天下国家足下に泉をうむ生涯福祉王


 

前 宮城県知事

公益社団法人 日本フィランソロピー協会 会長

神奈川大学 特別招聘教授

浅野史郎氏

 

2014.10.30 1030


浅野史郎
浅野史郎

◆業種 

 

大学教授  

 

 

◆子供のころになりたかったものは? 

 

小学校一年生の作文で、東北大学の工学博士になって「動く家」をつくると書いた。 

 

父は、無医村だった宮城県北方村の出身で、医師となり、村長に呼ばれて北方村で診療所を開院した。 

 

しかし母は、田舎暮らしを好まず、私が5歳の時、「子供の教育のため」と父を説得。 

 

父は、医師免許を持つ「医系技官」として転職、宮城県庁に赴任し仙台市内での暮らしが始まった。 

 

末っ子の一人息子で、愛情たっぷりに可愛がられて育ち、叱られた事も、「勉強しなさい」と言われた事も一度もない。 

 

言われなくても勉強する子供だったという事もある。 

 

幼稚園の頃には大人の新聞を読んでいたのを覚えているが、特に誰かからひらがなや漢字を教わった覚えはない。 

 

それは二人の姉の影響が大きい。 

 

姉同士の会話から、授業や学校行事を疑似体験できたし、姉たちが「これは、やはり暗記するのが一番いいね。」等と話しているのを聞いて、勉強の仕方を自然と学ぶ事が出来た。 

 

小さい頃は、色々とからかわれたが、姉とは仲が良く、しゃべるのが得意なのも姉との会話のお陰かもしれない。 

 

また、小学校低学年までは二人の姉によくからかわれた。 

 

泣いて向かっていったこともある。 

 

しかし、このお陰で鍛えられ、社会性も身についたのではないかと思う。 

 

母はとても優しく、「史郎が生れてとても嬉しい。」とよく言っていた。 

 

私を医者にしたかったようだが、私はなりたくなかった。 

 

だから高校2年で文系を選択し、両親相手に「サラリーマンになる。」ときっぱり宣言した。 

 

サラリーマンになりたかった訳ではないが、医者にはなりたくなかった。 

 

両親に対して、医者を選択しない理由として大義名分が必要だったので、「医者は数百人の命を救うけど、数万人の命を救いたい!」と言った。 

 

言いながら、数万人の命を救うなら政治家かなんかだろうと思ったが、その時は政治家になろうとは思っていなかった。 

 

その頃にイメージしたサラリーマン家庭は、小坂明子氏の「あなた」の歌詞そのものだった。 

 

「もしも私が家を建てたなら小さな家を建てたでしょう~♪」  幸せを絵にかいたような光景が思い浮かんだ。

 

 しかし、本当に就職を考えた頃には、もっと大きな事がしたいと考えるようになった。 

 

東大の法学部に進学し、4年生になって就職を考えた時、国家公務員がいいと明確に思った。 

 

国民全般のために、正々堂々と働きたいと思ったからだ。 

 

民間企業となれば、どうしても営利が優先され、「これでいいのか?」と葛藤する事もあるだろうと予測したからだ。 

 

正しいと思える事を、迷いなくしたい。 

 

国家公務員の仕事なら、迷わなくて済むと思った。 

 

しかし友人に、国家公務員試験を受けるといったらせせら笑われた。 

 

大学3年生の時に東大紛争が起きて、東大総長だった加藤一郎先生から民法一の授業を一回受けただけで、その後1年間全く授業が行われていない。 

 

その上、国家公務員試験に向けての準備をしていた訳でもなく、成績もあまり良い方ではなかったからだ。 

 

一次試験は、4年生の夏休みに行われ、私自身もダメだと思っていたのに合格した。 

 

一般的には、一次試験の合格発表前に各省庁を訪問し二次試験に臨むのだが、私は何しろ合格できないと思っていたので合格してから動いた。 

 

厚生省に行くと、「なんで今頃、もう採用枠は超えてしまった。」と言われた。 

 

しかも、通常9人程しか取らないところ、私で16人目だという。 

 

それでも、二次試験の面接を受けさせてもらえる事になった。 

 

立ち話のような面接試験では、何を話したのか覚えていないが、内定がもらえた。 

 

とても嬉しくて、就職、卒業に向けて、自分を変えたい、変わりたいと思った。 

 

東大紛争があったお陰で、その年の卒業試験は3月30日、折角内定した厚生省も卒業できなければ就職も出来ない。 

 

卒業試験に合格し、晴れて厚生省に入省できた時はとても嬉しかった。 

 

こんな私をこんな状態で雇ってくれた厚生省には、恩に着ている。  

 

 

◆毎日欠かさずしていることはありますか? 

