アサヒビール株式会社
名誉顧問
中條事務所
代表
中條高徳氏
2013.4.17 10:30
◆業種
実業家、作家、セミナー講師
◆子供のころになりたかったものは?
末は総理か大将か
私は春には十万本の杏の花が咲き誇り、北の方を眺めれば乗鞍・妙高・黒姫などの連山が白凱々(かいかい)と横たわっている信州の桃源郷に生まれました。
今年の春、天皇皇后両陛下がお偲びでお訪ね下さったところです。
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子供の頃は6人兄弟の末っ子で夢だけは、末は総理か大将かと馬鹿デカかった。
そしてかなりのガキ大将であったが、地方の素封家(財産家)で育った母の教えは「ならぬことはなりませぬ」と会津若松藩の「※什の掟(じゅうのおきて)」そのものであった。
私が子供の頃は、秋の取入れ時期になると小作人の人達が米俵を蔵に収めにやって来た。
その小作の人達を「見下すようなことはしてはなりませぬ。」と厳しく育てられた。
又信州では年の暮れに魚を食べて「年をとる」との風習があった。
毎年、我が家には高山の氷見の本場から立派な寒ブリが届いた。
「こんな立派な寒ブリを食べられるのは御先祖様のお陰だよ。」と我が家の豊かさを誇らしげに語るのに、この事は友達には話してはいけないと固く口を閉じるよう命ぜられた。
地域の人達と仲良く暮らしていく知恵であり田舎の素封家のいわば安全保障であった。
殿様のように城もなければ、身を守ってくれる侍もいない。
謙虚に、つつましく生きて近隣から恨まれたり嫌われない生活の知恵であった。
この様に田舎の素封家すら我が家族の安全保障に意を用いていたのに、富を世界の二、三番に築きあげた我が国の安全保障の甘さには恐ろしさを感ずる。
自分の国は自分で守るしかない。
北方四島や竹島は他国に実効支配され、拉致された人も救出できないニッポン。
尖閣諸島の狼藉が繰り返されているニッポン。
一日も早く我が国民は目を覚まさねばならない。
◆ 毎日欠かさずしていることはありますか?
1、午前4時頃起床
日誌をつける
70年程続いている。
2、新聞各紙の切抜きをする。
項目別に切抜帳を作っている。
家内も新聞を読むので前日の分を切抜く。
3、読書
読書量は天下に誇れる。
4、心筋梗塞の大手術前は40数年間続けていた。
嵐の朝も台風の日も、午前6時靖国神社に参拝。
次は警察、消防の犠牲者を祀る「弥生廟」に詣でる。
6時20分頃、「北の丸公園」の城壁で「ヤッホー」と3回連呼する。
6時30分から、数十年の歴史をもつ「あけぼの会」のラジオ体操をする。
「逆立ち」「腕立て」を50回、ラジオ体操を皆でやる。
5、事務所に戻り、書類整理1時間
6、8時、自宅に戻り朝食
◆ 自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、母
兄弟の間では、「チャックのきかない母」と言われていた。
どんなにお世話になった人でも、人の道に外れたら叱りつける。
遠慮はしない。
私も幼少の頃、我が家は躾が厳しくよく叱られた。
一度、凄いショックなことがあった。
真っ暗な土蔵の中に置いてある、一畳分もある大きさの米びつに閉じ込められたことだ。
なぜ怒られたのかは覚えていないが、その時の恐ろしさは今でもしっかり覚えている。
あの時、どうして米びつの中で「おしっこ」をすることを思いつかなかったのかと悔やまれる。
そうすれば、母も懲りて二度とこの刑罰は使わなかっただろう。
また当時、我が国は「戸主権」を作り一戸の戸主を権威づけていた。
我が家の食事は箱膳で、戸主である父のものだけ一回り大きく、おかずも一品多かった。
毎日、そのおかずを狙っていたことを懐かしく思い出す。
2、安倍 能成(あべ よししげ)先生
学習院大学の創設に関わる哲学者。
韓国京城帝国大学総長、旧制第一高等学校校長であった。
日本が敗戦して、多くの若い少尉たちが自決した。
私は、陸軍士官学校の生徒だったので、まだ将校にはなっていなかったが、自決した将校たちは私と年は変わらない。
そのショックたるや、現代の皆さんには計り知れないことだろう。
千葉の四街道で、29歳の若い先輩将校が、新婚の妻と共に自決した。
