「ピッカッ!」と魂を吹き込む!素敵な音響王



 

有限会社テクノサウンド

代表

三間雅文氏

 

2013.10.27 1830


三間雅文
三間雅文

三間雅文
三間雅文 黒子のバスケ台本

 

◆業種

 

音響監督

 

◆子供のころになりたかったものは?

 

野球選手

 

小学校1、2年生の頃、長島、王、両選手の全盛期だった。

 

子供たちの背番号は、みんな1番か3番だった時代だ。

 

しかし、私の両親は共に小学校の教員だったので、両親は私を教員にしたかったらしい。

 

母は、景気には左右されにくいし安定しているので、「なんてったって公務員!」とよく言っていた。

 

父はとても厳しく、母も厳しかった。

 

特に父は、戦後カラフトから北海道に引き上げ、中学生の時、五百円札を制帽に縫い付け一人で東京に出て来て校長までなった人。

 

それだけに父は、いわゆる頑固おやじで、スパルタ式の軍人のようであった。

 

例えば、友達の教科書にらくがきをしたりすると、担任の先生から母に注意の連絡が入る。これ自体が怒られて当然の行為だが・・・。

 

その報告を母から受けた父は怒り心頭、教育者が教育者から注意を受けることが一番頭に来るらしい。

 

殴られたり、自宅の庭にある池に投げ入れられたり、鉄棒にくくりつけられたりもした。

 

そのため、両親の思い通りにはなりたくないと、反発していた。

 

だが今考えると、その反発心があったお陰で、天職に巡り合えたとも言える。

 

幼少の頃は内弁慶だったが、高校生になるとラジオ番組のモニターに応募。

 

当選しラジオ局内での作業に参加した時、ディレクターさんに気に入られ、そのまま局でアルバイト的な事をすることになった。

 

両親が共働きの為、私はカギっ子で、小学生まで近所のおばさん(他人)の家に預けられていた。

とても優しく子供好きで、中学生になっても母のように慕っていた。

 

そのおばさんは、私が中学生になったら寂しくなったのか、子供たちが集まる駄菓子屋さんを始めた程。

 

また、両親が教員という事もあり、毎年、正月の三が日は1日30人くらいの来客があった。

 

時期校長候補の人が挨拶に来るのだ。

 

お年玉もたくさん頂くが、子供を連れて来た人には母もお年玉をあげるので、その差額が自分のお小遣いになる。

 

そんな訳で、子供の頃から大人の世界にいた私は、ディレクターさんも使いやすかったのだろう。

 

文化放送でのアルバイトは、イラストを描いてチラシをつくったり、応募はがきの整理をしたり、とにかく楽しかった。

 

中でも、ラジオドラマづくりを見た際に、人生が変わるほどの衝撃を受けた。音だけで、これだけ人の心を揺さぶれるのかと・・・。

 

そして、私は将来の職業にしたいと思い、大学生になってもちょこちょことラジオのお手伝いをさせてもらっていた。

 

3年生の時、遠縁が音響関係の仕事をしていて、ラジオドラマを制作するというので、大学をやめてそこで働きたいと思った。

 

もちろん両親は大反対、父には殴られたが何とか説得し入社した。

 

初仕事は今から30年前、なんとディズニーランドのオープニングセレモニーだった。

 

音楽と共にレーザー光線を、屋上にミラーボールを立て周囲に反射させる演出の手伝いをした。

 

と言っても、そのミラーボールを持っているだけの役割だったが、ディズニースタッフとしてユニホームを着て5日間、働いた。

 

とても印象に残っている。

 

ユニフォームは靴下までミッキー!持ち帰り厳禁で、厳重にチェックされた。

 

また、ディズニーに大人がいてはいけないので、髭は禁止。

 

アメリカの本社にも髭をはやした人は一人もいないという?

