名古屋大学
第13代総長
総長顧問・教授
医学博士
濱口道成 氏
2015.1.22 13:30
◆業種
大学総長、医学博士、研究者
◆子供のころになりたかったものは?
研究者ですね。
研究者になりたいと思ったのは、世の中が不思議でたまらなかったからです。
その気持ちは、基本的に今も変わらない。
小学校の低学年から、自分以外にも人間はたくさんいるが「他の人はどういう存在なのだろう?」と思っていました。
自分と言う人間はわかるが、相手の意識はわからない。
言葉で言っていることは分かるけれど、その人の心の中は全くわからない。
それが不思議でなりませんでした。
「この世の中は、自分以外は全部機械で出来ていたとしても、それはそうかも知れない。」と思ったりしていました。
医学を志したのも、この疑問が背景にあったからかもしれません。
他にも「植物はなぜ生えるのか?」とか、庭の桜の木を見ては、「桜の木はどうして桜の花しか咲かないんだろう?桜の木に椿の枝を繋いだら椿は咲くのだろうか?」等と考えていました。
自分の外の世界を、五感で見たり聞いたりしているけど、本当のところはどういうふうになっているのかと夢想することが多かったと思います。
また、目的が明確でないことをするのが嫌で、友達に「遊ぼう」と言われても、何をやるのかよくわからないままフラフラどこかへ行くのは面倒でした。
それは大学生になっても変わらず、マージャンも嫌いでした。
人に合わせて何時間も拘束されて、勝つか負けるか必死なのだが、「そんなことをしていても仕方ないじゃないか!?」と思っていました。
とにかく、私はマイペースだと思います。
色々考える事と本を読むのが好きな子供で、サイエンスフィクション(SF小説)や研究者の生涯を書いたものが好きでした。
また、古代ギリシア・ローマの話や、「プルターク英雄伝」等も好きでした。
母親はそういう気持を大事にしてくれました。
毎月2冊は家に本が届くようにしてくれました。
そうやって、ゆっくりと育ててもらったようにも思います。
ただし同じ本でも教科書は別、事実は書いてあるけど、 「何故か?」とはあまり書いてないと思い、勉強は嫌いでした。
両親は共に明治生まれで厳しく、「男は肝を据えてないといかん。くよくよ迷ったり悩んだりせず、腹を据えておれ。」といった事を繰り返し教えられました。
父親は戦争の時、軍医として中国へ徴収され、一度戻って予備役で南方に召集されました。
私は、戦後、父が落ち着いてから生れたので、6人兄弟の5番目、母は数えで40歳でした。
私の家族は大人数で、祖母と慶應3年生まれの曾祖母も同居していました。
曾祖母は江戸時代の人で特に厳しく、子供の時から諺や格言を通して躾られました。
朝寝坊で遅刻をすると、「早起きは三文の徳」、最後までやりとげない時は、「百里の道は九十九里をもって半ばとす」等と、今でも覚えています。
曾祖母は、平均寿命60歳くらいの時代に101歳まで生き、 90歳代までは普通に生活していて妹の子守もしていました。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
じっと考える事。
家内からは生返事をするとよく叱られますが、その時私は考えているのです。
また、様々のジャンルの本を読んだり、時には絵を描いたりしています。
40歳の時、息子が字を習っていた、高濱虚子に師事した俳句の大家、宇佐美 魚目(うさみ ぎょもく)先生に字を習う機会がありました。
10年くらい続けているうち「色が無いなぁ」と思うようになり、絵を描き始めました。
油絵を始めたかったのですが、気管支が弱くオイルの匂いがきつかったので日本画にしました。
今は、オドレスペンチングオイルという石油臭のないオイルが開発されたので油絵も楽しんでいます。
自分の仕事以外の、好きな事をやる時間を持つと人生は豊かになると思います。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
・松本利貞先生
