HEAD Japan株式会社
代表取締役
関口 千人氏
2013.8.21 15:00
◆業種
スポーツ輸入品メーカー
◆子供のころになりたかったものは?
パイロット
小学生の修学旅行で羽田空港に初めて訪れた時、感動を超え足がすくんだ。
そんな思いをしたのは人生初。
その後、テレビドラマ「虹のエアポート」、(主人公の俳優「桜木健一」が副パイロットになるまでを描いたストーリー)見て、パイロットになりたいと思った。
憧れて、パイロットになったカッコ良い姿を想像したものだ。
今でも飛行機は好きで、海外はもちろん国内でも良く使う。
空港の雰囲気は独特で、出張の際には気持が引き締まるし、レジャーでの旅は高揚感が増す。
その土地の玄関口である、空港の建物にも思い入れがあり、特にその土地柄を上手く表現している空港は共感がもてる。
それでも実際には、パイロットになる道のりを調べることはなく、将来の職業として真剣に考えたこともなかった。
長野県の白馬、八方尾根の山の麓で育ったので、小学生の頃は、「八方グレンタイ」と呼ばれていた。
学校帰りに、皆でスイカ畑からスイカを取って、川で冷やして食べたり、朝も、寄り道しているうちに遅刻してしまって先生が探しに来たりと、ガキ大将ぶりを発揮していた。
しかし、近所の人も叱るには叱るが、翌日になると皆ケロッと忘れて、又、伸び伸びと悪戯に励んだ。
青春時代はスキー一色。
母は、大会の度に新しい下着と靴下を用意してくれた。
怪我でもして、私に恥ずかしい思いをさせないようにという心配りだったのだと思う。
父は厳しい人で、中学生の頃、ケンカの理由は忘れてしまったが、二週間ほど家出をしたことがある。
しかし、家出先は叔母の家で、そこから学校にも通っていた。
また、高校生の時、バイクで事故を起こしたことがある。
私はヘルメットも被っていなかったが、カスリ傷程度で入院することもなく無事だった。
しかし、バイクもクルマもグシャグシャで、ぶつかったクルマは、高級車のアウディ。
修理金額もかなりのものだし、バイクも友達の兄のものだったので弁償しなければならないのに、教習所に通っている段階で保険もない。
両親は、大金を支払う事になったが文句ひとつ言わなかった。
これはさすがに身にしみた。
教習所もやめて、それ以来バイクには乗っていない。
そうやって、小言の一つも言わず、当たり前のことのようにしてくれた両親の後ろ姿から多くを学んだ。
「当たり前のことを当たり前に!」することが私のポリシーでもある。
両親は宿屋を営んでいたので、繁忙期には家族一緒に食事を取ることは殆どなかった。
しかし、いつも見守っていてくれていたお陰で今の私があるのだと思う。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
朝起きぬけにグレープフルーツジュースを飲む。
スッキリした気分で一日をスタート出来るから。
また、コーヒーが好きで、夏でもホットコーヒーを一日に2、3杯は飲み、涼しい時期は5杯は超える。
根が怠け者なので、ストイックに続けていることはないが、本業のスキー、テニスとランニング、トレッキング、フライフィッシング等のアウトドアスポーツを良くする。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
人物:エドガー・ポールマン
(現在は退任、当時HTMグループの役員、オーストリアにあるチロリア本社の社長を兼任していた)
スポーツ輸入商社から、外資系ビィンディングメーカー「チロリア・ジャパン株式会社」に転職したときの上司で、現在のポジションを与えてくれた。
この人がいなかったら今の私はないだろう。
ユニークだが、数字に細かく大酒のみで気難しい人だった。
外資系ではあるが、「日本のマーケットは、君のマーケットなので君が決めればよい。」と言ってくれ、お陰で本社側からのプレッシャーを殆ど感じる事はなかった。
とても日本贔屓で、日本の絵画や和食が大好きだった。
更にホスピタリティを大事にする人。
出張先で、ランチのために入ったホテルのレストランでは、従業員の対応が気に入らなくて食事の途中に出てきてしまったこともある。
アメリカナイズされたレストランだったからだ。
アメリカでなら同じ対応をされても平気だったかも知れないが、ここは日本!
