長良プロダクション
歌手
山川豊氏
2013.8.7 17:00
◆業種
歌手
◆子供のころになりたかったものは?
ボクサー、競輪選手
自分からなりたいと思った訳ではない。
漁師の家庭に次男として生まれたが跡取りでもなく、男なので海女にもなれない。
当時は女の子が生まれると赤飯を炊いた時代、長男以外の男子は価値が低かった。
だから父は、幼い頃から「ボクサーになれ、競輪選手になれ」と事あるごとに言っていた。
兄と姉は父親譲りの声で歌が上手く、のど自慢大会等でよく優勝していた。
その姿をみて憧れたが、私はというと、小学校1年生くらいまではガラガラ声で、とても歌手になれるような声ではなかった。
ところが、だんだんと低音が響くようになり、中学生になると、演歌歌手「五木ひろし」に憧れ歌手になりたいと思うようになった。
自分は、どちらかというと母譲りの声のようだ。
両親もよくアカペラで歌っていた。
そういうと明るい家庭のように聞こえるが、漁師という職業のせいもあり生活は不安定。
更に、父がバクチ好きで、家計はいつも火の車だった。
ひどい時は、家まで借金の形に取られて、隣の家の納屋に引っ越したこともある。
すると父はまた「取り返してくる!」と言ってバクチを打ちにいく。
更に、自分は不漁ないのに隣の船が大量だったりすると、家に帰ってちゃぶ台返し。
母の苦労は大変なものだった。
そんな状態だったから、兄は中学を卒業すると、進学せず「かつお船」に乗ってくれた。
「まぐろ船」に乗ってくれたこともある。
「まぐろ船」は、遠洋なので1年は帰ってこない。
そうやって兄は、自分たち兄弟3人を進学させてくれた。
自分は中学を卒業すると、高等職業訓練校に進学し寮に入った。
ところがその寮はいじめがひどく、何の理由もなく毎日先輩から殴られる。
顔の形が変わるまで殴られるので、さすがに学校に見つかり、先輩20人程が退学になった。
自分が先輩になって、殴るなんてことはしなかったが、後輩を観客にみたて、湯船につけたまま何曲も熱唱した。
このお風呂コンサートでは、一人で30分くらい熱唱した。
お風呂だとエコーが聞いてとても気持ちよく歌えたからだ。
今思えば、後輩たちには湯あたりするものもいて、迷惑をかけた。
この練習のお陰で今があると思って感謝している。
卒業すると、鈴鹿にある自動車会社に就職したが、やはり歌手になりたくて1年後、姉のいる名古屋に出て一人暮らしを始めた。
姉はキャバレーで歌手として働いていたが、自分は歌わせてもらえず、厨房でキャベツ切りばかりする生活が1年続いた。
それだけでは食べていけないので、キャバレーと並行して料理屋や線路工事の仕事等色々した。
だから今でもキャベツの千切りはもちろん、料理の腕前も中々なものだ。
19歳になった頃、優勝したらレコードデビューという、新聞社主催のカラオケ大会があった。
そこでみごと優勝!
その審査員であった東芝レコードの方に、「東京に出ておいで」と声を掛けられた。
少し迷ったが、「よし!東京で勝負しよう!」という気持になり、レコードデビューをせずに東京に出ることを決意した。
当時の彼女も「いいチャンスだから、いっといで」と気持よく送り出してくれた。
19歳で一人上京し、東芝レコードのオーディションを受けた。
ところが、不合格。
ガッカリして途方に暮れていると、あるディレクターが「この子は凄い!!」と推薦してくれ採用されることになった。
審査対象外である、B面の曲を聞いて感動してくれたそうだ。
しかしデビューまでの道は長く、東芝の社員としてお茶くみや掃除ばかりの毎日だった。
1年以上した頃、プロダクションも決まり、近くのイタリアンのお店で歌わせてもらえるようになった。
それでも、夜中の2時までお店の皿洗いをして、レコード会社とプロダクション2つの会社を毎日掃除した。
このままでいいのか?という不安もあったが、「一人のタレントの影には、どれだけ多くのスタッフがいて働いてサポートしてくれているのかをわからすために下済みをさせてくれているんだ!」と思ってがんばった。
また、そう信じることで、一生懸命になれた。
そして、昭和56年2月5日、いよいよ待望のデビューを迎えた。
ところが、デビューしてからの方が更に忙しかった。
それまで、村田英雄先生など大御所の付き人等をしていたので、スターの生活を夢見ていたが、実際にデビューした後はイメージが全く変わった。
とにかく毎日過密なスケジュールで、「いったい、どこで寝て何処で食事をとるんだ?!」というような状態だった。
デビュー曲は、「函館本線」という北海道が舞台の曲だったので、正式デビュー少し前に北海道から営業が始まった。
1月の北海道は極寒で、北見でマイナス21℃、旭川ではマイナス28℃といった状態。
外は極寒であるが、会場内は物凄く暖かい。
日々寝不足の身体は、暖かい会場内で睡魔との闘いになった。
会場は、スーパー、ガソリンスタンド、美容院、キャバレー等、夜中の12時過ぎまで営業が続く。
お腹がすき過ぎてたおれそうな時、キャバレーのマスターがおにぎりを持たせてくれたことがあり、有難くて涙ながらに受け取ったことを思い出す。
またキャバレーの営業では、ホステスさんがお客さんに、「レコードを買ってあげなさいよ。」と言ってよく助けてくれた。
数え切れない程、人の温かみに触れた時代だ。
またスタッフとの仲も最高で、「今日は10件営業しよう!」というと「じゃあ15件いこう!」と盛り上がる。
ケンカしたり、怒られたり、悩んだりした仲間だ。
そのお陰でヒットし、その年の12月には新人賞を頂いた。
しかし、紅白出場はならず、6年後「ときめきワルツ」が紅白初出場となった。
ところが、ここからちょっと大変になる。
売れなくなり、仕事もなくなった。
悩んで、眠れなくなり、頭にはハゲができた。
27歳の頃だ。
「このままではいけない」何かしないと!