大学に入った年、大学紛争で東大入試も無く、大学解体が叫ばれた時代でした。
その為か、固定的な価値観や、人の言う事を聞いて、集団でやることはあまり信じられない考えを持つようになりました。
その時は世の中の大勢となっていたことも、後になったら変わってしまう事を経験し、既定の価値観はあまり信じていません。
基礎研究に進んだ時、名古屋大学医学部の教授は紛争の為どんどん退職をしてしまい、通常の三分の一、十数名になっていました。
その中で、一番優しく穏やかな松本利貞先生に師事しようと決めました。
松本先生は、私のやりたい事を何でもやらせてくれ、結構失礼な事を言ってもニコニコと笑っていらした。
当時は、インフルエンザの研究をしていましたが、生物学的な解析だけでは飽き足らず、生化学的な解析もしたくなりました。
しかし、周りに生化学的な解析をしている教授がいませんでした。
そこで京都大学ウイルス研の石浜先生へ勝手に電話して、「先生の所で少し勉強したい。」とお願いし、承諾を得てしまいました。
当時の価値観では破門になりかねないような、とんでもない事だが、松本先生は「それを前もって聞いていたら止めたんだがねぇ~」とおっしゃる程度でした。
その上、研究費が要るだろうと、支援もして下さった。
本当に優しい、心の広い、春風駘蕩という言葉の浮かぶ優しさを持った先生でした。
しかし、松本先生も軍医のご経験があり、その優しさは、体験に基づく死生観から生まれた腹の据わった優しさだったと、今では思います。
人生の実体験が違うのだろうと思います。
60年を超える人生を経験してきましたが、松本先生のようなお方は、松本先生しかありません。
・一番影響を受けた作家は「ドフトエフスキー」
人間の捉え方が的確で、人間の存在の深さを描き切っていると思います。
善人が人を不幸に陥れ、悪人が純情だったりするように、「自分」の中には、悪い要素と 善人の要素が共存している。
子供っぽいところもあるし、老人のようなところもあり、また、ある人には良い面をみせ、またある人には悪い面を見せる等といった事もある。
両価性を持ったさまざまな要素が、混然と一体になって一人の人間が出来ていると思います。
「人間」とは、奥深い存在です。
・英語の書き方、観察の鋭さを学んだ作家は「サマセット・モーム」。
良い文章を読むと的確な表現が出来るようになりました。
論文の表現にも役立ちました。
彼も、人間の両価性について深い視点を持っています。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「艱難辛苦 汝を珠にす」
父親がよく言っていた言葉です。
今でも父の声が聞こえます。
戦争を越えてきた実体験に元づく言葉でしょう。
父は「山中鹿野助を知っているか?山中鹿之助は、月よ、我に艱難辛苦を与えたまえと祈った」と言いながらこの言葉を言っていました。
※山中鹿野助:戦国時代から安土桃山時代の武将で、三日月に向かって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話がある人物。
戦争を超えて帰って来て、家族を守って、生きて・・・ごく普通に見える父の人生の中に、この言葉の真実があると思います。
父はまた、常日頃から、「生活は質素にしなさい。楽をしたり、贅沢をするのは簡単だ。だが、一度贅沢してしまうと質素な生活に戻すのはとても大変だ。だから贅沢や楽をしてはいかん。」と言っていました。
自分の実感としても、人生9割方は上手く行かないものだと思います。
一方で、期待した通りに物事が運んだら、実はあまり面白くないと思います。
様々な体験の中に、人生の真実、深い意味があるのでしょう。
成功だけ、安定した生活だけ体験していると、人の気持ちもわからないし、自分がやったことでどれだけの人が傷つくかもわからない。
成功した時の深い喜びも実感できないでしょう。
尊大な言い方に聞こえるかもしれませんが、苦労することで、世の中の奥行きとか、広がりとか、人の心の複雑な想いとか、その人の人生とか、色んな事を感じられるようになるものです。
