第36代OPBF東洋太平洋バンタム級チャンピオン
TEAM 10 COUNT BOXING GYM
会長
鳥海 純氏
2013.7.22 17:30
◆業種
ボクシングジム経営、選手育成
◆子供のころになりたかったものは?
小学生の頃は、プロ野球選手やプロサッカー選手。
スポーツは、やれば何でも出来た。
大学生の時、花火大会で打ち上げ花火を見た時、感動して花火師になりたいと考えたこともある。
中学生の頃は、不良と呼ばれる友達の後について遊んでいるような子供だった。
中学3年生の時、父の転勤に伴い家族で埼玉県に引っ越した。
高校は、ボクシング部の名門「花咲徳栄高等学校」に進学。
しかし、ボクシングには全く興味がなかった。
ところが、入学して直ぐに仲良くなった友達がボクシング部の特待生で、「部活に見学においでよ」と誘われ見に行った。
そこで、シャドーボクシングを見た時「ビビビッ」ときた。
シャドーのカッコよさ、美しさに魅了され、即入部を決めた。
それを機に、ボクシングは野蛮な競技と思っていたが、イメージが全く変わってしまった。
自宅に帰り、母に「ボクシング部に入部してきた」といったら、「えーやめて、やめて」と嘆かれた。
横浜から引っ越したお陰で、不良仲間との付き合いが無くなりホッとした矢先のこと。
母はがっかりしたのだろう。
しかし、一生懸命がんばっている姿を見るうち、父も母も応援してくれるようになった。
もちろん最初のうちは自分も思春期で、母親が試合を見に来ることは嫌だった。
それでも、ボクシング部の監督が「親に見てもらえ」という方針だったので、嫌々試合に来てもらっているうち、応援されることが嬉しくなった。
改心して頑張っている子供をみて、親も嬉しかったのだろう。
親との距離が縮んで、親子関係はとても良好になった。
高校3年生の時の国体で、準決勝まで勝ち残っていることを親に電話で伝えると、翌日の試合に石川県まで父、母、兄が飛んできてくれた。
両親には感謝している。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
仕事
ジムに行かない日は、試合かボクシング関係者との会合など、何かしら仕事をしている。
また、4歳と2歳の子供がいるので、保育園に送りにいってからジムに行く等、子供との時間も大切にしている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
木庭先生
高校のボクシング部の監督
とても自分に期待してくれていた。
もともと柔道をしていた先生なので、武道の精神を叩き込んでくれたのだと思う。
礼節を重んじ、それを忠実に守ってきた選手は結果が出ている。
この先生に出会えなかったら今の自分はない。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「今しかがんばれない。」
28歳の時、応援してくれている人から言われた言葉
今とは違って当時は、30歳にもなれば超ベテランボクサーと言われ引退時を考える年齢だった。
自分としても、ランキングに出たり入ったりで、「あなたの仕事はなんですか?」と聞かれても胸を張って「プロボクサー」と答えることもできなかった。
このままじゃいけないと思っていたので、とても心に響いた。
「長いことできることじゃないんだから今やれよ」
そう言われて、生活態度を切り替えた。
といっても、皆がしているであろう当たり前のことをキッチリしただけだ。
それまでは、オン・オフの切り替えを意識していたが常に「ON」の状態を維持した。
それからは、飲みに行っても12時までには切り上げ、「まあいっか」とサボることが多かった翌日の練習も決してサボることをしなくなった。
更に、毎日練習内容をノートに付けるようにした。
すると、みるみるうちに結果が出てきた。
それまでは、判定勝ちが多かったものがKO勝ちするようになった。
それは数字でみても明らかだ。
2002年以前は、判定勝ち11、KO勝ち2だったものが、2002年以降は、 判定勝ち2、KO勝ち8と逆転した。
【本気でやったら絶対に結果が出る!】
そのことを、身をもって知った。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
2002年 当時、日本ランキング1位(後の東洋王者)だった仲里繁選手との試合。