「日本なのに、これはないだろう。」という事だった。
古き良き日本の親父そのもののような人だ。
ポールマン氏が取り上げてくれた訳を自分なりに考えると、目上の人には敬意を表するが、上司だからと言って媚びないところではないかと思う。
社長職は、ポジションさえ与えられたら誰にでもできる仕事だと思っている。
しかしこれは、周りの人が上手くフォローをしてくれているからでもあり、皆に甘えさせてもらっている。
私自身としては洞察力・観察力を高め、その場に合う発言を心がけて来た。
空気を読む力が大事。
ただ言うときは言う。
本社の会議に出席すると、理不尽なことを言われることがある。
例えば、価格決めのとき、日本は物価も高いのだから、現地価格より高めに設定しようと言われたことがある。
その際、空かさず日本語で「違う!」と不機嫌な顔で訴えた。
当然、言葉はわからないが、言葉の強さや表情で観て取れたのだろう。
急に、全体が私に気を使いだした。
流暢な言葉も良いが、伝える力さえあれば顔色でわかる。
どうしても日本は欧米に対して弱腰だ。
ここが外資で気をつけなければいけないところ。
本社だからと言ってもレベルが高い訳じゃない。
仕事として、同じ業界で同じ会社、同じ商品を取り扱うのだから対等でないと話にならない。
敬意は表するが、へりくだることも、オベンチャラを言う事もないのだ
今、本社会議において日本人の私が一番短気だと言われている。
本:ジャンルを問わず良く読む。
移動の際は何かしら持っていくが、自己啓発などはあまり好きでない。
時々ハマってしまうものがあり、最近嬉しいのは、池井戸潤さんの本がドラマ「半澤直樹」の影響で見直されたこと。
直木賞を受賞される以前から気に入って、最新作まで全て読んでいる。
気に入った作家の本を読みつくすのが私流。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「日本のマーケットなのだから、あなたが考えなさい。」
エドガー・ホールマン氏の言葉。
「本社を見ずに、日本のマーケットを観ていなさい。立ち位置を間違えるな!」と解釈した。
本社の顔色を見ながらでは、人はついて来ない。
資本の提供はあっても、独立した日本の会社なのだから、国内を観ていないとダメ。
現在、スキー板とビィンディングはセット販売されているが、当時は別々に販売されていた。
お客様が、板に合わせてビィンディングを選ぶ事が多かったので、日本オリジナル色として、スキー板に合わせたカラーコーディネートを提案した。
カラーの選定は、スキー板メーカーから情報をもらって決めた。
スキー板メーカーの担当者と仲良くなり、ランチしながら「来年はどうよ。」と次年度のカラーを先取りで教えてもらった。
また、付属品として考えられていたビィンディングに、個性ある強烈な蛍光色を使い限定販売にする等、新しい流れもつくった。
女性のお客様や、ホットユーザーの満足度向上は今も必須だ。
スキーブームも手伝ってよく売れたが、失敗もあった。
30歳くらいの時、日本モデルとしてターコイズブルーのビィンディングをつくった。
1万セットの最低ロットで生産したが、当初の発注はその2割程度だった。
翌年も、その翌年も振るわず、4年目に半分以上残っていたものを全て廃棄した。
会社には大きな損失をつくってしまったが、この頃から国内のビィンディングシェアを他社に譲ることはなくなった。
もちろん、失敗したら責任を取らなければいけないが、失敗を恐れず思い切った企画にチャレンジする方が面白い。
思い切った企画は8割成功すれば、失敗を取り戻した上に大きな利益を生む。
しかし、リスクのない計画は、その通り成功しても大きな利益にはならない。
失敗は勉強の場と心得ている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
25歳の頃、初めての転職。
最初に就職したスポーツ輸入商社は、単独の輸入商社として一番大きく、初対面のお客様でも、そのブランド力は存分に発揮された。
ブームと共に沢山の商社がスポーツ輸入に触手を伸ばした時代でもあり、知人に誘われるまま、スキービィンディングを扱う会社に転職。
しかし一転、なぜか同社の扱う健康器具のセールスとしてエアロビクススタジオ勤務となった。
若かったこと、今ほどエアロビクスが浸透していなかったので、インストラクターやお客様のレオタード姿が、刺激的過ぎてしばらくは馴れる事が出来なかった。