瞬間的に感じる幸とか不幸とか、そう言う感情はその場だけのものでしょう。
人にとって、本当の苦労とは、不治の病で死ぬかも知れないといった状態になった時や、大事な人を失うときでしょう。
その他の悩みは、何とかなるものですし、時間が解決してくれることも多いと思います。
人は、自分の幸福は過小に評価し、不幸を過大に感じるものです。
以前、インドネシア第3代の大統領ハビビさんと話した時のことです。
彼は私の目を見つめて、私に語りかけました。
「インドネシア人の料理は騒々しいと言われる。しかし、音も匂いもない料理はまずいものだ。」と。
2、「平凡なことを、毎日平凡に行うことは非凡である。」
フランスのノーベル文学賞作家、アンドレ・ジッド(1869年11月22日-1951年2月19日)の言葉
若い頃には、無意識の中で、人生がいつまでもあるように思えるが、時は移ろい何時かは消えて行くものです。
そしてまた、日常の瞬間、瞬間、その時は些細なことと思うことも、実はとても深い意味を持ちますが、その時は気付かないものです。
命が永遠にあると思っていると、大切な瞬間を見逃してしまいます。
また、 日々の課題に誠実に対応する心を失うものです。
どんなことにも意味が有り、何かを自分に語りかけていると私は思います。
どのようなことでも、よく味わう事、そして味わっていれば、幸運だとか不運だとか、幸福だとか不幸だとか、そういう感情を超えた深い世界が我々の前に広がっていることに気が付きます。
人生はまた、ちょっとしたきっかけで大きく変わって来るものです。
日常のこまごまとした出来事の中に、実は人生の分かれ目になるような事が一杯あると思います。
その集積の中で、自分の一生が出来上がっていくのではないでしょうか。
後で考えてみれば、あの時とても大事な瞬間だったと思うような事がありますが、その瞬間は、多くの場合気が付かないことが多いと思います。
重大なことが起きる時は予兆があるとか、幸せな時は周りがバラ色に見えるとか思っている人がいますが、それは「ドラマの見すぎ、小説の読み過ぎ」でしょう。
実際の現実においては、ごく当たり前の、極めて日常的な事が、実はかけがえのない幸せの本質だと思います。
しかし人間は、飽きっぽいものです。
そして目の前の幸せが視界に入らず、「あっ」と思った時にはかけがえのないものが消えています。
「青い鳥」は目の前にいるのです。
話は戻りますが、私の父親は軍医として、極限の状態で、多くの人が亡くなるのを見て来ました。
振り返ってみれば、父や 松本先生のように、戦争を乗り越え、極限の状態を体験して来た人達は、強い意志と深い死生観を持っていると思います。
昨今、その世代が消えていくと共に、 日本人は変わって来たなという感じがします。
今の人は簡単に悩むし、悩みすぎると思います。
そして悩む自分に、感情的に没頭し、結果としてかけがえのない自分の時間を捨ててしまっているように思います。
「悩んでいる」という自分の思いに囚われてしまうと、目の前にある真実が見えなくなるものです。
悩みは人生にはつきものですが、迷う、悩む、辛い等という感情をまず横に置いて、今起きている事をじっーと良く見て、どうしたらいいのかを良く考えるべきだと思います。
そして、生死を分けるような悩みでないなら、悩みの原因を良く見て味わって、「これは得難い(有難い)悩みだな。」と思いぐらいがいいのではないでしょうか。
私も大学の運営などで眠れない夜は有りますが、悩んでいるだけでは問題は解決しません。
「存在とは行動だ」との言葉の示すように、行動しなければ物事は前に進まないし、自分なりの希望も描けないと思います。
仕事柄、開発途上国を訪れることが多いのですが、世界から見ると、実は日本人はとても幸せな環境にあります。
70年間戦争は無いし、こんなに豊かで安全な生活が出来る極めてまれな国です。
国によっては、小学校に入学した女の子の半数が卒業できず、それと裏腹に、結核病センターで、多くの若い女性がエイズと結核の重感染で自分の死期をじっと待っている生活をしています。
