株式会社宮崎工業
代表取締役
宮崎 浩治氏
2013.5.10 11:00
◆業種
建築型枠工事、コンクリート
◆子供のころになりたかったものは?
社会科の先生
子供の頃はサッカー少年だったが、歴史が好きで他の科目に比べ成績も良かった。
特に日本史が好きで、本もたくさん読んだ。
高校生になると船乗りに憧れ、海上自衛官を目指し防衛大学校を受験した。
ところが合格したのは、税務大学校。
翌年、防衛大学校に再チャレンジするつもりで、税務大学校に入学したが、入学して直ぐにそんな気持ちは吹っ飛んだ。
皆、昼夜を問わず必死で勉強していて、寮では夜9時に消灯だが、その後は懐中電灯で勉強している。
お酒を飲んだり、マージャンをしたり適当に遊んでいた自分は、「ここは自分の居る所じゃない」と判断、入学後半年で退学した。
その時、友人の父から、建築の仕事についた方が良いと勧められた。
「自分の造ったものが、世の中に残る仕事っていいじゃないか」と言われ、心が動いた。
軍医だった友人の父を、とても尊敬していたこともあり「やってみるのも良いな」と思った。
翌年、建築設計の専門学校に入学した。
卒業後、上場していた建設会社に就職。
そこで現場監督を務めたが、毎日が楽しくてたまらない。
自分で段取りを考え、建物がどんどん仕上がっていく姿を目の当たりに見られることに幸せを感じた。
職人さんたちとの交流も楽しく、嫌だと思ったことは一度もなかった。
ところが折角、良い人間関係が出来ても、一つの建物が建て終わると現場は解体される。
更に、組織に所属している以上会社の方針には従わなければならない。
職人さんへの情と、会社の方針である利益追求の狭間で、葛藤が生じた。
職人さんは皆、自分の現場に来て働きたがってくれた。
それなら、いっそのこと自分で起業してしまおう!と思い、26歳の時に起業した。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
神様、仏様、ご先祖様に向かって朝晩祈る。
朝、一日皆の健康と安全を祈る。
そして、夜8時、9時になって仕事の電話がこなくなると、一日が終わったなと思って感謝する。
阪神淡路大震災の直後から、会社でも家でもセイフティホイッスルを常に身につけている。
セイフティホイッスルとは、がれきの中に閉じ込められ大声が出せない時等、かすかな息でも鳴る笛だ。
毎日社員が現場でがんばってくれている。
それに対して、自分ができることは限られる。
社員の安全を願い、現場でがんばってくれていることを忘れないように、どこにいても肌身離さず身につけている。
建築現場は危険が多い、社員の無事を考え、あれこれ手立てを打ったが、所詮人間の考える浅知恵だ。
最後は祈るしかない。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
稲盛和夫氏
普段の生き方を観て「あいつなら」と推薦してくれた仲間のお陰で、稲盛氏の主催する「盛和塾」の第一期生となった。
「盛和塾」は、稲盛和夫氏から生き方[人生哲学]、経営者としての考え方[経営哲学]を学ぼうと1983年に集まった自主勉強会が始まりだ。
最初は、物凄く怖くて近づけなかった。
怖いと言っても、本当に怖い訳ではなく、物凄く偉大な人だからだ。
自分が未熟で、恐れ多くて近づけないという怖さだった。
「盛和塾」を通して、稲盛氏から息づかいの伝わる距離で、怒られ、慰められ、褒められながら多くを学んだ。
私にとっては神様同然の方。
「盛和塾」には、選ばれた数名が発表する大会がある。
千名を超える参加者が見守る中、稲盛氏が聞いている。
私が最初に発表したのは十数年前、ブラジルで開催された大会だ。
40分間の発表のために、半年間かけて準備した。
徹夜してヘトヘトになりながら一生懸命、心を込めて発表をまとめてみたが、稲盛氏が聞いているだけでも緊張するのに、その場で総評を受けることを思うと震えが止まらない。
半年以上、自分を見つめ直すチャンスを頂いたことは大変有難いことだ。
また、その3年後、平成15年にもチャンスを頂き、全国大会で優秀賞を頂いた。
千葉県の代表世話人を務めさせて頂いたこともある。
「盛和塾」に所属していた方が、居心地も良いし、私としては気持ちも楽だが、知行合一(知って行わないのは、未だ知らないことと同じであること)のままではいけないと思った。
学んだことを社会で実践し活かすため、「盛和塾」を退塾し新たな道へ進もうと思った。
稲盛スピリットを実践し、後進を育てることにも役立てたいと考えている。
頼まれた時は、講話者として「盛和塾」に参加することもあるし、稲盛和夫の弟子であることは一生変わらない。
稲盛氏に出会っていなかったら、今の宮崎工業なんて会社は存在しなかっただろう。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「動機善なりや私心なかりしか」
稲盛和夫氏の言葉
動機が善であり、実行過程が善であれば、結果は問う必要はない、必ず成功するという信念を表す。
「お前が今やろうとしていることの動機は、名を売ろうとしているのではないのか?自分だけ儲かればいいということではないのか?人のため世のためになる!と信じてやれることなのか?常に自分に問え!」と言われた。
この言葉と自分の事業が、イコールになるように経営理念も考えた。
「建設業を通じ社会の進歩発展に貢献すると共に、全従業員の物心両面の幸せを追求する。」
これは、経営者として自分の夢であり、どこまで行っても「これで良い」は無いだろうが!
