FUDOホールディングス
代表取締役 兼 最高責任者
藤田一郎氏
2014.5.16 15:00
◆業種
不動産金融業
◆子供のころになりたかったものは?
高校の先生
学科は何でも良かったが、バレーボール部の顧問になりたかったからだ。
中学からバレーボールに熱中し、顧問の先生は尋常ではなく厳しかったが、全国でトップクラスの成績を納めた。
高校は、サッカーの本田圭祐等、有名人を多く輩出している星稜高校に進学し、中学で残した成績のお陰で、高校でもチヤホヤされ、大学、社会人とバレーボール続けた。
しかし大学生になった頃、国会議員になりたいと思うようになった。
親族等の関係で、普通に大臣等が近くにいる存在だった。
それは、亡き祖父や伯父、父の存在が大きい。
父の兄である伯父は藤田和夫と言い、全国宅地建物取引業協会連合会の会長を長く務め、名誉会長でもあった。
この伯父は、政界には知り合いが多い。
また、この叔父は人を見る目があり、叔父が肩入れする政治家は、周囲の人は、なんであの人に?というが、本当にその人たちは日本を代表するような政治家になってしまう。
伯父には、人を見る目があったようだ。
だからと言う訳ではないが、国会議員という職が身近に感じられたのだと思う。
大学生の頃は、国会議員の秘書バイトもした。
ところが、平成7年、私が大学3年生の時、父が破たん。
バブルが弾け、そのあおりをまともに受けたのだ。
私だけが学生だったため私名義の借入はなかったが、連日、素姓のわからない人が家に押しかけて来た。
更には、「保証人になれ」と、やくざに監禁され拳銃を突きつけられたこともある。
しかし、大学の専攻は政経学部 法律政治学科、法律の勉強をしていたので冷静に対応。
脅しに屈せず、保証人のサインもしなかった。
この経験から、就職は、「振り回されるより、振り回したい!」と思い銀行を希望した。
ところが殆どの銀行は、親族の会社に融資をしていたので、回収不能となった債権の恨みからか、役員面接くらいまで行くと藤田家だとバレ、嫌みの一言もいわれながら悉く不採用となった。
地方の銀行の面接官だったと思うが、「うちは、エビで鯛は釣っても、鯛でエビを釣ってどうする。」と言われたことを覚えている。
そんな中、地元、能登の信用金庫が採用してくれた。
今思えば、これが功を奏した。
メガバンクに入ると、融資課に配属になると融資だけ、営業なら営業だけ、等と銀行業務全般に携わることは出来ないが、地方の信用金庫なら全部1人でやることが出来る。
起業も視野に入れての就職だったので、この経験が今に活きている。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
お酒を飲む。
最近、メタボぎみなので焼酎をロックで飲んでいる。
一日の締めくくりに、家でも飲むが、外で飲むときは2次会には行かない。
ずっと部活をしていた事と、元々朝方だったため、朝は4時起きで、午後10時には眠くてどこでも寝てしまうからだ。
東京から能登に帰る途中、金沢駅のバス停でバスを待ったまま寝てしまったこともある。
目が覚めたら朝で、高校生が周りにたくさんいた、なんてことも結構ある。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
故 藤田光夫(父)と故 藤田和夫(伯父)
もの心がついた時から、私は二人とも厳しく大嫌いだった。
父は、「俺の出来の悪いところを全部集めるとこいつになる」といつも言っていたし、常に飲み歩いているから殆ど家で顔を見た事がなかった。
仕事だからと言って飲みに歩くが、私には理解できなかった。
母は優しかったが、父からも伯父からも優しい言葉なんてかけてもらった事は一度もない。
伯父の主宰するパーティーの時は、末席に座っていた私をある大臣が見つけて「一郎君こっち」と舞台近くの席に案内してくれたところ、伯父が舞台の上でマイクを取り、私を指して「お前〜何やってんだー!末席に座っていろー!」と叫んだ。
一同が静まり返り、私を呼んだ大臣も気まずそうにしていたがお構いなし。
これはほんの一例で、常に厳しい伯父だった。
しかし、その伯父を超えてやる!との強い意志でここまでやって来られたし、不動産業について数々の教えがあってこそ今の私がある。
これは伯父のお陰だ。
また父には、亡くなってからのエピソードがある。
金沢には茶屋街がある。
※茶屋街とは、花街のこと。(花街とは、芸妓遊びのできる店を中心として形成される地域−ウィキペディアより抜粋)
父は、茶屋街の常連さんだったので、父が生きている間は一度も行ったことがなかったが、父が亡くなって暫くした頃、私も茶屋街デビューした。
茶屋街のある店に入り名乗ると、茶屋街中の店から芸鼓さんやら、置屋の女将さんたちがやって来た。
集まった人達から、父は生前、お座敷をあげる度に「俺が死んだら息子が来るから、その時は宜しく頼む」と言ってチップを多めに配ったということを聞いた。
だからお代は頂けないというのだ。
そんな話は一度も聞いたことがなかった。
子供の頃から、意地の悪い言葉ばかりかけられ、大嫌いだった父。
父は何を考えていたのだろうと思うことはあるが、今でも大嫌だ。
ただ、父や伯父から、私への複雑な思いは感じる。
※取材中「本当に今でも大嫌いなんですか?」と聞き返すと、「いや・・・」と顔を赤らめ首を振られた。
やや上を向いた横顔から、涙がにじんでいるようにみえた。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「王道経営」
ロイヤルロード!威張って歩く道という意味ではない。
一直線にまっすぐ、楽して進む!という意味だ。
伯父は、たくさん稼いで、納税や寄付でばら撒くタイプだったが、私はマックス・ウェーバー(ドイツの社会学者・経済学者)が好きで、正直、勤勉、節約をモットーとしている。
そして楽に稼ぎたいと考えている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
平成5年、家が破たんした時
これがなかったら、今の自分はない。
信用金庫にも就職していなかっただろう。
就職して8年後、30歳の時、不動産業で起業した。
しかし、最初の頃は全く儲からず、会社の業績は下降線をたどっていた。
そんな時、金沢工業大学から宅地建物取引主任者の講師をしないかという話が来た。
宅建協会や資格の学校からも講師の依頼を受けた。
その頃から、会社の業績がアップし始めた。
講師という社会的信用を得た事と、不動産に関する色々な情報が早く入ってくるようになったためだ。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
問題障害はたくさんある。
1、社員同士が駆け落ちしたこと
2、6年前、経理部長が急性白血病で面会謝絶になり、会社が回らなくなったこと
3、3年前、役員に800万円持ち逃げされたこと
この時は社員全員でボーナスを20%カットして穴埋めしてくれた。
4、昨年の大みそか、東京支店をオープンしたばかりの時、自宅で右足首を骨折、2ヶ月入院したこと
2ヶ月いなくても、会社はきちんと回っていた。
優秀な社員の皆様のお陰で、乗り越えることが出来た。
後は、運と感と人脈に助けられている。
◆夢は?
このまま会社が大きくなってくれれば良い。
父と伯父が目指したのは、不動産全般が一緒になったFIRE企業。
FIRE企業とは、
FINANCE(金融)、INSURANCE(保険)、REAL ESTATE(不動産)が一つになった企業の事。
私はそれに、EDUCATION(教育)を加えて天下を取る!
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藤田一郎の不動産帝王学
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タワシおじさん (月曜日, 09 6月 2014 19:25)
不動と王道!素晴らしいです。