想いをつなげる
「WaRa倶楽無」
代表
船越康弘氏
2014.6.2 15:00
◆業種
オーベルジュ経営
(おいしい料理をゆっくり堪能できる宿泊施設付きのレストラン。フランスが発祥国。―デジタル大辞泉より)
◆子供のころになりたかったものは?
1、料理人
母が学校給食の調理士をしていた影響で、子供の頃から料理が大好きだった。
小学校5年生で、シュークリームを一人で作ったこともある。
電気式のオーブンなんて無かったから、ガス台に箱型の天火を置いてシュー皮を焼いた。
更に、母が教職員組合の旅行等でいない時は、父や姉、兄のお弁当は私が作った。
母は、いつも質の高いものを私たちに与えてくれた。
母の作るものは、どれも美味しく、外食が美味しいと思ったことはない。
インスタントラーメンが流行り始めても、私は美味しいと思ったことはない。
母は、化学調味料を使わずうまみを出してくれていたので、舌が合成のうまみに反応しなくなっていたのだと思う。
また母の料理は、食べる人のことを想い、材料を一つ一つチョイスし愛情を込めて作ってくれたもの。
商業目的で作られた食べ物は、どうしても美味しいと思えなかった。
私も、原材料からごまかしなしの料理人になりたいと思った。
命は食べて来た物の集積物。
「食べて来たものの質が良ければ命の質は上がる。」と考える。
2、中学校の社会科の先生
中学2年生の担任が社会科の先生で、その先生が大好きだったため。
私は、子供の頃から体が弱く、小学校の4、5年から原因不明の偏頭痛に悩まされていた。
中学では体育はいつも見学。
そんな私に、とても目を掛けてくれたのが、担任の先生だった。
テニス部の顧問をしていて、体育もできないような私に「テニス部に入れ」といってくれた。
更に、「キャプテンになれ」と、いつもニコニコしているからという理由でキャプテンにしてくれた。
評価を形にしてくれた先生だ。
お陰でとても自信がついた。
更に、その先生は生徒会の顧問でもあったため、3年生になった時は「生徒会長になれよ。」と推薦してくれた。
生徒会長なんてスポーツが出来て、成績優秀な優等生がなるものだと思っていたので本当に驚いた。
ところが投票で、本当に生徒会長になってしまった。
お陰で、劣等生だと思っていた私に自信がついた。
先生は「人を喜ばすことをすれば、自分が楽しく生きられる。」と教えてくれ、更に「お前にしかない良さがある。」と言ってくれた。
この先生は、スケートの高橋大輔選手の中学時代の恩師でもある。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
毎朝一番、敷地の中にある、小さな神社やお社、お地蔵さんのところへいって産土神様参りをする。
「今日もこの命を頂いたことに感謝致します」と言って、神道の「大祓詞」を奏上し、「フランチェスコの平和の祈り」を唱え、落ち武者等の石塔や五輪塔で十句観音経と般若心経を唱える。
天地人一体法と言って、毎朝散歩を兼ねて1時間程祈る。
私たちの体は殆どが空間だから、食べ物による影響より、祈りの方が明らかに大きな影響を受ける。
呼吸法を使い、自分の体を自然の中でエネルギー循環させる。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
桜沢如一(さくらざわ ゆきかず)氏
玄米食を主食にした食養、マクロビオティックの提唱者。
当初、日本では受け入れられず海外に持ち込んだところ、爆発的人気を博した。
アメリカの大統領やマドンナ等もマクロビオティックの実践者だ。
18歳の時、初めて桜沢氏の本を読んで思想に感銘を受けた。
「人間の目的は、やりたいことを、やってやってやり抜いて、縁ある人に出会うこと。」
大概は、外に出なければ出会えない。
外に出るには健康が必要。
健康には、食べ物が大事という考えから「食養」が生れた。
本:松下幸之助著
「道をひらく」
16歳の時、この本を読んでビックになるぞ!と思った。
