない人が見えるようになったりと、沢山の奇跡を目の前で見た。
毎日ヨガや玄米食で生活していると、だんだん洗脳されてくる。
オウム真理教の事件があったばかりなので、少し不安にもなったが、講師の中には東京工業大学の先生もいて学問的に納得のいく話をしてくれた。
初代中川雅仁先生が「私は今まで、ただひたすら治してきたが、それではだめで、気づく事が大事だと知った。」と言った。
その時は目的語がなく意味がわからなかったが、後になって、今起こっていることの意味に気づくことが重要だとわかった。
たとえば病気には必ず原因があり、なぜその病気になったのか?ということに自らが気づく事が大事だとわかった。
初代中川雅仁先生は、夢のお告げで色々なことが解るようだ。
合宿も終わりが近づいた頃、130人の参加者の中から10人が中川先生に呼び出された。
両手を開いて近づけた間に、先生が手を入れて何かを確かめている。
そして合宿最終日、その呼び出された10名が「あなたたちは今日から氣功師です」と言われた。
私だけが知らなかったのだが、この合宿は氣功師になるための合宿だった。
大学病院に戻って、患者さんの膝に手を当ててみると、「先生!膝が痛くなくなりました!」と叫んだ。
驚いていると、患者さんが「ほら!」と言ってクイクイ膝を曲げ伸ばししている。
そんな事が続いたので、透析学会で発表すると、「エビデンスがはっきりしない。」等色々否定された。
治療費は取っていないし、実際に治った事実にさえ、目をむけてはもらえなかった。
次に、波動に興味を持つようになった。
気功で見えないエネルギーに触れたせいか、波動という見えないエネルギーの一種もすんなり受け入れられ、堂々とインストラクターになった。
世界中で翻訳され数100万部を超える「水からの伝言」の著者、日本の波動のパイオニアの江本勝氏とは、本が出る前からの知り合いだ。
物理学者の一部は、無機質である水が言葉を理解するはずがないといって「水からの伝言」を揶揄するが、言葉を理解しているのではなく、言葉を書いた人の意識が作用しているのではないかと考えている。
科学は事実を否定することではなく、目の前で起こっている事実を真摯に受けとめ、それを追求するものだと思う。
波動のインストラクターになった後、知人からの誘いでヨーロッパの伝統医療ホメオパシーを知ることになる。
このときに会った板村論子氏とは2000年に日本ホメオパシー医学会を作って、その研究・教育を共に担当する良き仲間である。
1997年4月、女子医大の東洋医学研究所から声がかかり、しばらく腎センターを離れることになる。
1年近くたったある日、教授と助教授からスタッフの一員にとお誘いと受け、その気になったが、条件として「西洋医学を捨てろ」と言われ「冗談じゃない!」と思って行くのをやめた。
それからは西洋医学と(漢方のみならず)相補代替伝統医療を組み合わせた医療である統合医療の確立を目指して、事あるごとに、理事長、専務理事、学長、病院長、医学部長のもとを訪れ、統合医療の必要性を説き続けた。
この間、神経精神科主任教授の田中朱美先生は私の心のよりどころだった。
日参のごとく訪問したかいがあって、2003年、春、当時の専務理事、濱野恭一先生から青山に場所を与えられた。
東京女子医科大学附属青山自然医療研究所クリニックである。
2003年6月に、このクリニックの所長になるまで、当時の、腎センター内科主任教授、二瓶宏先生には大変お世話になった。
留学前も、東洋医学研究所に行こうと思った時も、自然医療研究所クリニックに移籍した時も「戻りたくなったらいつでも戻れ」と、二瓶先生は常に腎センターに私の籍を置いてくれていた。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
国家試験を間近に控えた、大学6年生の正月、1月3日に母から電話が来た。
「医学部を出て、医者になれなかったら普通の人以下なのよ!だから国家試験は絶対に合格しなさいよ。」という内容だった。
「わかったよ。テニス部の仲間がついているから大丈夫だよ。」といって電話を切った。
テニス部の仲間は、東京に来るといつも我が家に泊っていたので母も良く知っていた。
その翌日の夜も更け、1月5日の未明に弟から急に電話が来た。
母が亡くなったという。
正月から悪い冗談はやめてくれと言ったが、「こんなこと冗談で言えるはずがないだろ!直ぐ帰って来い!」と言われた。
心筋梗塞で、寝ている間に発作が起きてあっという間に亡くなってしまったのだ。
卒業したら、東京の大学の医局に入局することが決まっていたのに。
私としては北海道に残って研究をしたかったので、母に相談すると、「ダメ。私にメリットないじゃないの。帰ってらっしゃい。」と却下された。
母の意向で東京に戻ることを決めたのに、その母が亡くなってしまった。
医師国家試験を目前にして、暫くは何も手につかなかった。
しかし、テニス部の仲間が勉強会を開き、「何もしなくてもいいから、お前はここに座っていろ。」と毎回誘ってくれた。
その場にいて聞いているだけでも結構身についたようで、お陰で諦めかけていた医師国家試験に合格することが出来た。
その後、母が亡くなったのは、もしかしたら私へのプレゼントだったのではないか?と思うようになった。
母の側にいたら、いつまでも親離れ出来ないでいたかも知れないからだ。
また、この経験から患者さんが亡くなった時、ご家族の気持を充分に汲み取れるようになった。
30代後半、患者さんの娘さんで亡くなった人の話を聞けるという人と出会った。
母のことを聞いてもらった。
翌日、「とても大切な事をおっしゃったので紙に書いてきました。」とその娘さんが飛んで来た。
なんでも、「こっちで結構気楽にやっているから心配しないで」、「ただ一つだけ医者になった息子に大事なことを伝えてほしい」と母に言われたそうだ。
「病気は、病気だと思うから病気であって、病気だと思わなければ病気じゃないのよ。」と。
この言葉は、今でも部屋の壁に貼って大事にしている。
そして今、人生最大のピンチを迎えている。
◆夢は?