眠れないのは体が疲れていないからだと思い、まずは体を疲れさせようと思った。
鈴鹿の自動車会社にいた頃にしていたボクシングを思い出し、近くのボクシングジムに通いだすと眠れるようになった。
しばらくすると、同期でジムに入った仲間や後輩までもがプロライセンスを取得していく姿をみて、自分も挑戦したくなった。
ジムの渡辺会長に相談すると「やってみればいいじゃないか」と言ってくれ、30歳でプロボクシングのライセンスを取得。
自信がついたこともあるが、ワタナベジムに通う選手をみていて考えさせられることが多かった。
皆、チャンピオンを夢見て必死に生きている。
食べざかりの若者が、毎日パンの耳を食べ、暖房もない部屋で毛布一枚にくるまって生活している。
どん底な気持でいたが「俺なんか、まだ良い方だ。」そう思えた。
もうやるしかない!
それまでは、デビューして1年足らずでヒットし、新人賞も頂いたプライドがあり、中々ナリフリ構わずハングリーになれなかった自分がいた。
しかし、チャンピオンに目標を絞った彼らの姿に刺激され、気持が高ぶり「よし!何でもやってやろう!」という気持になれた。
皆に感謝している。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
腕立て、スクワットを各20回ずつ。
毎日必ずしている。
もう20年間続いていて、習慣化しているのでサボルことはない。
筋力が落ちないように、これからも続けて行く。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、兄:鳥羽一郎
兄だって歌手になりたかったのに、その夢を一度諦め船に乗ってくれたお陰で、今の自分がある。
物凄く感謝している。
2、長良じゅん会長
プロダクションの会長
長良会長とは、親より長い付き合いだ。
もうエピソードは有りすぎて語りつくせない。
人として礼儀作法に厳しかった人。
歌のことを、どうこういうことは無かったが、「挨拶をしなかった」という話が会長の耳に入ると物凄く怒った。
お陰で、道端で農作業している人にも、新人にもきちっと挨拶をする習慣がついた。
自分は山川豊である前に、木村春次(本名)であれと教えられた。
一緒にゴルフに行くと、靴番の担当者にもチップを欠かさない。
それも、自分で渡さずに、私に渡させるのだ。
山川豊として華を持たせてくれている訳ではなく、そうやって人を大事にすることを実践で教えてくれた。
その精神は、今も活きている。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
心・技・体
スポーツにしても芸能にしても欠かせないこと。
メンタル、技術、体・健康どれも外せない。
一生懸命技術を磨いても、緊張して本領を発揮できなかったり、体を壊してしまっては元も子もない。
まずは心を磨き、技能や体を鍛える。
これが大事なこと!
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
デビュー10周年、「しぐれ川」を頂いた時。
最後のチャンスだと思って、ナリフリ構わず頑張った。
プロボクサーのライセンスを取得した頃は、マネージャーも付けてもらえず一人で営業に行くという先の見えない状態だった。
そんな状態にまで落ち込んだからこそ、一生懸命出来たのだと思う。
これも、プロダクションの長良会長始め、レコード会社や関係者の親心だと思っている。
ここで頑張れたから、「夜桜」と「きずな」で100万枚を突破、「アメリカ橋」のロングヒットへと繋がった。
「アメリカ橋」は、山口洋子先生作詞、平尾昌晃先生作曲という大作だ。
以前から両先生にはお願いしていたが、長良会長が絶妙なタイミングを見はからってくれていた。
会長は、長年の経験から匂いでタイミングを図る。
お陰で、新しい山川豊が表現出来た。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
沢山ある。
問題にぶつかると、倒れる人、這い上がる人、様々だ。
私の場合は、多くの人に助けられた。
また、ものを見たり、聞いたり、泣いたり感動したりすることは非常に大事なことだと思う。
自分の中に綴じこもらず、世界を見ることも大事。
自分も社交ダンスに挑戦し、夢中になったこともあった。
そこから学ぶものも大きく、姿勢も良くなった。
ジムの選手に対しては、試合前にCDを聞くよう勧めている。
色んな事を感じられるようじゃなきゃダメ。
メンタルも張りつめてばかりでは余裕がない、時には開き直ることも大事なこと。
◆夢は?
今年、“優しい女に会いたい夜は/アーバン ボクサー”を発表させて頂いたが、ここ10年で、もう一発ヒットを飛ばしたい!
生活の中に入っていけるような曲がいい。
それには積み重ねが大事だと思っている。
今でも、ボクシングジムでは、鏡を磨いたり、モップで床を拭いたりしている。
いつまでも初心を忘れずにいたい。
長良グループ公式サイト
http://www.nagarapro.co.jp/top/artist/artist.php?id=3
EMIレコード アーティストページ「山川豊」
http://www.emimusic.jp/artist/yamakawa/
“優しい女に会いたい夜は/アーバン ボクサー”
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