株式会社ウォッチ・ホスピタル
代表取締役
一級時計技能士
北川直樹氏
2013.11.19 14:00
◆業種
時計修理サービス
◆子供のころになりたかったものは?
プロ野球選手
小学生の頃は阪神ファンで、どこにでもいる野球少年だった。
ところが中学一年の時、急性腎炎を患い入院を余儀なくされた。
退院しても安静にしていなければならず、お医者さんから運動厳禁と言われてしまう。
もちろん部活や体育なども全面禁止。
スポーツが出来なくなって、勉強に力を入れるようになったが、元々じっとしていられるタイプではなかったのでお医者さんから運動して良し、と言われるまで約3年間かかった。
高校からスポーツが解禁となったが、走ろうとしても体が走り方を覚えていない。
3年近く走っていない人間が、いきなり走ろうとしてもうまく体を動かすことができないのである。
想像することもないかもしれないが、これはこれで良い経験だったと考えている。
そんな状態で、ずっと野球・サッカーを続けて来た同級生と一緒に部活をするのは難しいと考え、陸上部に入って一から体力をつけ直し始める。
その頃、家族で海外旅行に行くことになった。
すると母が「身に付けるもの、そう!良い腕時計を一つ持ってるといいわね。」と言い、海外ブランドの腕時計を買ってくれた。
今からすると大して有名な時計ブランドではないのだが、デザインが気に入って学校にもしていくようになり、嬉しくて、とても印象深い思い出となった。
それから時計に興味を持つようになり、大学生になったときに自分でスポーツウォッチを購入。
その後も値段の安い時計を買っていたが、父親が海外へ仕事に行くとき、免税店でスイスの有名ブランドの時計を購入。
アルバイトをしてコツコツ返済した。
完済したときに感じた、自分がこんなに高い時計を持っている、という喜び、嬉しさは今でも覚えている。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
10年日記を付ける。
今年は7年目で、起業した年から続けている。
一日数行の短い日記だが、過去の年の同じ日に何をしていたかがわかるので、自分の成長具合を日々確認できて面白い。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
稲盛和夫氏
一人で起業したので、何かと人脈や情報が欲しかった為、異業種交流の朝食会に入会。
そこで知り合った先輩から、稲盛和夫氏がボランティアで主催している経営塾である「盛和塾」に誘われた。
当時は起業したものの、中々プラン通りには行かず殆ど無収入の状態が続いていた時だった。
オブザーバーで参加した「盛和塾」の勉強会に参加している塾生の熱意に圧倒され、この素晴らしい場に自分もぜひ参加したい、とすぐに感じたが金銭的に難しかった。
年会費8万円のほかに機関誌を全巻そろえると5万円。計13万円を出すことができなかったのだ。
稲盛氏の著書は以前から読む機会があり、中でも印象深く残っているのが「稲盛和夫の哲学―人は何のために生きるのか」である。
「良い事を考えて、良い行いをしていれば必ず良くなる。」と書いてあった。
経営・人生とは直ぐに結果が出ないかも知れない。
しかし、「良い事を考えて、良い行いをしていれば必ず良くなる。」という言葉を信じた。
また、その本の中には、「たとえ身内が傷つけられても相手を恨むな。」と書いてあった。
恨んだら、恨まれ、繰り返される。
とんでもない不幸な目にあったのは、もしかしたら過去世の自分や、ご先祖様が何か悪い事をしていたかも知れない。その業がこの不幸で消えるのならかえって喜ぶべきことである。
世の中は、全て帳尻が合うように出来ていると書かれていた。
何故かとても腑に落ちた。
自分の向かうべき方向性が明らかになったようで、とても勇気付けられた。
起業して8、9カ月頃から、順調に業績も上がり「盛和塾」にも入塾することができた。
まだまだ学ぶことばかりで現場でもがいている状態であるが、この縁がなければ今頃もっと右往左往している自分がいるのは容易に想像がつく。
自社では、毎週水曜日の朝8時から「京セラフィロソフィー」(京セラの哲学をまとめた本)の輪読会をしている。
新しく人を雇用する際の面接でも、この輪読会に参加できるかを聞いている。
技術も大事だが、考え方を大切にしたいからだ。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「一燈照隅 万燈照国」(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこう)
月刊誌「致知」を読んでいて出会った言葉。
