◆業種
医業
◆子供のころになりたかったものは?
自分の意志ではあまりなかったが、母の強い望みで医学部に進学した。
父は九州の宮崎で開業医をしていたが、私が4歳の時離婚したので、母が公務員をしながら女手一つで育ててくれた。
その苦労をわかっていたので、奨学金等の公的に借りられるお金は全て借りてもらい、医師になってから10年かけて全て返済した。
また大学の春・夏休みにはアルバイトをし、給料袋の封を切らずに母に渡した。
そんな母だから、大学の卒業式は大層喜んで、出席したいと強く希望した。
その前からも、大学の行事には何かと来たがっていたが、思春期の私は恥ずかしく「来るな、来るな。」と断っていたからだ。
ところが、卒業式の謝恩会で母の具合が悪くなった。
病院で検査をすると胃ガンで、既に転移していることがわかった。
大学病院で手術した後は、自宅療養していたが良くなる気配はなかった。
母を何とかしたい!
この地球には、他の治療法が何処かにあるはずだ!と思い探した。
そんな頃、母が出かけた日は何だか元気になっていることに気付いた。
母に尋ねてみると、私には内緒で温熱療法に通っていたのだという。
早速、一緒に行ってみて驚いた。
大学病院とは全く違った方法で治療している。
これが、東洋医学に出会ったきっかけだ。
東洋医学は、西洋医学では説明がつかないことがたくさんあり勉強し始めた。
しかし、母からは、どうしても博士号を取ってほしいと言われていたので、そのまま大学院に進学し、母の治療を見守った。
母を何とか安心させたい!
治療以外に私の出来ることを探した。
親戚等に相談すると、理想のお嫁さんをもらうことが良いということになった。
そこで、勧められるままに2、3人とお見合いして今の妻と結婚した。
しかし、大学院生で収入はない。
院生と言っても医師なので、一週間に1、2日程度、どこかの病院にアルバイトに行くのが一般的だった。
しかし、私の担当教授はそれを許してくれなかった。
ならばどうするか?考えたところ夜間診療を思いついた。
長崎の外れにある集落でアパート一室を借り、診療所を開いた。
狭いながら、押入れを改装して待合室にした。
その地域には、元から医院が一軒あった。
同じ大学の先輩ということだが、敬遠されるかも知れないと思ながらご挨拶に伺った。
ところが、夜間診療をしてくれるということは、その先生の負担が軽減されることにもなると大歓迎された。
その3日後の夜中、ドアを激しく叩く音がして、3歳の女児が担ぎ込まれてきた。
診ると腸重積で、かなり危険な状態だった。
救急で大学病院に担ぎ込み、手術をして一命を取り留めた。
女児は、この日の昼間、この地域に元からある先生のところに掛っていたが腸重積はわからなかった。
実際、腸重積の初期は、わからないことが多く、その先生に落ち度があった訳ではないと思われる。
しかし、その噂は一瞬にして広まった。
翌日から、診療所は長蛇の列となり、その先生の医院は結局閉鎖してしまった。
そこに来る患者さんの中には長患いの方も多く、ご本人了解のもと、学んでいたハリ治療をサービスで行った。
ハリ治療は、健康保険外治療になるので自費になってしまうからだ。
その間も昼間は大学病院で患者さんを受け持っていたが、西洋医学には限界を感じていた。
母の病状も悪化し、卒業式から2年と少したった頃、入院を余儀なくされた。
しかし、治療といっても痛みを止めることしか出来ない。
痛み止めの薬が効いているときは朗らかになるが、話はわけのわからない内容になってしまう。
要するに麻薬漬けだ。
医師でありながら何もできないもどかしさに、情けないとさえ思った。
結局3カ月程入院した後、母を看取ることになった。
その後、母の希望通り博士号を取得した。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
朝晩、神々様にお祈りする。
我が家には神棚が6か所ある。
伊勢神宮には毎年お参りに行き、その時は必ずお神楽を上げる。