彼我の現実を比較した時、日本人の囚われている悩みの向こうが見えてくるはずです。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
5回あります。
1)中学2年生の時
小学校から中学2年生まで本当におちこぼれで、母にも「普通高校に行けないね。」と叱られていました。
一方、私以外の兄弟は皆おりこうさんで、勉強も良く出来ました。
それでも、中学2年生になった頃、「何かこれはちょっといかんな」と思い始めました。
自分がダメという悩み方はしなかったが、思い出せば中学2年生の9月の事、私の最初の転機があったと思います。
当時は離れに住んでいたので、夜更けに犬を連れ港の方へでたものです。
松籟(しょうらい:松の梢に吹く風)の音を聞きながら、月が煌々と照っている中、家から少し歩くと港には木造船が並び、渡し船からカンテラの明りがボッーと見える中、一人考えたことを思い出します。
「どうしようかな?大人いなりたくないな?働きたくないな?」と考えながら、「何で勉強出来ないのかな?あぁ嫌いだからだ。どうしたらいいか?好きになれば良 い。好きになる方法は何だろう?」と考えを進めました。
そこで、自分が不思議だと思った事をノートのまとめてみようと思いました。
植物の茎の構造はどうなっているのか?なぜ植物は生きているのか?そういった疑問を、ひとつひとつ百科事典を開きながら調べ、絵も描きながら書きとめていきました。
それがとても面白く、 もっと調べてみようと思って、歴史や地理等の他教科もどんどん調べていきました。
数学は勉強しなくても出来たので、そうして勉強したら成績も上がり普通高校に入学できました。
特に物理と数学が好きでした。
私の父も数学が好きで、八高(後の名古屋大学)の時、数学をやりたいと言ったら親に叱られ、東大の医学部に進学しました。
親戚にも医者が多く、結局私も、人に対する興味がもとで、医学部行く事になりました。
しかし、実際、医学部に入ると覚える事ばかり、暗記ばかりでつまらない思いでした。
道を間違ったかなと思いましたが、入ったからには人の役に立ちたいと、一時は外科医になる事を決意し、大垣市民病院でインターンをすることにしました。
2)基礎研究に進もうと決意した時
しかし現実は厳しい。
病院で、一晩に腸閉そくの手術を3件立ち合い、次の日は朝から外来、回診のお供となると、もうヘロヘロになります。
つくづく、自分には体力の無いことがわかりました。
その時もやはり9月でした。
病棟の窓から外を見ると、広大な田んぼに稲が揺れている。
遠くで新幹線がシューッと走って行くのを見ながら、「どうしようかなぁ~」と考えました。
「外科医は無理だなぁ~~~。」と考えていたらいきなり閃きました。
「そうだ!基礎研究者になろう!」まるで宇宙空間をワープしたかのような発想でした。
実際、外科医は一人前になるのが40歳頃です。
その時の実感は、自分が40歳過ぎまで生きている保証はどこにもない。
それなら、やりたい事をやった方が良いと思いました。
ただ、研究者として生きていく自信はありませんでした。
そこで、大学院を出たころに、研究者として本当にやって行くかどうかを決めよう。
もし自分が、その時研究費を取れて、研究プロジェクトを考える事が出来て、論文が書けたら続けましょうと思い、進むことにしました。
自分の来し方行く末に迷うとき、私の場合は、なるべく具体的に、この歳までにこれが出来たらこっちに行きましょう、出来ていなかったらあっちに行きましょうと考えることにしています。
しかし、大学院在学時、伊勢で開業医をしていた父が 寝込んでしまいました。
結局、兄が後を継ぐ事になりましたが、手伝うため、時間が空くと車で名四国道を通って伊勢に帰り、朝から外来と往診をして夜中に名古屋に戻るという生活を続けたことを覚えています。
博士号を取り、運良く助手になれそうな事を父に話すと、「基礎研究をやるという事は、赤貧に甘んじると いう事だ。その覚悟はあるか?」と言葉を残し、亡くなりました。