 

男子は髪も耳にかかってはいけないので、今はどうかわからないが、ディズニーランド内にある従業員用の床屋で即刻散髪される。

 

当時、音響会社の社長は、立派な髭を蓄え、毎日綺麗に手入れをしていたが、例外なくツルツルに剃られた。

 

すると、まさしく少年のような姿になった。

 

その後、社長との意見の相違により、フリーで仕事をすることになった。

 


三間雅文
父と
三間雅文
愛犬

◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 

1、犬の世話

 

8年前から、ヨークシャテリアの雌を2匹かっている。

 

最初は一匹だったのだが、仕事で留守がちの為、知人に「1匹じゃかわいそうだからもう1匹飼ったら。」と言われ約1年後にもう1匹を飼うことにした。

 

姉妹ではないが、帰宅したら、先住者であるお姉ちゃん犬を先に可愛がる。

 

そうしないと、スネてしまうので気をつけている。

 

2、報道ステーションを観る

 

何故か癖になっていて、観てからでないと不安で寝むれない。

 

録画してでも、飲んで帰っても、どんなに遅くても眠くても観てから寝る。

 

しかも必ず、部屋を片付けや洗濯をしてから。

 

家に帰って一度座ってしまうと、やる気が起きず、いつの間にか部屋がゴミの山になってしまうので、絶対に座らないようにしている。

 

また、なぜ散らかるのか考えた時、「あっ!その場で元に戻せばいいんだ。」とある時気付いた。

 

当たり前の事だが、出したものはその場で必ず元に戻すことにしている。

 

3、カート

 

毎日ではないが、練習する。

 

正直、カートはお金がかかる。

 

数社のスポンサーがついていて、自社もスポンサーになっている。

 

技術より、高価なエンジンを積んでいる方がスピードアップ出来ると言っても過言ではない。

 

その甲斐あって、2010年のカートレースでは優勝した。

 

お金をかけた結果か?


三間雅文
三間雅文
中央
三間雅文
本人右上

 

◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

 

斯波 重治(しば しげはる)氏

 

ジブリ作品の音響監督をしていた方

 

「風の谷のナウシカ」や「となりのトトロ」の担当をした方。

 

フリーになった時、一つのやり方しか知らなかったので、少し不安になり、他の人はどうしているのか知りたくなった。

 

そこで、数人の音響監督に電話して「ディレクションを見せて下さい。」とお願いをしたが殆ど断られた。

 

当時は既に、自分の番組を持っていたので、一人前なのになんで?と思われたのだろう。

 

その中で、斯波さんは「いいよ、いいよ見に来なさい。」と快く承諾してくれた。

 

行ってみると、スタジオは物凄く活気に溢れていた。

 

しかし、アニメ作品の動画が画面に出た時、殆ど線画だらけだったので「こんなんじゃダメだ!」といって、そのフィルムをゴミ箱に捨ててしまった。

 

アニメのアフレコというと、出来上がったカラーアニメーション画像をみて声優さんが声を拭き込むことを想像される方が多いと思うが、全く違う。

 

線画とは、白黒で、人の顔が丸書いてちょんちょんといった落書きのようなものになっている。

 

その線画でも作業を進めるのが当たり前だと思っていたが、斯波さんは違った。

 

「三間君、折角きてもらったのに悪いね。今日は終わり。また今度きて。」と言われ、その日の作業は中止。

 

しかし、声優さんには作業は無いのに1日分のギャラを支払う。

 

良い作品をつくるためにそこまでするのか!と衝撃的だった。

 

音響監督は、音楽をつくりアニメに合わせるだけでなく、アニメ監督の意向をくみ取り、声優さんに伝える役目もする。

 

その時、斯波さんは心から湧き出る声にするため、声優さんに感情のもっていきかたまで丁寧に指導。

 

これによって仕上がった作品の臨場感が違ってくる。

 

同じ作品、同じ声優さんでも、音響監督によって変わってしまうのだ。

 

後日、斯波さんの作品づくりに同席させてもらったとき、「今まで私の10年はなんだったんだろう?」と思う程、驚いた。

 

更に人の良い斯波さんは、仕事が終わった時「三間君、ご飯食べない?」と、スタジオ内にあるレストランに。

 

すると、ちぢれ具合がどうみてもインスタントラーメンにしか見えないラーメンとおにぎりが出て来た。

 

しかし食べてみるとこれが美味しかった。

 

「斯波さんの門下生になろう!」と思った。

 

だが、その2カ月後、斯波さんに入社の希望を伝えると、最初に「困っているんだ。」と切り出し、「これから言う事をしっかり受け止めてほしい。

 

今回は残念だったという事で。」と言われた。

 

他にもう一人入社を望んでいる人がいて、その人は人から頼まれたし、頼むということは他に行くところがないとも解釈できる。

 

しかし、「君はひとりでもやっていけると思う。」ということだった。

 