ある人から「チャリンコ参り」は良くないと聞いたからだ。
お賽銭箱に小銭を入れて参るのを「チャリンコ参り」というのだそうだ。
参拝するときは、きちんと舞を奉納することにしている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、小野先生
ハリの名人と言われた人。
母が亡くなった後も大学病院に勤務を続けたが、担当している患者さんの中には、ハリ治療をすれば2,3回で治ってしまう方が大勢いた。
鎮痛剤やブロック注射等で痛みを止めるだけの治療を見ていると、知らん顔出来なくなった。
ハリ治療をサービスでしているうち、患者さんの中に口コミで広がり、我も我もとやって来た。
そのうち大学側にも評判が広がってしまい、居づらい状況になった。
そんな時、知人の大学教授から、中国医学より更に古くからあるインドのアーユルベーダ視察団をつくるから参加しないかと誘われた。
紀元前9世紀には、アーユルベーダの学校があった記録があるのだという。
早速、1ヶ月間の視察に出かけた。
参加の注意事項として、インドは水が悪いので、抗生剤をもってくるようにと指示があった。
ミネラルウォーター等ない時代で、水を飲まなくても、食器を洗う水が悪いので下痢になるという訳だ。
ところが、現地に着いてみると13人の視察団員のうち抗生物質を持って来たのは私だけだった。
一番若造の私は、教授たちから「くれ」と言われたら断ることは出来ない。
あっという間に抗生剤は無くなり、下痢と暑さで一日が終わる夕飯時には皆ぐったりしていた。
ところが、ふと隣の席を見ると、鍼灸師の先生方4から5人がやたら元気にビールを飲んでいる。
なぜなのかと思いきって聞いてみた。
するとハリをしているから大丈夫なのだという。
どう考えても、この下痢は細菌性なのに、なぜハリが効くのかわからなかったが、名人と呼ばれる小野先生にハリをしてもらった。
小野先生は、ハリを刺すのではなくハリ先で、チョチョとつぼをつつくだけ、治療は30秒もかからなかった。
そのお陰で調子も良くなり、最後の訪問地ネパールに行くためカトマンズ空港に向かった。
カトマンズ空港の税関を通ったとき、遠くからジープがやって来るのが見えた。
当時のカトマンズ空港は掘立小屋のようだったから空港内からも良く見えた。
ジープから将校らしき人が下りて来て、いきなり敬礼をした。
「日本医師団の方ですね。」と英語で尋ねられた。
日本人の画家が、体調を壊しているので診てほしいということだった。
皆が一番若い私に向かって「お前が行け。」というが、私は内科医なので薬がなければ治るものも治せない。
胃薬くらいしか持っていなかったので、小野先生にお願いして一緒に来てもらった。
一通り診ても、これといった所見がない。
小野先生にハリをしてもらい胃薬を飲ませて帰ってきた。
3日後、視察を終え帰国する当日、ヒマラヤのご来光を浴びた後、朝食を取っていると、またあの将校がやって来た。
今日帰るのに、また引きとめられたら大変だなぁと思っていると、いきなり敬礼をした。
「さすがは日本のドクターですね。彼女は回復しました。感謝します!」とわざわざお礼を言いに来てくれた。
これはやっぱり、ハリのお陰と中医学の素晴らしさを思い知った。
アーユルベーダはというと、日本受けしないというのが私の感想だ。
例えば、頭痛の時、血を吸うヒルをこめかみに吸いつけ、ヒルが悪い血を吸って膨らんだら取るというような治療が行われるからだ。
2、間中喜雄先生
東洋医学の権威であり、小田原の間中病院院長。
アーユルベーダの視察を終え帰国した後、大学病院を辞め間中病院に勤務した。
間中先生は中医学に理解があった。
しかし、当時は中華大革命で中国が閉鎖されていたため、漢方薬は香港から入手するしかなかったが、偽物が多くて使えない。
ハリ中心でするしかなかった。
以前から、ハリで、手術の切開などの痛みを発作の予防が出来るのではないかというアイディアが浮かんだ。
間中先生に提案したところ、「副作用もないし、やってみなたらいい。」と許可をもらった。