当時と比べ、今は時代も変わり、研究者の待遇も良くなったと思います。
3)癌研究のためアメリカに渡った時
大学院を出て助手になり、研究者を続けて行こうと思ったその時、フッと迷いました。
インフルエンザウイルス等のウイルスを研究していましたが、もっと生死に直結するもの、癌の研究がしたいと思いました。
当時、1980年代は、癌を起こす遺伝子「がん遺伝子」というものがわかり始めた頃です。
がん遺伝子は、元々特殊なウイルスが癌を引き起こす、というところから解明され始めたもので、ラウス肉腫ウイルス、藤波肉腫ウイルス等、癌を引き起こすウイルスがいくつか見つかっていました。
そのうちのラウス肉腫ウイルスが最も古くから研究されており、フランシス・ペイトン・ラウス博士(ノーベル生理学・医学賞受賞者)が、1911年ロックフェラー大学で見つけたものです。
そのロックフェラー大学で教授としてラウス肉腫ウイルスを研究していた日本人に、花房秀三郎先生がおられました。
花房先生の論文を見て面白そうだと思いました。
ミュータント(突然変異体)を研究しているのと、先生に師事した人が確実に複数の論文を書いているので、「この先生はちゃんと指導する先生だ」 と、論文の出方でわかりました。
そこで、花房先生がアメリカから神戸に講演に来た時に、実際お会いして師事することを決めました。
初めて会ったとき、花房先生は、独特の印象を持っていました。
一種、剣豪の殺気の似た気迫を持ち、極限まで研究を突き詰めて考えている方でした。
今だとオーラがあるという表現でしょうが、そんな生易しいものではない「圧倒的で静かな気迫」。
その気迫にただ圧されるばかりでした。
私の友人の体験にこんな話があります。
夏の暑い日、ロックフェラー大学のエレベーター内で、たまたま2人だけ一緒になりました。
シーンとした空気に耐えられなくなった友人は、何か言わなきゃと思い「今日は暑いですね。」と話しかけると、一言「夏は暑いものです。」と先生は答えるだけでした。
先生の弟子は皆この緊張感に満ちた静寂について、同じような経験をしています。
ともあれ、先生との日々続く真剣勝負の対話は、深い体験となりました。
ところで、当時’80年代のニューヨーク では実に危険で、貧乏な生活をしていました。
ただ私にとっては、必死に苦労と格闘していた時の方が深い思いも残り、得難い記憶となっています。
逆説的ですが、苦労そのものが幸福であったともいえます。
自分の必死な思いの中にこそ、二度と戻ることのない得難い瞬間があると、つくづく実感します。
テレビの映像にニューヨークが移ると、突発的に、無性に帰りたくなりますね。
ニューヨークに。
そして、あの頃に。
1985年から3年間ニューヨークで暮らしま したが、当時のニューヨークは、極めて危険なところでした。
グランドセントラル駅の裏側数百平方メートルのエリアで、年間500人を超える人が撃たれて殺されていました。
当時の愛知県の自動車事故(年間400人余)よりずっと多かったので、この数字を覚えています。
ある日、道路に不自然に車が止まっているなと思うと、フロントグラスに銃弾の穴が開いている。
歩道を歩いていると、横を突然警官が走って行き、犯人にホールドアップさせている。
道に人が横たわっていると思ったら、殺されたばかりだったなど、まるで映画の中を歩いているようなものでした。
そんなニューヨークも、1994年ルドルフ・ジュリアーニが 市長になり、警官が増え犯罪が減り、安全な都市になりました。
今振り返ると、このニューヨークにいた3年間が今迄の人生で最も幸せを感じた時だと思います。
しかしその幸せは決して単純なものではありませんでした。
80年代のアメリカでは、随分ひどい差別も体験しました。
しかし、この種の体験は、 我々の置かれている時代、社会を実感としてとらえる契機でもあります。
言わば「この世という現象」を深く捉える情報となったという意味で、深い認識にたどり着けたという充実感があったと思います。
