株式会社KDDIウェブコミュニケーションズ
元Jimdoカントリーマネージャー
駒井健生氏
2013.9.26 15:00
◆業種
ITサービスプロバイダー
◆子供のころになりたかったものは?
サッカー選手
3つ上の兄の影響で、9歳の頃から始めた。
キャプテン翼が流行っていた頃で、その影響もあったと思う。
小学校4年生から、父の転勤によりアメリカのケンタッキー州で3年間過ごしたが、その間もサッカーは続けていた。
中学からJリーグが始まったこともあり、帰国後も続けていたが高校の途中で諦めた。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
辛くても1日1回は、笑顔をつくる!
出社時と退社時に駅から会社の間でする。
24歳頃から8年間続けている。
当初は営業職についており、難しいことがあると、つい険しい顔になってしまう。
しかし、険しい顔をしていれば人は近寄りがたい。
また街中にはお客様もいて、外で険しい顔をしている担当よりも、笑顔の担当のほうが印象がよいので。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
・会ったことのない二人の祖父
1、父方の祖父
戦前に、単身、船でアメリカに渡った。
石川県の金沢出身で、アメリカで何をしたかはわからないが、一山当てて帰国したらしい。
更に、どんな経緯があったのかわからないが、帰国後、財閥系の銀行支店長になり、京都に500坪の豪邸を建てた。
執事のいる生活をしていたが、父が幼いころ、銀行を辞め起業をしたら大失敗。
家は小さくなったが、末っ子の父を含め5人の子供を立派に育て上げた。
そんなダイナミックな祖父の話を聞いて、そのDNAを引き継いでいるのなら、大抵のことは何とかなるだろう!と思えた。
2、母方の祖父
祖父は、母が幼い頃に亡くなり、母子家庭となっても祖母は働くことなく生活ができたという。
日常の買い物は、魚屋さんや八百屋さんが御用聞きに来るので、母親が「魚屋は来てくれるもの」と誤った常識を身に付けるような生活だった。
祖母は、祖父の残したいつくかの山を売って、今までどおりの生活していたというが、子供たちが成人するころには、とうとう尽きたらしい。
そんな祖父たちの血も引いていることが、今も励みになっている。
・奴隷制度開放をしたリンカーン
アメリカで人種差別を体験したから。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「一つ上の上司になった気持ちで仕事をしろ!」
もし上司だったら、今の自分をみてどう思うか?また、どのようにアドバイスをするか?そう考えると、自分の悩みが小さく見えてくる。
また、こうすれば良い!と気づける。
更に、自分が上司になったときのシミュレーションも出来る。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、小学校4年生から3年間、アメリカで生活したこと
小学校の高学年は、日本語の基礎を学ぶ時期。
その期間をアメリカで過ごしたことで、良い事も悪い事も経験した。
良い事は、帰国後も英語を忘れずに使えた事。
小学校の低学年より小さければ、帰国後は英語を忘れてしまいがちだ。
悪い事は、日本語が中途半端になった事と、最初は言葉が全くわからず、人種差別もある中で寂しい思いをした事。
ケンタッキー州には、トヨタの大きな工場があったので、日本人が多くいる学校に入ることもできたと思うが、両親は一番近場の普通の現地小学校を選んだ。
英語が全くわからないのに、いきなり授業が全て英語になり、学校では何も理解することも話すことも出来ない環境に置かれた。
1年たっても言葉はよくわからなかった。
お陰で表情を読み取る力がついた。
言語が必要ないサッカーや体育の授業を通して一つ一つ覚えていった。
だんだん友達も増え、日常会話ができるようになると、友達の口から「ジャップ」という言葉が飛び出して「しまった」という顔をされたこともあった。
その子に悪気はないのだろうが、人種差別の風習が根強く残っている地域で、子供ながらに「あー影では言われているんだな。」と思った。
学校では、白人も黒人も一緒だが帰宅後は一切、一緒に遊ぶところを見たことはなかった。
馴れない環境に、陰では心配してくれていたと思うが、子供の頃から、男兄弟二人でいたずらを沢山しても、自由にさせてくれた両親。
父が落第しない程度に宿題を手伝ってくれたが、必要以上に口を挟むことはなかった。
お陰で、自ら色々と経験し学ぶことが出来た。
2、中高で味わった不条理
中学から授業で英語を学ぶのだが、正直最初の頃は、学ぶものが何もなかった。
しかし、英訳をする際に、教科書通りでなければ間違いとされる。
アメリカでは別の表現を使っていたのに!認めてもらえない。
「間違っていないのに!」と、納得できないものがあった。
アメリカは結果をだせればやり方は自由だったので、日本の、理屈なくこれはこれ!と決めつけられ、決まったものを覚えるだけの学校教育には違和感があった。
中学、高校はどちらかというと我慢の日々だった。
だから、大学はカナダで学び、卒業後、就職は日本でした。
3、人形町の交差点で先輩に偶然出会ったこと!