若い将校は、愛するがゆえ妻を道づれにするのは忍びなく、離婚を申し出たが新妻が承知するはずもない。
将校が自ら腹を切り、妻が介添え人として夫のピストルでこめかみを撃った。
その後、妻も自らのこめかみをピストルで討ち自害して果てた。
このあまりにも悲しい出来事に、村の人が観音像をたてたという。
<参考著書「おじいちゃん戦争のこと教えて-孫娘からの質問状」>
そんな時代だから、私もこれからどこに向かって行けば良いのかわからなくなっていた。
そんな時、ある勉強会で安倍 能成先生にであった。
先生のことを、「戦前はラジカル(過激で急進的)な思想を持っていたのに、戦後になって平和主義者に転身した。」と悪口を言う人がいたが、先生の考えは全く変わっていない。
しかし先生は、そんな風潮は馬耳東風のごとく、態度は堂々としたものだった。
そんな先生をみて「人生の師匠」だと思った。
私は、一度死んだつもりで生きることにした。
地元に帰り旧制松本高等学校(現:信州大学)に籍を置いていた私に、先生は「君は、いずれ東大か京大にいくのだろう。しかし、東大の教授を迎い入れ100名程の学生の大学を創るので、私が学長をする学習院大学に来たまえ!」と言った。
その言葉通り、私は家族に相談することもなく、東大に入ることをやめて学費の高い、学習院大学文政学部に入学した。
このとき、家族は一言も理由を尋ねなかった。
何かを尋ねたら、私が自害してしまうのではないかと心配してのことだと思う。
家族の思いやりに、しみじみと感謝している。
また、安倍 能成先生も約束を守ってくれた。
本当に東大から引き抜かれた教授ばかりで、東大以外の教授は一人か二人だった。
更に、まだ生徒も少ない時代だったので、高等科と大学の卒業式を一緒にしていた。
そのお陰で、今上天皇が高等科をご卒業されると同時に、私は大学の卒業式を迎えることができた。
卒業式には、昭和天皇も皇后様ご列席され貴重な体験をさせてもらった。
◆ 自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
易経
「積善之家必有余慶」(せきぜんのいえかならずよけいあり)
個人でも家でも会社でも、他のために善をつくせば必ず良いことが余りあるほどたくさん来るという因果応報を説いた「易経」の教え。
◆ 人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、昭和20年8月15日終戦の時
忘れもしない暑い夏の日のことだった。
陸軍士官学校の生徒として、浅間山の裏手にある群馬県嬬恋村にいたときだ。
その時の挫折感は、言葉では表現できない程だ。
2、昭和28年3月14日結婚した日
人生を縦糸と横糸で表すなら。
縦糸は、ご先祖様から上から下へ脈々と流れる糸。
結婚は、別の家から来た人間が縦糸を紡ぐことに参加する大事な行事だ。
嫁に来ると、まずは御仏壇にご挨拶する。
この家に参加させていただいて宜しいでしょうか?とお伺いを立てる。
許認可事項のようなものだ。
だからと言って、ご先祖様が、「ふつつか者だから嫁に来てはいけない。」等ということはない。
横の糸を紡ぐのは、友達や仲間だ。
昔の田植えは、ちょっとしたものなら一人で手植えをしていた。
一人で植えるから「天皇植え」とも呼ばれていたが、とても辛いものだった。
辛いから、前後や右左の人々と協力して一緒に田植えをする。
それでも辛いから、歌を歌って少しでも辛さを紛らわした。
それで日本には田植え唄がたくさんあるのだ。
そうやって苦労を共にした仲間には、おいしいものが手に入れば分け合うということが当たり前になされていた。
独り占めなんて絶対なかったのだ。
そうやって日本人は横の糸を紡いできた。
他人の心をおしはかることを忖度(そんたく)と言うが、そういう美しい言葉が昔から日本にはある。
その言葉や心を大事にしていきたい。
また、夫婦がいつまでも仲良くできる秘訣は「相手の立場に身を置く」ということだ。
人を好きになると、「あーあのとき紫色の服を着ていたな。」とか、一生懸命に相手の情報を集めるだろう。
そうしたことをいつまでも続けていれば良いのだ。
これは仕事に対しても同じ。
仕事を活かす!