それまでノーランクだった自分が、ランキング入りできる最後のチャンスと思って臨んだ試合だ。
だが、試合中4回も倒され6ラウンドTKO負けになった。
自分に付いてきてくれた仲間はリングの外で号泣している。
しかし、自分にはプライドがある。
リングの上では、グッと我慢してお客さんに挨拶し、控室で泣いた。
気を取り直し、再度、挨拶にいった会場で、意外な言葉を投げかけられた。
それまでは負けても、「よくがんばった。」と慰めにも似た言葉だったが、今回は「あんな試合できるの!?ビックリしたよ。」と本気で感動してくれている。
倒されても、倒されても向かっていく姿、一生懸命やっている姿をお客さんは求めている。
カッコよさを追求し、判定でも勝てばいいと何処かで思ってきたが、その姿こそがカッコよく美しいことを知った。
この試合をきっかけにに生活態度を一新することになる。
それからは、何かが吹っ切れて、試合スタイルが変わった。
カッコよく美しくというポリシーは変わらないが、ハイリスク、ハイリターンの試合をするようになった。
それ迄は、打たれないようにすることを優先し、打たれたら、試合中でもなぜ打たれたのかを冷静に考え分析した。
たとえ試合中でも、冷静に分析できないような試合では良い結果がでない。
自分は、人一倍体が小さいし、リーチも短い、その分考えに考えて動いた。
それにプラスして勝負どころを見つけて、リスクが大きくても挑むような練習をした。
当然ケガも多くなる。
目の上や頬等、常にキズが絶えなくなった。
それでもカッコイイ自分に出会えたことは、今に活きている。
その後、2005年2月19日、OPBF東洋太平洋バンタム級王座を獲得した。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
木庭先生の期待に応えられなかったことを後悔している。
先生が期待してくれている。
それがわかっているのに、自分は「そんな、そんな、全国大会にでも参加出来れば十分です。」くらいの気持ちでいた。
どうしてあの当時、気付けなかったのだろう。
子供をもった今、子供の様子をみていると考えていることがわかる。
先生は、自分たちを子供のように考えていること、やりそうなことをわかっていたのだろう。
自分が大学生になってもプロボクサーになっても。
先生は、自分の先輩たちにとって兄貴のような存在であり、後輩たちにとっては、師匠のような存在だったのだ。
自分はその真中で、そのどちらでもあり、どちらでもなく、どこか物足りなくて、反抗心のようなものをもっていた気がする。
それでいて、先生に殴られたり丸刈りにされる生徒が続出する中、自分はそんなことにはならない良い子でいた。
もっともっと先生を身近に感じ、愛され認めてもらいたかったのかもしれない。
ボクシングジムを経営するようになってやっと、先生と身近に話ができた。
選手の育成やジムの運営でうまくいかないことを相談すると、「おまえもやっと俺の苦労がわかったか?」と言ってくれた。
先生とそんな会話ができたのも、ここまでがんばってきた結果だと思う。
◆夢は?
世界チャンピオンをつくりたい!
2010年全日本新人王を獲得した、山口隼人(現在、日本ライトフライ級9位)を筆頭に期待の選手がいる。
小、中、高校生のジュニアや女子にも有望な選手がいるので、プロボクサーのみならずオリンピック等も視野にいれながら、スパーリング大会を主催するなど、試合に参加できない選手の見せ場つくりにも力を入れている。
特に、女性や子供達、プロライセンスがとれない年齢の30代〜40代あるいはそれ以上の方は、発表の場がない。
そういう選手にも、日常の励みとなる場を提供したいと考えている。
※直近のスパーリング大会 7月28日(日)16:00から
当日の12:00からは、東日本U-15ボクシング大会の予選が開催されます。
未来の世界チャンピオンになるかもしれない選手の試合が見学できます。
どちらも見学OKです。
TEAM 10 COUNT BOXING GYM
http://team10count.com/
湘南平塚にあるチームテンカウントボクシングジム会長・鳥海純のブログ3
http://ameblo.jp/team-10-count/
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