入院患者の承諾を得て、喘息の発作に苦しむ人に、発作が出たときに打つハリを発作の出る前に打ってみた。
1か月くらいやってみたが、皆発作が出ないか出ても軽くなった。
その後、ハリ麻酔で外科手術ができると確信し、院長と共に日本初の針麻酔手術に成功した。
その上、術後の経過も良い。
10歳の男児の盲腸手術だったが、手術が終わったとたん手術室から病室まで歩いて行けた。
通常は、術後丸1、2日は寝たきりでトイレにも行けない状態になるのに、この子は3日後に抜糸までされていた。
通常の抜糸は1週間後だが、抜糸担当の先生は、傷口の状態を診て抜糸するかしないかを決める。
まさか術後3日とは思わずに抜糸したようだ。
それほど治りが早いということがわかった。
3、鳥越俊太郎
ジャーナリスト
彼がアメリカ特派員時代に難病を患った。
帰国し直ぐに東大病院に掛ったが、良い治療法はわからなかった。
この難病の研究治療は、アメリカの方が進んでいるのだから当然といえば当然だった。
目先を変えろと先輩に言われ、私のところにやって来た。
体を良くすれば良いのだから、難病などのように原因がわからなくても中医学は治療が出来る。
3か月で良くなった。
このご縁で、当時週刊誌の編集長を経てTVのザ・スクープのキャスターをしていた鳥越氏から、ルーマニアのエイズ患者を助けてほしいと依頼された。
ルーマニアにはエイズの赤ちゃんが大勢いる。
(公表では3,700人と言われているが、その数をはるかに超えていると思う。)
チャウセスク政権下では、孤児院で子供の栄養失調の治療に大人の血液を輸血され、エイズに感染する子どもが激増したからだ。
最初のうちは、私には出来ないと断っていたが、もう手続きは済んでいた。
ルーマニア側もドクター谷の治療を受け入れると言っているということでルーマニアに飛んだ。
1990年、ルーマニアの首都ブカレストで現実を見た。
毎日虫けらのように死んでいく子供たち。
免疫機能を良くすれば、回復できるかも知れない!
ところが、ルーマニア側は「パスポートを見てあなたが谷ということはわかったが、ドクターだという証明がないから治療は受けられない。」などと言い出した。
仕方なく日本に戻って、英文の医師証明書を厚生省の知人に頼み、急いで発行してもらいルーマニアに取って返した。
しかし今度は、「医師ということはわかったが中医師の証明がない。」と言い出した。
また日本に戻って、証明書を持ってルーマニアに向かった。
それでも、まだ何のかんのと言って治療を拒む。
子供たちには申し訳ない気持でいっぱいになりながら、半ば治療をあきらめホテルの部屋で横になっていると、1本の電話が入った。
看護師が注射針を間違えて刺してしまいエイズに感染してしまった。
個人の責任で治療を受けるので、助けてほしいということだった。
早速、生薬を調合して飲ませたところ回復した。
それがきっかけとなり、子供たちの治療もできるようになった。
40人担当して、データが取れたのが35人だったが、皆数値が回復し成人になることができた。
その間には、アメリカで開発されたAZTという薬と比較されたこともあるが、生薬治療の方がはるかに有効で、私の治療を続けることができた。
後でわかったことだが、イギリスとイスラエルの人が無許可で治療し、子供たちを死なせてしまったことがあったため警戒していたそうだ。
結局3回も自費でルーマニアを往復することになってしまった。
また、症状にあった生薬を22カ国自費で探し回っていたので、資金不足を見るに見かねた小説家の遠藤周作氏が、チャリティーパーティを開いて寄付してくれたこともある。
多くの方々の協力があってこそだと感謝している。
4、当時の鍼灸学会会長
34歳の時、間中病院を辞めて中医を本格的に取り入れた病院を独立開業することにした。
勤務医が開業するときは、下町で開業し、週に1か2日ハリや漢方の勉強をしてお金を貯めるというのが一般的だった。
当時は、薬をたくさん出せば、恐ろしく儲かった時代だ。