真剣さが足りなければ、それなりの仕事しか出来ない。
◆ 問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
1、 敗戦
2、 大学を卒業後、アサヒビールに就職した。
戦後直ぐに、75%のシェアをもつ大日本ビールが、マッカーサーの指示によりサッポロビールとアサヒビールに解体された。
その時のキリンビールのシェアは25%。
その3年後に、私はアサピビールに入社した。
ところが、入社して暫くするとどん底を味わった。
アサヒビールは、9.6%のシェアにまで落ち込んでしまったのだ。
しかし、私は敗戦を味わった人間だ。
死んだつもりになってやれば何でもできると信じていた。
また、挫折を繰り返すうち、人を一瞬で見抜けるようになっていた。
商人には嘘つきが多い。
だが、その人を見れば嘘を言っているのか本当のことを言っているのかがわかるようになった。
神様は、挫折の分だけ気づきを持って来て下さるのだ。
戦争や経営難を体験したからこそだと思う。
もしも大地主の末っ子二男坊でぬくぬくと育ったままでいたら、人の痛みも今の数分の一くらいしかわからなかっただろう。
◆夢は?
元の日本を取り戻す!
今、アベノミクスでも教育の仕組みを変える等、色々な政策が取られている。
戦後の教育はアメリカが作ったものだから、本来日本人がもっている大和魂を育てる教育が必要だ。
また、ゴット=神というのは訳を間違えたのではないかと思う。
日本は農耕民族で雨や日照りが生活に物凄く関係する。
豊年満作と大喜びした翌日に大嵐となり、無念に終わるということも多々あった。
それでも仕方がないと諦める。
自分の力ではどうすることも出来ないことだからだ。
こういうことを経験すると、自分を謙虚に捉えることができる。
神様を上とかいて「かみ」とはよく読んだものだ。
心や頭の中で、自分より偉いもの、上のものをサムシンググレートとか、神とか仏と言っていたのではなかろうか。
日本人の考えた「神」の概念はその程度のものであったに違いない。
私は、天照大御神は太陽だと思っている。
お百姓さんにとって太陽は、今よりももっともっと大事だったに違いない。
日本は神仏習合
それが証拠に、高野山の中に神社があるし、神社の隣にお寺があるところが多い。
神社仏閣を巡って思うが、日本の神様はアバウトだ。
だからこそ、和の精神も成り立つのだろう。
また自国の歴史を知ることも大事。
2673年前(紀元前660年)に「栄えよ!」という思いで天孫が降臨した。
1301年前に編纂された古事記には、天皇の名前が実名で書かれている。
諸説はあるが、きちんと実名で書かれ、実名の歴史が1300年以上脈々と受け継がれてきたものは、わが皇室以外絶対ない。
また、他国の場合は、王様といっても結局は征服者であり、日本のように国民の幸せ祈る天皇陛下のような存在はない。
常に国民のど真中を神の如く公平におわす、この国の素晴らしさを今一度認識し、更に栄えさせる。
中條高徳公式ホームページ
http://www.nakajo-t.co.jp/
著書
「おじいちゃん戦争のこと教えて-孫娘からの質問状」
孫からの質問状「おじいちゃん日本のことを教えて」等多数
※什の掟
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
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中村 雅子 (土曜日, 25 6月 2022 04:25)
2022年日本人は再び「本」を読むようになってきました。インターネットでの識者の呼びかけに応じ、550円で手に入るという安価に惹かれ、小さな字を天眼鏡で辿って読んでいます。私自身人並と自認していますが日本の風が変わってきたのを感じています。
世界で吹き荒れている「マネーの嵐」に流されることなく昔からの日本の考え方を大事にし、第2次世界大戦で日本を究極まで守り抜いてくださった先人の恩に報いるよう、生命終わるまで頑張りたいと思います。
大事なお言葉の数々本当にありがとうございました。