入社を希望する前に斯波さんは、私の作業しているスタジオに、プラッと現れ、仕事を見に来てくれた。

 

嬉しさと共に物凄く緊張したが、多分その時に判断されたのかも知れない。

 

この励ましとも慰めともとれる話のお陰で、もの凄く悔しかったが、なんとか自分を言い聞かせる事が出来た。

 

更に、その年の忘年会にも呼んで頂き、「ファミリーだから」と私の事を言ってくれた。

 

とても嬉しくて忘れられない思い出だ。

 

一緒に仕事は出来なかったが、斯波さんの影響はかなり受けていると思う。

 

声優さんとお芝居を一緒に考え、案を出し合うことも楽しく、この仕事が最高だと思っている。

 

 

◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 

「ステキ」

 

ステキと言われた人が喜ぶ言葉だと思うし、言った方も嬉しくなる。

 

「あなた素敵ですね」なんて、面と向かってオベンチャラでなく本気で、しかも自然に言えるようになりたい!

 

 

◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

 

1、会社を辞めてフリーになった時

 

「井の中の蛙大海を知らず」だったので、外の世界が見たくなった。

 

そのお陰で、今がある。

 

2、斯波さんとの出会い

 

衝撃的な開眼だった。

 

この出会いがなかったら今の私はない。

 

 

◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

 

挫折感はあまりないが、音響の世界に入る時、親に反対された事と離婚。

 

あんなに反対されたが、「風が吹くとき」という作品から父が認めてくれるようになった。

 

イギリスの原爆を題材にしたアニメ作品で、老夫婦しか出て来ない。

 

物語は、原爆投下時、老夫婦が政府のパンフレットに従ってつくったシェルターの中にいた。

 

「ピカッって光ってたけど助かってよかったね。」と原爆の放射線の恐ろしさを知らない老夫婦は安堵する。

 

政府が助けに来てくれると信じてまっているが、次第に体が蝕まれ衰弱していく姿が描かれている。

 

この作品が日本で上映された時は、大島渚監督、森重久弥氏と加藤治子氏が声を担当し話題となった。

 

本来なら、映画の最後に流れる、出演者やスタッフ、スポンサー等のフリップだが、この作品は海外作品ということもあって、オープニング前に音響スタッフの名前が出された。

 

それもペイペイだった私まで・・・。

 

それを見て両親は喜び、父が「お前も一人前だな。」と認めてくれた。

 

また、ポケモンを担当し始めたら、小学校の教員をしている母は喜び、私が自慢の種になったようだ。

 

下敷きや消しゴム等ピカチューグッズを持って来てと、よく頼まれた。

 

更に、母が癌で入院した時は、ピカチューのボールペンを看護士さんに配って私の話をしていたらしい。

 

お見舞いにいったら、看護士さんたちの胸ポケットからピカチューが顔を出していた。ちょっと恥ずかしい気持ち・・・。

 

それと、アフレコをしている時気付いたことがある。

 

アフレコは、声優さんたち25人くらいが2列の椅子に座って出番を待つ。

 

私は台本をもって前に立ち、担当のシーンにくると声優さんをマイク前に促し指揮をする。

 

その時、「あれっこの動作は、まるで教室で教科書を持ち、教壇に立っているかのようだな」と思った。

 

更に、声優さんたちに「あっ先生が来たっ!」等と言われる事も。

 

なんだかんだ言ってもDNAを引き継いでいるのだと思う。

 

両親は亡くなってしまったが、教師にならず、この職に就いたことを今ではきっと喜んでくれているだろう。

 

 

◆夢は?

 

夢はつかめないもの?

 

ただ目標としては、もっともっと多くの良い作品に出会いたい!

 

一つ一つのアニメ作品は世界観が全く違う。

 

例えば、「黒子のバスケ」は10年に1人の天才が5人同時に存在し無敗を誇る、奇跡的な内容だが、「はじめの一歩」は、ボクシングを題材とし、プロボクサーとして、人として成長していく姿を描いている。

 

また、「進撃の巨人」は、人間達が巨人に襲撃・捕食される残酷な描写が多く含まれる。

 

それぞれ今までの自分にはないものを、同時進行で手掛けているので物凄く刺激が多い。

 

それぞれスタッフ、役者さんも違うので、様々な人との出会いも楽しみだ。

 

これからも仕事を通して、素敵な作品や人と出会いたい。

 

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