今も追及し続けている。
また、1999年、木粉を圧縮して植木鉢などの容器にする技術と、木屑や木粉を加圧して板状や容器にする特許を取得した。
今では、巷に多く出回っている品物だ。
特許権を行使すれば、儲かるかもしれないが、品物の値段は上がる等の制限が掛り、世の中の発展には繋がらないだろう。
そこで、社会に進歩発展と貢献のために特許権を放棄した。
真理は一つ!人生の目的に気付いたからだ。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、19歳の時、交通事故を起こした。
友達を同乗させていての事故で、生き残ったのは自分だけだった。
正直、自分も死のうと思った。
今でも、その友達たちが迎えに来たらいつでも行こうと思っている。
魂と魂の出会いは命がけだ。
短い言葉で述べることは出来ないが、ブラジルで開催された盛和塾の発表会では語らせてもらった。
数百名の参加者も涙ながらに聞いていた。
その時、稲盛氏から慈愛に満ちたお言葉を頂戴した。
その言葉を今も励みにしている。
2、野田佳彦氏との出会い
野田氏がまだ県会議員の頃に知り合った。
もう30年近い付き合いだ。
野田氏が国政に出る時、「国政に出るからには総理大臣を目指せ!自分も建築の世界で一番を目指す!」と約束を交わした仲だ。
私は、野田という人間の生き方を観て決意したことがある。
彼には、「これくらいはいいだろうという」ところが一切ない。
純粋な魂をもった人だと思う。
パブリックもプライベートも変わらない態度で、真面目な男だ。
多くの人が忘れてしまっているのではないかと思うが、野田氏は総理大臣になった時「闇社会との決別」とハッキリ公言した人だ。
命も惜しまない、潔い態度を観て決意した。
政治家の友達が居れば、自分にとって都合の良いように配慮してもらいたいと思う人もいるが、私はそういったことを一切してもらったことがないし、又たのむ気持ちもない。
以前してくれると自主的に申し出てくれた人もいたが断った。
頼んだ方も頼まれた方も、自分をおとしめる行為だと思っている。
私ごとの頼み事は、最初は小さくても、いつしか大きな利害関係に発展することもある。
だから「これくらいはいいだろう」は無いのだ。
ただ一つ、野田元総理大臣に対して残念に思うことがある。
靖国神社を公式参拝してほしかった。
3、稲盛和夫氏との出会い
他にもたくさんの転機があるが、ここでは言い尽くせない。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
毎日が試練だと思う。
しかし、一年前に悩んだことなんて殆どの人がだいたい覚えていないものだ。
毎日改めて一日が始まり、日常の生活を正すことが大事。
感謝して一日一日を生き続ける。
私には2歳8カ月の子供がいるが、この子の成長に対しても、この場合はこう、こうなったらこう、等と常に最悪と最善を対比して3つ4つの手立てを考えている。
これは仕事もそうだ。
だから想定外なんてもんはない。
そんなもんは逃げ口上に過ぎないと考えている。
また子供のモラルを育てるのは、親が日常生活の中で当たり前に実践するしかない。
私の両親もしつけには厳しかった。
そうすることで、どこかで学ばなくても自然とモラルが育つ。
日本は、戦争に負けて教育勅語を取り上げられてしまった。
日本人魂を取り戻し、立ち上がらなければならない。
日本は、全ての神を受け入れられる国だ。
宗教戦争などあり得ない。
アインシュタインやドラッガー等、多くの人が日本だけが世界を救うと言っている。
一人一人が自ら歴史を学び、戦争でしでかしたことの事実を認め、していないことや、されたことはハッキリと世界に対して訴えなければならない。
また、日々社会の中で生きていれば、人間が曇ることを知り、原点回帰、常に初心に帰る心が必要と考える。
人生2度なし!最善を高じて望み、全て因果応報、自分に返る、と思うと何事も試練とせずに感謝の心で受け入れる事が大切だと思う。
◆夢は?
いっぱいある!中でも今取りかかっているものは、エコ事業だ。
1、不用品のリサイクル
リサイクルショップで余った商品をフィリピンで販売し、その利益を寄付する。
このシステムを完成させたい!
2、型枠事業を究極のエコ事業に!
建物に、コンリートを流す時の型枠に使われるものはベニア板だ。
このベニア板を型枠として再使用するのだが、再度型枠に使えないものは燃やしてしまう。
この燃やす時のエネルギーを、バイオマス発電に使用し、灰をセメントの材料に使用する。
灰をセメントにするときに出たCO2は、木の成長に役立つという仕組みだ。
ベニアは、木から作られている。
そこで木の植樹から手掛けることにした。
植樹→樹木→ベニア→バイオマス発電→セメント→CO2→樹木
このサイクルを完璧に創り上げることは、自分の使命と考えている。
また、板を強化するため、ポリプロピレンを木に張り付ける糊を開発したり、壁材によいものをドイツへ直接行って安いものを探したりと更なる追及をし続けている。
株式会社宮崎工業
社長ブログ
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