医者が失業する社会を作りたい。
現在、医療費と税収がほぼ一緒で、今後、高齢者が増え、医療費が税収を上回る日も遠くない。
これでは日本は滅びてしまう。
医療費を削減し、日本を救うには予防が重要!
予防といっても現在の早期発見・早期治療といった二次予防ではなく、病気そのものにならない一次予防である。
一次予防が実現すればほとんどの医者は不要になり、結果的に医者が失業する社会になる。
就職に困らないからといって医者になるような現代とは異なり、本当に力のある医者でなければ生きていけない理想的な社会になる。
そのためには一般市民の意識改革が必要だ。
病気にならない意識を持ち、自ら間違いを正して安易に医者に行かなくなることである。
そのためにQOD(クォリティ・オブ・デス)、Death Styleを提案している。
QOLではない。
癌は死を予感させる疾患で、これを患うと患者の意識が変わる。
死ぬと思うとできなかったことができるようになる。
死ぬ日を決め、それまでにやるべきこと、やりたいこと、やれることを行う。
そのためには死ぬ日まで元気でいなければならない。
元気でいるためにどうするか、自ら努力する。
目的を達成し、その日になったらリセットしてもよい。
私は自分の葬式で、DVDを放映する予定でいる。
「とっても良い人生だった。悔いはない。皆さんありがとう。先に言っているので、又会いましょう!バイバイ」と話す私が写っているDVDだ。
このことを末期癌の患者さんに話すと、面白がって自分も「まだ見ぬ孫へ」という題でDVDをつくったが、孫が生れてもまだ生きていると笑っていた。
他にも似たような話がいくつもある。
どうも死を受け入れると、逆に長生きする傾向があるらしい。
QOD、Death Styleを考えればLife Styleを変え、結果的にQOLが上がる。
死ぬときに悔いなく満足して死んでいけるのだ。
死は敗北ではなくすべての人に共通の最後の義務である。
誰もが悔いなく死んでいく理想的な社会の実現が夢である。
東京有明医療大学
http://www.tau.ac.jp/department/teachingstaff/staffdata1/kawashima_akira.html
首に巻いて眠るだけ! こり・冷え・ゆがみ・疲れに魔法のネックウォーマー (GAKKEN HIT MOOK)
新品価格 |
体のココを温めると病気は治る! 若返る! (42℃入浴でシワ・シミが消える!)
新品価格 |
子どもは体を温めると頭がよくなる: 体温を上げるだけで、脳と心が元気になる! (知的生きかた文庫)
新品価格 |
ボケたくなければカレーを食べなさい 医者が教える「カレーが健康によい理由」 (Y’s BOOKS)
新品価格 |
コメントをお書きください
中原早苗 (月曜日, 06 2月 2017 15:00)
「一流セラピストとしてのコーチング講座」の師匠、おのころ心平氏から紹介してもらった統合医療家としての川嶋先生。「パーソナル健康学」のメルマガも愛読していますが、今日はより身近に感じました。
広島に住む私には、10年来血流の乱れと筋肉のこわばりによる下半身の不調に悩まされている41歳になる息子がいます。いろんな病・医院にかかりましたが、簡単な検査で「原因不明」と片付けられ、ろくに相手にしてもらえませんでした。歩く・座る・立つの姿勢が持続できず、日常生活にもだんだんと支障を来たし、遠からず寝たきりになるのではと案じています。今では外出もママならず病院に行くことも並大抵ではありませんが、丁寧に話を聞いて対応してもらえる医師を探しています。一度先生に診て頂けたらと思わずにはおれませんが、せめて広島近辺で先生のようなお考えの医師の方をご存知でしたら教えて頂けませんでしょうか。
今日のお話では、「病気の意味を考えることが大事」とのことでした。息子の場合は何を意味するのだろうかと思いをめぐらしますが、私にはよくわかりません。