しかし、そんなことは納得できなかった。
最初から、中医を取り入れた病院にしたかったので、会長に資金の相談をすると、ポンと数千万円を出してくれた。
会長とは、アーユルベーダ視察のとき同室だったことがご縁。
会長は、とても怖いと有名で、視察団の皆は同室になることを恐れた。
同行した教授たちに何となく追いやられ、私が同室になった。
すると、なぜか意気投合し、結果とても可愛がってもらった。
会長の経営する鍼灸学校で講師をしたこともある。
そのお陰で、希望通り緑多き港区青山の外苑前にクリニックを開業することが出来た。
どの方も居なければ、今の私はない。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「聖医は既病を治すのではなく、未病を治す」
今から2350年前に書かれた中国の「黄帝内経」(こうていだいけい)という本に書かれた一節。
聖医(一番良い医者)は、病気が発症する前に察知して治す、という意味。
「氣」の世界がわからないと中々難しいことだが、経絡(血液や氣などの通り道)を通して五臓六腑の「氣」を脈で診る。
「氣」の渋滞を改善すれば、病気が治る。
また、この本の中に出てくる言葉に「衛気」(免疫のこと)とあるが、面白いことに衛気を白血球と置き換えても辻褄があう。
白血球は、遊走しながらバイキンと戦ってくれる。
免疫を整えれば、病気とも戦えるということになるのではなかろうか。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
卒業式、母がガンと知ったとき
この経験がなかったら東洋医学に出会わなかったかも知れない。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
挫折かと思われたことも、1つの経験として次に活かされてきた。
信念を曲げずに貫き、挫折を試練と捉えてきたからこそだと思う。
◆夢は?
難病と呼ばれる膠原病や重症筋無力症、リウマチ等の免疫疾患を治療し続けたい。
また、自閉症の子供の治療を広めたい!
自閉症は遺伝病と思われていて、数年前まで私もそう思っていた。
しかし、数年前に知人から、どうしても診てほしいと言われて8歳の男の子の脈を診た。
するとその瞬間、これは遺伝病ではない!脳の免疫疾患だ!とわかった。
障害が起きている脳の回路を開けば、8歳までの子供なら成長と共に伸びて正常な状態になると確信。
そこで、症状に合わせた有効な「氣」をもった食品をお茶として飲ませたところ1年でよくなった。
それでも3年は飲み続けて下さいと伝えた。
しかし、その一家は海外赴任のため日本を離れたこともあり、お茶を止めてしまった。
やはり自閉症の症状が再発し、お母さんが飛んで来て3年間飲み続けたところ完治した。
また自閉症の子供は、特殊な才能がある子が多い。
この治療法の場合、その特殊な才能はそのままで、自閉症が治る。
ビルゲイツのような、天才児が増えることも夢ではないかも知れない。
また、食品が主で、わずかに漢方(健保適用)を併用するので、自費でありながら注射等に比べたら治療費は安い。
そういった症例を何度か学会で発表したが、誰も取り上げてはくれない。
そんなことで、自閉症や難病が回復しては不都合な人も大勢いるからだろう。
この治療は今のところタニクリニックにしか出来ないので、後継者を育てる意味でも、現在6名の医師に対して定期的に講習会を開いている。
また最近、育毛に効く生薬の配合に挑戦し、髪の毛がふさふさと生えてきた。
その利益を財団に入れて、更なる研究活動費に充てるつもりだ。
地道な活動だが、ずっと続けていく!
そして出来れば世界に広めたいと考えている。
医療法人長白会 タニクリニック
長白会診療所
http://www.taniclinic.com/index.html
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