 

散歩 

 

毎朝17分歩いた公園で6:30からラジオ体操に参加、終了後17分歩いて家に戻る。 

 

妻が体調管理をしてくれているので、天候や体調によって制されることがあるが、自宅にいる時はこれを日課としている。 

 

特殊な白血病である成人T細胞白血病(ATL)を引き起こすウイルス(HTLV-1)に生まれた時に母親から感染していたのだが、60歳になるまで気付かなかった。 

 

気づいてから暫くすると病状が急変し、2009年10月骨髄移植を受けた。 

 

これにより、ドナーさんの血液型がO型だったので、私の血液型もB型からO型に変わった。 

 

よく聞かれるが、性格の変化等はない。 

 

2010年2月に退院し、2011年頃から「千里の道も散歩から」と始めた事だ。 

 

宮城県知事の時代は、ジョギング知事と呼ばれていた。 

 

最初のきっかけは、ダイエット目的だったが、ジョギングは頭が良く働き、前向きになり、ストレス予防になった。 

 

当時は、1日6キロ、休みの日は20キロ走っていて、フルマラソンには5回の出場経験がある。  

 

 

◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は? 

 

田島良昭氏 

 

長崎県で、「コロニー雲仙」を運営し、知的障害者の自立を進める活動を積極的に行っていた。

 

早くから、生活寮といって名前こそ違うが、グループホームみたいなことをしていた人物。 

 

グループホームとは知的障害を持った人が4人くらいで一軒家に住んで、一人世話人が付く。 

 

北海道庁から厚生省に戻って、障害福祉課長になった私は、神様がいると思った。 

 

北海道庁で福祉に出会い、一生の仕事にしたいと思って厚生省に戻った私に下った人事は、障害福祉課長。 

 

今までは北海道だけだったが、全国を相手に出来るのだ  私は、予てからグループホームをやろうと思っていた。 

 

せいぜい2年だろうから、直ぐにやろうと思って、早速、北海道の福祉仲間に電話をして、全国ですることになったから、学べる人物を教えてくれというと「田島良昭氏が良い」と教えてくれた。 

 

その電話中、私を訪ねて来た人がいて、名前を聞くと「田島良昭」という。 

 

「えっ、あっ」と、本当に驚いた。 

 

彼は長崎からやって来て、補助金が下りたのは有難いが、遅れた事に文句を言いに来たのだという。 

 

私も、障害福祉についての疑問があった。 

 

北海道にいる時、障害者の人には何が足りなくて、障害者本人は何がしたいのかを知りたいと思っていた。

 

寄せられる要望は、「施設をつくって下さい。」が殆ど。 

 

その要望にそって施設をつくるのだが、「障害者の人で、施設に入りたいと思っている人は一人もいない。」とわかった。 

 

施設に入ったら、死ぬまでいることになる。 

 

「普通の暮らしがしたい。」という声なき声が聞こえた。 

 

しかし、家族の人の生活を考えると、現状は難しい。 

 

地域の中で、ちゃんと暮らしていける支援をしなければいけない。 

 

そういう事も含めて、田島氏に質問をぶつけた。 

 

後に、田島良昭氏の書いた文章を見ると、「厚生省に文句を言いに行った帰りの飛行機では、新任の浅野課長からの質問に一生懸命答えている自分がいた。」と書いてあった。

 

結果、当時はグループホームという言葉も無かったが、全国に普及する事が出来た。  

 

 




◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は? 

 

「足下(そっか)に泉あり」 

 

厚生省の仕事は、だいたい2年周期で変わる。 

 

次は、どこに配属になるのかわからない。 

 

しかし、何処に配属になろうとも、配属された部署で一生懸命がんばることで、自分の足元から必ず泉が湧いてくることを経験した。  

 

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか? 

 

1、福祉との出会い 

 

37歳から39歳、北海道庁に赴任し、障害福祉の仕事に初めて就いた。 

 

この障害福祉の仕事が、琴線に触れ、「男子一生の仕事にしよう。」と決意した程だ。 

 

福祉の仕事をしていると「偉いですね。」等と言われる事が多いが、そういうものではない。 

 

北海道庁に赴任した時、多くの素晴らしい人に出会った。 

 

その後、グループホームの全国普及に尽力できたのは、私にとっても華の時代と言える。  

 

2、宮城県知事になった時  1年9ヶ月で障害福祉課長が終了した。 

 

70人以上の人から惜しまれ、文章がつくられた。 

 

その他多くの人々からの要望で、宮城県知事になったようなものだ。 

 

 

11月1日に厚生大臣に辞表を出して、11月4日には知事選挙の告示である。

 

一歩間違えば失業者だ。 

 

この時のエピソードは、笑いあり、涙ありで一冊の本になった程、一言では語りつくせない。  

 

3、大病  もっとも死亡する確率が最も高い、成人T細胞白血病(ATL)を発病した。 

 

比較的行き当たりばったりの人生を歩んできた私。 

 

運命は向こうから来て、掴み取るものではないかと思う。 

 

そして運命に寄り添う。 

 

これが精神衛生上良いのではないかと思う  

 

 

◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか? 

 

「足下(そっか)に泉あり」で乗り越えて来た。 

 

病気になった時も、命が危ないと言われても、何とか生き残ってやりたい事がある。 

 

そこに執着しすぎると、それは余計ダメだと思った。 

 

そこで運命に寄り添う事にした。  

 

 

◆夢は? 

 

「地方を変えれば日本が変わる」

 

 

浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

http://www.asanoshiro.org/




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