一つの灯りは隅しか照らせないが、万の灯りは国全体を照らすことができる。
一人一人が自分の今いるところを照らせば、全体が明るくなる。
私にできる事、時計を一生懸命直すことに専念し、人を育てる。
会社の中で、同じように自分を照らせる仲間が10人20人と集まっていけば、社会を明るく照らす事ができるからだ。
その他にも、安岡正篤氏の言葉等、月刊「知致」という人間学を学ぶ雑誌を読んでいると心に響く言葉がたくさんある。
この本との出会いは、起業当初。
事務所にしていた、埼玉のレンタルオフィスビルの受付に置いてあったものをふと手にした事がきっかけだった。
2、「与えられた環境で学ぶ」
父の言葉。
大学を卒業して、就職した先で配置換えがあった。
時計の技術者になりたくて、それだけを目指して就職したのに、営業にまわされることになった。
営業といっても、百貨店等の時計売り場で時計修理を請け負う仕事だ。
しかし、時計修理技術者になりたいという思いが強く素直に納得できなかったため、会社を辞めたいと父に相談した。
すると父は、やってもみないで辞めるのはどうかと思う。
続けることは大変だが、辞めるのは簡単だという。
「与えられた環境で学ぶ」ことも大事だと教えられた。
あれほど「辞めたい」と思っていたのに、このときの父の言葉はとても素直に聞けた。
父は薬剤師で、調剤薬局を営んでいる。
私は男兄弟3人の長男だ。
両親は、理想もあっただろうが、子供の頃から兄弟各自のやりたい事を尊重してくれた。
そんな父の言葉だから、素直に聞けたのかも知れない。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1995年1月17日 神戸大震災
私はこの時、大学生で神戸にいた。
時計が好きだったので、時計店でアルバイトをしていたが、その店の入居していたビルは倒壊し、当然のことながら私は職を失った。
今はアルバイトだから良いが、これで生計をたてていたら大変だ!と思った。
手に職をつけておきたい!
学部は経済学部だったが、時計の技術者になることを決意。
時計修理の会社に絞って面接に臨んだ。
最初に内定が出たのが埼玉の会社だった。
そこに就職をして、10年以上たった頃、会社の方針で配置換えがあった。
お客様と直接話す機会も増え、多くの要望があることを知った。
今の会社のようなビジネスプランを考え、当時勤めていた会社に企画書を提出したが、新しい事はあまりしたくないとの事だった。
しかし、どうしてもやってみたくて仕方がない。
そこで、色々考えた挙句、自分で起業することにした。
今度は父も反対しなかった。
妻も「まあいいでしょ。」程度に賛成してくれた。
一人で起業という、思い切った行動に出られたのも、神戸大震災を経験したことが大きく影響していると思う。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
起業当初から8、9ヶ月無収入だった。
妻子もいるのに、貯金を食いつぶす毎日だった。
どうやったらお客様から連絡をもらえるか?日々工夫をこらした。
まずは、ウェブサイトを作って情報を発信し、フリーダイヤルにして電話を掛けやすいようにした。
お客様に安心感を与えるため、銀座の住所で登記できるバーチャルオフィスサービスを使用した。
また、送料を無料にした上、お客様の手間を省くため、宅配便をこちらで手配し、集荷に伺う仕組みとした。
知恵を絞り、考えられる事、出来る事は全てしたところ、だんだんとお客様が増え、今では神田と京橋(東京)の2店舗を順番に出店することが出来た。
今月(2013年11月)の25日に、3店舗目が日本橋人形町にオープン。
「良い事を考えて、良い行いをしていれば必ず良くなる。」という言葉を信じ、実践しようとしてきたからこそ今があると思うが、まだまだ未熟な自分がいるので、これからも毎日を大切に過ごしていかなくてはならないと考えている。
◆夢は?
時計修理専門店を全国展開にする!
正々堂々と一番になりたい!
まずは、都心中心に集中的に出店していく。
自分が自転車で回れる範囲から店舗を増やしていく。
時計修理の資格は国家資格で、今では時計修理の専門学校も存在する。
ニッチで専門性が高いため、誠実かつ真剣に応対すると「思い出の時計が蘇った」とお客様に喜んで頂く事も多い。
時計修理の技術やスキルよりも、仕事や人生に対する取り組み方こそ大事とかんがえて経営しているため、現在は、畑違いの人材も多く入社してきている。
正しい考えを持って一人一人が成長し、立派な会社にしたいと考えている。
ウォッチ・ホスピタル
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