おそらく、会社側としては使いづらい人材だったと思うが、私としては、「話が違うじゃないか」と干された気分になり、異業種への転職も考えた。
ディズニーランドがオープンして2、3年の頃で、従業員を大々的に募集していた。
ここに残って、営業戦略として商品を売るか、たとえ残業があってもディズニーランドに転職して夢を売るか?と真剣に悩んだ。
悩んでいるうち半年が過ぎ、ようやくスキー関係の仕事に配属され転職は留まった。
その後、会社はオーストリアのスキービィンディングメーカーチロリア社の資本により吸収合併され、チロリア・ジャパンが発足。
スライド転職となった。
更に、1993年5月、国内にあったヘッドジャパンを吸収。
その後、「HTMスポーツジャパン」へと変わり、資本もオーストリアタバコから個人オーナーに変わった。
HTMのHは、HEAD(スキー、スノーボード、テニス、スカッシュ)、Tはチロリア(スキービィンディング)、Mはマレス(ダイビング)だ。
オーナーはヨハン・エリアッシュ氏と言い、スポーツ好きが高じて会社を持つことになった珍しい人。
彼から日本の再編を一任されたのがポールマン氏だった。
2012年7月、創立25周年を迎え、現在の会社名「HEAD Japan」に変更した。
初めての転職から半年間が、まさに運命の分かれ道で、私にとって社長に就任した時以上の転機だった。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
1、語学力
マネージメントや経営者には、セールスレベルを超えた語学力が必須だが、私にはその部分が大きく欠けていた。
私の語学力の乏しさから、国内のマンツーマン英会話教室の他に、ポールマン氏が、ボストンに語学研修まで行かせてくれた。
その経験は、費用対効果を考えると難しいものがあるが、忍耐力だけは学ぶことができた。
また、日本語でも熱意があれば伝わることも経験でわかった。
これは哲学とかの難しい話ではなく、空気を読む力だと思う。
2、スキー以外にラケットスポーツを手掛けるようになったこと
ウインター関係だけだった組織に、ラケットスポーツの新組織のメンバーを外部から集めた。
独立採算制の事業ができるまでには3年かかったが、同じスポーツ業界であっでもスタイルや商習慣の違い等、販売店様からはキツイお叱りを受けたことも多々。
会社の知名度はウインター業界だけで、他のスポーツ業界には通用しないことを痛感した。
その上、「新規に扱うのだから、旧態依然のスタイルから脱却したものにしたい!」という私の考えに更なる逆風が吹いた。
当初は、「業界をなめている。」と言われる程、風当たりが強かったものの、貫いた結果、ラケットスポーツのメンバーには十分に理解され伝わった。
現在では、良い方向に流れていると実感できる。
ウインター業界だけでなく、ラケットスポーツを扱う会社の社長になるとは夢にも思っていなかった。
良い仲間に恵まれ、運が良いのは私の強みかも知れないと思う。
◆夢は?
いつか北海道に移住したいと考えている。
山や海といった大自然の中にいると気持が洗われるようだ。
山育ちで海への憧れが強かった時期もあったが、特に道東は憧れの地。
今も6から9月は北海道へ集中して訪問している。
遊びの他に、私が携われる事、何か役立てることはないか?
そのヒントを探す事も目的の一つだ。
また、農家が自家用に生産し、食べきれずに残った野菜を有効に活用するために何かできないか?と考えている。
農業を営む地域は、隣もまたその隣も、更に親戚も農家ということが多い。
自分のところで取れ過ぎた野菜をご近所に配ろうとしても、そのご近所さんたちも同様だ。
自家用なので、見かけは規格外だが、無農薬で美味しい。
だいたい一生懸命につくられた野菜に対して、規格外という言葉は不適切だと思うが、現状としては農協でも引き取ってもらう事も出来ない。
特に夏野菜は、日持ちがしないので捨てるしかなくなる。
そこで、会社にドンと着払いで送ってもらって皆で分けることにした。
もらった側としては無農薬で新鮮な野菜は有難いもので、一瞬にしてなくなる。
売ってくれと言っても、余ったものだからと、お礼も受け取ってはくれない。
夏だけのことだが、商売抜きにしてこのシステムも何とかできないか?と考えている。
漠然とした夢でも、色々考えて行くと膨らんでいく。
その夢が叶う「いつか」の為にも、踏ん張れる自分でありたいと思っている。
HEAD Japan
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