高校卒業後、18歳で「ビックになる!」と大阪に出て、寿司屋、キャバレーの呼び込み、最終新幹線の掃除、ゴルフ練習場の球広い、ホールボーイ、皿洗い、レストランの下働き等、12種類もの仕事をした。
しかし2年後、「このままではビックにはなれない。」と限界を感じた。
松下幸之助氏の時代は、まだ社会が確立されていない時代だったが、こんなに出来あがってしまっていては無理だ。
以前から感銘を受けていた桜沢先生の提唱する、食養を形にした組織に入って勉強を始めたが、何か違うと思った。
健康に走り、美味しい、楽しいと感じることのない食事に疑問を感じたのだ。
先生たちの作った玄米食を思わず「まずい」と言ってしまった。
すると、私が理屈で食べているから「まずい」と感じるのだという。
しかし、私は生まれた時から原材料が確かなものを食してきたので、舌には自信があった。
しかも、給料の大半を5日で使い果たすほど、食事にお金をかけていた。
40年前でも、1席2〜3万円もする懐石料理を平気で食べに行く位だから。
また、美味しいと評判のうどん屋があると聞くと通い詰め、最初は料理人の見える席に座り、どんな食材を使っているかチェックする。
ちょっとゴミ箱を覗けば、殆どの食材がわかる。
「あーなんだかんだ言っても、だしは鰹だけでなく鯖節等の混ざりものかぁ。
ほうー昆布は良いのを使っているな。」といった具合だ。
次に行ったときは、隅に座り「ここのうどんは美味しいから、天かす等何も入れないで下さい。」と注文し、ペットボトル等ない時代だから、持参した牛乳瓶につゆを入れて持ち帰った。
家に帰ってその味を再現する。
再現できるまで通い詰め、再現出来たら卒業!という遊びを、友達が合コン等にお金を使っている年頃に繰り返した。
身体が喜ぶような、玄米食を提供したい!
桜沢如一先生の思想を証明したい!と思って、組織の中ではなく自分でマクロビオティックを始めることにした。
マクロビオティックのオーベルジュを開業しよう!と、妻と二人でガムシャラに働いて2年間で1000万円を貯めた。
実家のある岡山に帰り、オーベルジュの開業準備をしようとした矢先、私の留守中、実家が火事になった。
長男は隣の人に助けられたが、次男を妊娠中の妻は自力で2階の窓から雨どいを伝って脱出、大けがをした。
救急車で病院に運び込まれ、私も病院に駆け付けた。
妻は、輸血をしなければならない状態だった。
妊娠後期の輸血は、問題が多いがやむを得ない。
妻もお腹の子も助かったが、次男が生れて8ヶ月の頃、化膿性髄膜脳炎と水頭症を併発してしまった。
助かっても障害が残ると医者に言われた。
なんとしても治したい。
食に関して多く勉強していたので、自分たちで何とかすることにした。
母乳を与えている妻には、血液を綺麗にするため、毎日玄米食と私の作った味噌汁を食べてもらった。
次男は里芋で作った「芋湿布」で毎日手当を続けた。
芋湿布は炎症や腫れを沈め毒素を取り除く。
半年後、次男は何の障害も無く回復した。
半年間仕事を休んでつきっきりで看病したので、貯めた1000万円はなくなってしまった。
そこで、色々と必死で調べ、子供がいる家庭対象の特別制度を見つけた。
農林中金で、開業資金の融資を受けることができた。
それで山に土地を買って、生活提案型のオーベルジュを開業した。
料理人の先輩たちからは、「玄米と野菜だけの食事のためになんで岡山から2時間もかけて行かなきゃならないんだ!お前は日本料理だって、中華だって、スイーツだって出来るじゃないか!?それをやれよ。」と言われた。
それでもマクロビオティックに拘った。
家族が食べられないようなものを、お客様に提供出来ない。
しかし、半年経ってもお客様は一人も来ない。
半年後、さすがに哀れに思った先輩が一人、ひょっこり来てくれた。
商売とは、出したお金以上のものを提供出来れば成功すると思っている。
心を込めて接客した。
玄米食の美味しさを知ってくれた先輩は、口コミで広めてくれ、テレビや雑誌の取材を受けるようになった。
お陰で、先輩が来てくれた半年後には年間3000人の宿泊客が訪れるようになった。
ところが、お客様がたくさん来てくれるようになると、当然だが水道もたくさん使うようになる。
