食で天下泰平をつくる「たいめいけん」王



株式会社たいめいけん

三代目 専務取締役

茂出木 浩司氏

2013.7.6 1400


茂出木浩司

 

 

◆業種

 

飲食業

 

 

◆子供のころになりたかったものは?

 

プロサーファー、F1レーサー

 

テレビで見てカッコイイと思ったことが最初。

 

当時は第二サーフィンブームで、ファッションでもサーファーが流行っていた。

 

これは女の子にモテる!と思った。

 

中学一年の頃、友達がサーフィンを始めたのをきっかけに自分ものめり込んだ。

 

同じ頃、へビメタが流行って、エレキギターにも夢中になった。

 

だからという訳ではないが勉強は殆どしなかった。

 

高校付属の私立中学に通っていたので、高校進学はできたが、二年に進級する時、単位が足りず落第。

 

「まさか!」の事件だ。

 

特に、ケンカや警察沙汰になるようなこともせず、出席日数も足りていた。

 

更に、先生と親は仲良く、しかも自分の交友関係は良好だった。

 

だからして「まさか!」の出来ごとは、物凄くショックだった。

 

先生から「自主退学しろ」と言われ、「わかりました。」と答えたが友人には言えなかった。

 

若干16歳、「これからどうしたらいいんだろう」と途方にくれた。

 

家に帰り母に相談すると、直ぐに私立高校の定時制に編入の手続きを取ってくれた。

 

この時、「大人っていうのは、切り捨てる時は切る捨てるものなんだ」と、社会の厳しさを知った。

 

父が慶応大学出身だったので、幼い頃から漠然と「自分も慶応大学に入れる」と思っていたところがあったので、今思えば「自分が甘かった。」とわかるが、当時としては物凄い衝撃だった。

 

しかし、これだけの衝撃を受けたにも関わらず、私立高校の定時制にいっても凝りなかった。

 

授業態度も悪く、単位も取れなかったので、なんと二学期には進めないと宣告された。

 

仕方なく退学し半年間、少し勉強して都立の定時制を受験した。

 

幸い合格し入学することが出来た。

 

その間も、サーフィンやサーキットレース、エレキギターに夢中のまま、どんなにショックを受けても真面目に勉強することはなかった。

 

かといって、何処かに「たいめいけんの三代目」という自覚とプライドがあり、不良少年になりきることもできなかった。

 

現に、都立高校は物凄く荒れていて、警察が出入りするような高校だったが、仲間であるクラスメートは「もっちー(当時の呼び名)はここにいてはいけないね。」と言ってくれた。

 

高校を卒業し、大学に進学したかったが希望校には合格できなかったのでアメリカに行った。

 

シアトル大学の語学学校に入学したが、これも一年たらずで挫折。

 

日本に帰国して「このままではいけない!」と老舗レストランに修業に入った。

 

しかし、これも最初の頃はどの店も長く続かず、いくつかの店を転々とした。

 

そして、22歳の頃、たいめいけんに入社。

 

当初、周囲の人は快く思っていなかったようだ。

 

ずっと、三代目の自覚とプレッシャーを何処かにもっていたような気がする。

 

幼い頃から、調理場が遊び場で、祖父母や両親が働く姿を見ていた。

 

しかし、忙しい両親とは殆ど会話をすることがなかったので、何かと外に出かけてしまう。

 

外に出れば誘惑も多く、自分ではあまり意識していなかったが色々な葛藤があった。

 

正直、当時は人生がまるごと劣等感だった。

 

しかし、お金はたくさん使ってしまったが、今の自分があるのは、全て過去の積み重ねがあってこそ。

 

どれも無駄にはなっていないと思う。

 

ただ、自由にさせてくれた両親には感謝している。

 

何だかんだいっても、戻って来れる家(店)があるということは恵まれていると思うし、学校や料理の修業先で学べなかったノウハウや経営学は、DNAを通して祖父母、両親の後ろ姿が教えてくれた。

 

その土台に上に今の自分が成り立っている。

 

 

◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 

健康法として、毎日湯船に長く浸かるようにしている。

 

また、日焼けが好きなので、できるだけ太陽の光を浴びるようにしている。

 

 

◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

 

祖父

 

たいめいけんの創業者

 

周囲にはとても厳しい人で怖いイメージがあったが、孫の私にはやさしく接してくれた。

 

一緒に食事をしたり、調理場では祖父の傍で遊ぶことも多かった。

 

私が小学校5年生の時に祖父が亡くなったが、家族一人一人に遺言状が残された。

 