26歳のある日、カナダの大学の先輩に人形町の交差点でばったり会った。
先輩はレンタルサーバーの会社で仕事をしているという。
日本に帰ってから一度も連絡をとったことがなかったが、「一緒に仕事をしよう!」と誘ってくれた。
その後も、2、3回飲みに行き、その度に誘ってくれた。
3回目の時、新しいサービスが始まることを聞き、これは面白そうだと思って転職した。
その新しいサービスがJimdoで、誘ってくれた先輩は、KDDIウェブコミュニケーションズの現副社長。
それまで私の仕事は営業職で、新卒の頃は訓練のため飛び込みもしたこともある。
自分から行かないといけない仕事だった。
オンラインビジネスは、ネット上でのやりとりだから、全く人と話さなくてもできる。
更に、人為的な営業は殆どなく、ユーザーに対してどちらかというと受身だ。
当時は、100名足らずの小さい会社だったが、真逆の仕事に興味が沸いた。
ただし、無料のサービスであるJimdoは、宣伝活動も無料ですることになり、広告の予算はなかった。
運良く「ツィッター」が流行りだしたところだったので、そういったコミュニティーサービスを最大限に利用し、母体のレンタルサーバーCPIの広告やイベントに便乗させてもらった。
また、ラッキーなことに、2009年から2010年にかけて、「10分でできるホームページ」という本がたまたま出版された。
クラウドコンピュータの商法活用ガイド本のようなもので、JimdoやFacebookが取り上げられていたのだ。
これに便乗!今ではベタな方法だが、「ツィッター」でこの本を抽選でプレゼントすると告知し知名度を上げた。
その後も、Jimdoの利用者がノウハウ本を出版するなどで、更に口コミで広がっていった。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
アメリカでの経験
言葉はわからないのでコミュニケーションが成り立たない上、人種差別があり、なかなか友達ができなかった。
常に教室では一人ぼっち。
しかし、ある事をきっかけに人を集めることができた。
武器になったのは日本のおもちゃだ。
ラッキーなことに、クラスに一人、日本語を習っているという日本贔屓の子がいた。
しかし、ほとんど喋れない。
その子に「ガンダムのカード」を見せると、たちまちクラスの注目が集まった。
カード欲しさに、昔の5セント硬貨(銀貨)と交換してくれという子も出てきた。
他の子も色々と交渉してきて、かけ引きを覚えた。
ガンダムのカードにはポイントがあり、ポイントに応じて金額も変化。
最高取引は1800年台の1ドル銀貨。
当時の日本円にして15,000円程度の価値だ。
他にも、スーパーファミコン等は、日本の方が早く、「なんでお前はそんなのもってんだ!」と、お互いの家に遊びに行くようになった。
夏休みなどに一時帰国した際は、カードやゲームを仕入れ、コミュニケーションツールとした。
きっかけは何でも良い、もっているものは何でも使えば良いことを学んだ。
お陰で友達も増え、言葉も覚えることができた。
◆夢は?
幸せに生きること!
なるべく世界平和。
一人ではどう頑張っても難しいし、そんな器ではないが、関わる人は幸せにしたいと思っている!
株式会社KDDIウェブコミュニケーションズ
http://www.kddi-webcommunications.co.jp/index.html
Jimdoチーム
http://jp.jimdo.com/about-1/jimdo%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0/
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