ところで、日本人は、紅毛碧眼に弱いですね。
相手が金髪で青い目だとやたらへりくだるが、その反面アジア人には上目線で応対する人がいます。
人間の尊厳に違いはない筈です。
自分の体験からの実感としても、「どんな人間にも尊厳はある」。
言い換えれば「人に貴賎なし。」と、私は思います。
3)医学部長になった時
アメリカから戻った後、もとのポストへ戻ったにもかかわらず、何だか情報のエアーポケットに陥ったような気がしました。
一方、ニューヨークで実感していた時代の流れに比べて、医学部の体質が古い事に改めて驚きました。
そこで教授会であれこれ意見を言っていると、「そんなに言うならお前がやれ」という事になりました。
発言が多いから、雑用がまわってくる。
研究がしたいから、雑用を早くこなす。
するとさらに仕事が回ってくるという状態で、結局医学部長になったのが10年前のことでした。
当時、医学部教授会のほぼ半数の方は、私より年上であったことを覚えています。
いろんな意味で、若かったのでしょう。
大学という組織の運営に手を染め始めたきっかけは、不条理に思える状況に対する何とも表現しがたい思いからでした。
4)総長になったこと
4番目の転機は、総長になったことですね。
医学部長の時期に感じていた、ある種の不条理の延長で(はずみで)総長になりました。
大学というアカデミックな組織は、一種独特の文化を持つ空間です。
その中で、医学部は唯一「社会に開かれた窓」に思います。
日々多くの方が、最後の治療法を求めてたどり着く場所、それが大学病院です。
入院患者さん1000人はどの方を取っても重い病に苦しんでおられるし、毎日訪れる2000人の外来患者さんは多種多様の悩みを持ちながら、救いを求めておられる。
その中で、医学部は最先端の治療法の開発を図りつつ、病院が財政的にも破綻しないよう日々の努力が必要な場です。
その現場から 見た時、大学というアカデミックな場は、いささか悠長な印象を持たざるを得ない面があります。
また当時、国立大学法人も第2期中期計画期間を迎え、いよいよ厳しい財政状態に入りつつありました。
その頃、総長選挙が始まりましたが、浮いた話をする候補が多いので、そんなに甘くはないぞと暗い話を語っていたところ当選しました。
実は突然の予定していなかった事態だったため、多くの人に迷惑をかけました。
妻にも、「絶対当選しないから、言いたいことを言わせてく れ。」と話しておりましたので、あとで非難を受けました。
総長になってから、まず目指したことは「名古屋大学からNagoya Universityへ」を掲げた大学の国際化です。
何故かと言えば、その理由は名古屋大学の地政学的特徴にあります。
名古屋大学は、東海3県からの入学生が70%を占め、大学へ入っても自宅から通う学生の多い大学です。
大学での勉強は、自分の中にある可能性に目覚め、自立していく道を学ぶ場であると考えます。
しかし、自宅から大学へ通っていると、高校までの延長になってしまい、自分の可能性に目覚めるチャンスを失いがちです。
自立するためには、人は、まず孤独を知らなければなりません。
毎年入学式で「海外へ出かけなさい。」と話した結果、6年間で海外へ出かける名大生は6倍、700人を超えるようになりました。
勿論そのためには、単位互換や、安全管理、海外インターンシップの開発等の支援も必要でしたが。
アジアに出かけてみると、我々の近くには長い歴史、と多様な文化を持つ国々があります。
私は、中国に行くと筆を一本は買って来ますが、種類が多く、其々地方によって全く書き味が違います。
日本の筆は、言わばおりこうさんで、どこの筆も同じような書き味ですが、中国の筆は暴れたり、俺を使いこなしてみろとでもいう異形のものがあります。
筆一つを見ても、その国その国にある文化的多様性の個性が面白いと思います。
日本も、かつては文化・社会の多様性がもっとあったと思います。
私は 大学生の頃、旅が好きで、よくふらっと出かけました。