そこには「お前が三代目だ。・・・・・・」と書かれてあった。

 

22歳で、たいめいけんに入社した時は、不良みたいなことをしていた自分の存在を疎ましく思う人も多かった。

 

呼び捨てにされ、暖かい目でみてくれる人は少なく、辞めていったものもいる。

 

しかし、仕事に対してやる気もあったので、「コンチクショー」と思っても真面目にがんばった。

 

と言いながら、たまにわがままが顔を出し、面倒くさいと思った日は皿洗いばかりしている日もあった。

 

そんな自分だけに、バッッシングが強かった時もあるが、27歳の時、あることをきっかけに祖父の遺言状を思い出し励みとした。

 

今、自分がこうあるのも本当に運が良かったのと、ベースに祖父母や両親がいてくれたお陰だ。

 

ダメはダメなりに自分で何かしなきゃいけない!と思う。

 

そういう思いを実現するため周りが支えてくれた。

 

新商品や店舗開発を進められたのも、スタッフや仲間がいてくれたからこそと感謝している。

 



◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 

1、祖父の遺言

 

「お前が三代目・・・・・・・」

 

「古い障子と屏風は広げ過ぎると破れるよ。」

 

老舗と言えども、調子に乗って広げ過ぎると倒産してしまうこともあるから気をつけなさいということ。

 

周囲からは出店、コラボレーションや商品開発など、多くのお話を頂く。

 

しかし全てを受け入れる訳にはいかない。

 

とても条件がよくても「ピン」と来なければ受けない。

 

また一人勝ちはいけないと思っているので、地域や業界等を含めた皆が潤うようなこと、スタッフやお客様が喜んで下さることを中心に考える。

 

ただ、今は大きくなりすぎて、目が行き届かなくなることが悩みでもある。

 

味の管理等、変えてはいけないところは頑張って守って行きたい。

 

これは両親の影響もあると思う。

 

どちらかというと、父より母の方が店を守るという気持が強い。

 

今となっては、母同様、店を守るためなら命も惜しくはないと思っている。

 

 

2、「あんた最低!」

 

昔はコンチクショーと思ったが、今は何だか嬉しい。

 

自信がついたからだと思う。

 

しかし、結構心はくじけやすく、神社やお寺で神様仏様にたのんだり、祖父母のお墓参りをしたりする。

 

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

 

35歳

 

テレビの料理番組のレギュラーになった時

 

このお話を頂いた時、物凄いチャンスだ!と思った。

 

売名行為ととられると悲しいが、「テレビに出られる」とか「有名になれる」、「モテる」等といったことでは一切ない。

 

「このままではいけない」という思いを持ちながら生きて来たので、純粋に自分の人生を確立させるチャンスだと思った。

 

週一回ではあったが、生放送なので遅刻も病欠も許されない。

 

更に、毎週新しいレシピを考えて行かなくてはならず、甘えの効かない三年間を過ごした。

 

この時、初めて社会というものを体験した気がする。

 

人には誰にもこのようにチャンスが訪れるのだと思う。

 

それに気づけるか、気付いて活かせるかは自分次第だということも学んだ。

 

時々「その自信はどこから来るの?」と聞かれることがある。

 

これは「なぜうまく行ったのか?」と考えた答えと同じで、三代目のプライドとイメージ力から来るのだと思う。

 

いける!と思ったらいける!のだ。

 

気持の持ちようが大事。

 

出来ると思って突き進む!

 

 

◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

 

自分ではあまりないと思っている。

 

自分は、どん底を経験した訳でもなく中途半端だったと思う。

 

都立高校の時は、いろんな家庭があることを知った。

 

「お金がない」ということはどういうことかを知ったのもこの時だ。

 

それでもみんな一生懸命だった。

 

不良をしているやつも、昼仕事して夜学校に来るやつも一生懸命。

 

ちゃらんぽらんしているやつも一生懸命生きている。

 

そして皆、仲が良く団結心も強かった。

 

寂しがりやで、一人じゃおかしくなっちゃう。

 

仲間がいるから、いろんな障害も乗り越えられるのだと思う。

 

 

◆夢は?

 

一日6組だけの小さなお店をつくりたい。

 

好きなものを、ゆったりとした時間の中で提供し味わって頂く。

 

銀座の街も好きだが、出来れば沖縄の離島に出店したい。

 

やはり南の島が好きだから・・・。

 

創業昭和6年 日本橋たいめいけん

http://www.taimeiken.co.jp/