うちの敷地の下は庄屋さんの家で、そこと水道を分けていたため庄屋さんから水道の使用を控えてほしいと訴えられた。
営業権より生活権が勝つため、結果的に水道を止められてしまった。
必死に考え、調べまくり、自前の水道をつくることにした。
屋根の上に降った雨水を、大量の小石数種と炭で3メートルもある巨大ろ過機を完成させた。
そうこうしているうち、益々オーベルジュが話題になり、大手ホテルチェーンから依頼され顧問にもなった。
更に、関係省庁から村興しのセミナーを依頼される等、今度は忙しすぎて家族との時間を取れなくなってしまった。
このままではいけない。
家族を大事に出来なくて何ができるか!と、一切を捨ててニュージーランドに移住することにした。
長男と次男にシュタイナー教育を受けさせたくて、高校からニュージーランドに留学していたためだ。
仕送りしていた私たちが、ニュージーランドに来てしまったので、子供たちは「大丈夫か?」と驚いていたが、なぜか永住権がもらえ、クライストチャーチの高級住宅地にプール付の家を買う事が出来た。
英語は子供たちしか話せなかったのに、なぜ永住権がもらえたのかは未だに謎だ。
ニュージーランドは、不動産の価格が変動しないので、永住権があり物件の10%の現金を支払うことが出来れば残りは銀行が貸してくれる。
その後、子供たちが日本に帰りたいと言ったので帰国を決意。
自分の山を造成して、「WaRa倶楽無」をつくった。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「食べ物を変えると運命が変わる!」
桜沢如一氏の言葉
体が弱かった私は、この言葉に強い希望を持った。
また、食べ物で世界を変える事が出来ることを知った。
日本は、不名誉な世界1位が3つある。
1、食料をつくるために出るCO2排出率
2、フードマイレージ(食糧の重さ×距離で算出)
3、廃棄率(2300万トン/1日の食料を捨てている:国民一人当たり700calに値する)
例えば、ステーキ1枚を食するためには、重さにして11倍の穀物を牛の餌として必要とする。
もし、その餌や捨てている食料を世界中に配る事が出来れば、飢えで亡くなる人は居なくなる。
今、全世界で35億人の人が飢えていて、そのうちの7億人が飢餓状態でその半数が5歳未満の子どもだ。
肉を食べるなとは言わないが、あなたはそれでも肉を食べますか?
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
18歳の時、桜沢如一氏の思想に出会ったこと
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
問題が起きる度に、おてんとうさまに「お前は本当に本気か?」と、本気度を確かめられていたように思う。
自分を信じること!
「乗り越えられないことは起こらない」
そして「100%自分のせい」と思う事!
どんな理不尽な事が起きても全て自分のせいだ。
体が弱い、学歴もない、実家が金持ちでもない、私がここまで来られたのは、感謝し、100%自分のせいと思い、自分を信じる事が出来たから。
問題障害を宿題と例えるなら、宿題が大きければ大きい程、「神様が期待してくれているんだな。」と思う。
◆夢は?
野菜を100%信じて、塩だけで旨い料理をつくる。
野菜を太陽、水、土、無条件の愛、で育てる。
肥料などは必要ない。
確かに、肥料を与えれば、隣の家より、大きな実がなる、数が多く実る、早く出来る等の利益を得る事が出来る。
肥料は、元々野菜を美味しく育てるために生まれたものではなく、利益を得るため効率を求めた結果だ。
肥料を使うから虫が来る。
虫が来るから農薬を使う、という悪循環が生じる。
これでは、自然のバランスを崩してしまう。
肥料を使わなければ、農薬を使う必要がない。
実際、米は8年前から、肥料・農薬なしで成功している。
これからも、机上の空論ではなく、具体的に「こうすればいいよ。」ということを示していく。
WaRa倶楽無