大阪発の深夜の各駅停車に乗ると早朝に鹿児島につきました。
その頃は、駅前に銭湯があり、中でおじいさんたちが朝風呂に入っていましたが、話している言葉はまるで外国語の様で、一言も分からなかった記憶があります。
その頃駅前は、土地の文化を反映した個性がありましたが、今は何処にいっても同じようなコンビニがあり、駅舎も金太郎飴のように同じものになってしまいました。
日本は高度成長期に効率化を求めるあまり、個性が消え、異質のものを排除する無菌社会になってしまったようにも思います。
そして、その結果が、引きこもりやいじめ、鬱を生み出す結果になっていると思います。
今や日本人は、意見を言うのは躊躇し、誰もが様子を伺ってばかりいます。
それと対照的なのが、人種のるつぼニューヨークです。
アメリカは、ポジティブ評価で、個人の自立と個性を重んじる国です。
今日本では、イノベーションという言葉が氾濫していますが、高度無菌社会になった日本は、戦後間もなくの時代のようなイノベーションを生み出す活力と独創性を失ってしまったと心配しています。
改革の道はあるのでしょうか。
実は、私の思いついた唯一の処方箋が、大学の国際化でした。
私は、スタッフにも恵まれ、様々の困難はありましたが、総長として大学の国際化を図り、研究力を飛躍的に伸ばすことができました。
今は、それなりに達成感を持っています。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
中学2年生で、落ちこぼれになった時のことは、自分にとって大事な経験だったと思います。
この経験があるから、弱い立場の人や落ちこぼれた人の気持が少しはわかると思います。
もう一つは、研究者として働いてきたことが、大きいと思います。
実験は、決して自分の期待通りに進まないものです。
また実に孤独な、報われないことの多い作業です。
時には、不都合な真実に直面しますが、それに目を背けることなく、直視する勇気が必要です。
研究者として学んだおかげで、失敗や困難があっても、とりあえず自分の私的な感情は横において、冷静に条件分析をし、データの解析を進め、仮説を立て、予備実験を行い、手ごたえがあれば 本実験へ進み、仮説を実証します。
この本実験は、次の予備実験となり、新たな前進が生まれます。
そう言う論理思考と行動のプロセス、そして忍耐を、研究から学ぶことができました。
どんな困難も、障害も、試練も、致死的なものでなければ、どこかに部分解があり、先へ進む細い道が見えるものだと思います。
また、多様な留学生を指導してきたことから学んだ事は、世の中にはいろんな人がいて、人を動かそうとするなら、その人が確信を持つまで待つことが大事ということです。
◆夢は?
実は、今私は挫折の時です。
マウスや細胞はうそをつかないと思い研究者になりましたが、紆余曲折在って、総長という研究できない環境に自分を追い込んでしまいました。
そこで学んだことは、得難い経験とはなってはいますが、本来の自分の生き方からすれば、もう一度、一研究者として働きたいと思っています。
4月になったら研究現場に、しばらく戻していただきます。
研究者にとって、発見というものは、どんな些細なものでも凄く感動が有ります。
それは年に何回も有るわけじゃないが、あーでもない、こーでもないと考えても上手く行かない日が続き、ある日、「ハッ」と見える時が有ります。
そんな瞬間は、言葉で表せない充足感に包まれます。
パスツールはこんな言葉を残しています。“Chance favors prepared mind.“と。
そんな自分とは矛盾しますが、人生の最後は全く違う仕事をしながら、この世からそっと去っていきたいとも願っています。
できれば芸術家が好い、しかしその才能はないことを知っています。
離島で、無医地区で医者として働いているかもしれない。
きっと医療過誤を起こしそうだけど、、、
名古屋大学
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