株式会社CAR GRAPHIC
代表取締役社長
加藤哲也氏
2013.9.2 10:00
◆業種
出版業
◆子供のころになりたかったものは?
F1レーサー
7歳の頃、父に連れて行ってもらった富士スピードウェイを見て憧れた。
父は大正15年生まれ、車や電化製品、カメラ等が好きで、当時珍しかった自家用車も所有していた。
しかし、自分で買った訳ではない。
結婚を機に、麹町で食堂を営む祖母を手伝うことになり、「魚河岸に行くため」という名目で買ってもらった。
父はサナトリウム(結核の療養所)で療養していたことがある。
療養中は、着流しで粋に院内をあるいていたので、皆が「あの人はヤクザだ。」と噂していたらしい。
父と母は、そのサナトリウムで知り合い、退院後に結婚。
退院直後、無職で所帯を持つわけにも行かず、祖母の食堂を手伝うことになったらしい。
私の子供の頃は、テレビでウルトラQが始まったばかり、多くの子供たちが夢中になったが、私は車以外に興味がなかった。
近所には、車好きで同じ年頃のいとこが二人いたので、当時三種類あった車雑誌を各自一冊ずつ購入し、皆で回し読みした。
カーグラフィックはその頃からの愛読書で、値段も少し高かったが、ズバ抜けて洗練されていた。
また、麹町、半蔵門界隈で育った私の近所には、力道山などの有名人が車を修理に出す板金屋さんがあり、雑誌に出てくるような高級車を生で見ることができた。
また、イギリス大使館に務める日本人の子供たちとも友達なので、当時の日本では考えられないような凄い外車を見る機会にも恵まれた。
そんな環境からF1レーサーを夢見て毎日を過ごしていたが、高校生にもなると現実的に考えるようになった。
そんな頃、ベルナルド・ベルトルッチの脚本・監督による映画「暗殺の森」を見て痺(しび)れた。
物語もさることながらハリウッド映画とは違う映像美がとても衝撃的で、「映画監督になりたい!」と考えるようになった。
実は父も演劇青年で大学時代は演劇部、プロレタリア演劇に夢中で、実際にも、ターザンの声優をしたことがあるらしい。
血は争えないもので、私も大学は芸術学科で演劇を先行。
卒業後は演出家を目指したが、日本の映画はまだまだ外国の映画とは比べ物にならず、自分のやりたいこととは違うと思った。
だったらテレビドラマの方が良いと思い、テレビ局を受けたが入れず、フリーランスで番組制作会社の仕事をした。
ところが時代はお笑いブームに突入。
ドラマの仕事は激減し、ドキュメンタリーの制作に携わった。
アラスカのオーロラを撮影するため1ヶ月滞在したこともある。
アラスカ大学と交渉して研究所内で、撮影チャンスを待った。
外は夜が長く続くマイナス30度から40度の世界。
撮影チャンスが来ると、極寒の中ダウンを着込んで撮影しに行く。
ところが、一ヶ月のうち一日だけマイナス17度の日があった。
すると、ダウンなんか来ていたら暑くて仕方がない。
数日で環境に順応する「人の体は凄い!」と思った。
しかし、ドキュメンタリーも一年で終了し、バラエティーに配属された。
どんどん自分のやりたい事と違って行き、転職を考えるようになった。
モチベーションも下がり、テレビの仕事は大所帯なのでグループワークにも疲れていた。
そんな頃、カーグラフィックを見ているとスタッフ募集とあり早速応募した。
カーグラフィックは、編集者の顔が見える雑誌だ。
最終面接では、幼い頃から雑誌の中で見た顔ぶれが並んでいて興奮した。
ところが結果は不合格。
納得が行かず、創刊者で当時編集長だった小林彰太郎氏に電話した。
すると、会社の1階にある喫茶店で会ってくれ、倍率は1/200で、最終選考で残った二人のうちの一人だったと教えてくれた。
しかし最終面接時、カーグラフィックはテレビに進出する予定だが、私が「テレビの仕事はもうしたくない。」と言ったので、採用されなかったと知った。
その後、カーグラフィックが実際にテレビ放映されたものを見たら、あまりに酷い出来だったため、たまらずまた小林氏宛に電話をした。
率直に「ひどいですねぇ。」と告げると、また会ってくれ色々な話をしたが、採用の話は出なかった。
暫くしたある日の夕食時、妻が「そういえば会社を辞めたいと言っていたけど、あの話はどうしたの?」と聞いてきた。
「あーあれね、明後日が僕の送別会なんだ。」というと、妻が急に怒り出した。
妻は、会社をやめることを快く思っていないとわかっていたので伝えられずにいたのだ。
大喧嘩の真っ最中、一本の電話が鳴った。
出るとカーグラフィックからで、編集者に空きが出たが、まだうちで働く気があるか?というではないか!
私は二つ返事で「あります!」と返した。
夫婦喧嘩も収まり、カーグラフィックで働くようになった。
実際に働いてみると、雑誌の世界観は、映像の世界観と似ていて、写真の配置や、配色等、動きのある紙面作りは面白くやりがいのある仕事だった。
好きな車に携われ、学んだ映像を活かせる職業に就けたことに感謝している。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
朝起き抜けにオリーブオイルをキャップ1杯飲む。
ダイエットのためではあるが、新陳代謝が高まる効果があるそうだ。
また健康のため、バナナ、プチベール、ヨーグルト、牛乳のスムージーと、コーヒーを2杯を必ず飲む。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、小林彰太郎氏
カーブラフィックの創刊者で、フリーのジャーナリストでもある。
とても憧れで、彼のようになりたいと思う。
東大出身で現在83歳であるが、日本的でなく、英国の影響を強く受けた人。
昭和の初期から、日本の雑誌に飽き足らず英国の雑誌を愛読していたという。
1962年の創刊誌には、メルセデスベンツ300SLを掲載。
メルセデスベンツ300SLは、ドアが上に開き、カモメの羽のようなスタイルになる「ガルウイング」で、今で言うならスペースシャトルのような存在だった。
それだけ最先端な車を掲載していたという事。
それ程、カーグラフィックという雑誌は異彩を放ちグローバルでありながら、ローカルな魅力があった。
子供の頃は、カーグラフィックの雑誌を通して世界を見ていたようで、車を見ているとその国の土地の形状や風習、文化や国民性までがイメージ出来た。
お陰で、今でも車雑誌として世界で評価されている。
2、宮川秀之氏
イタリア人の妻とイタリアに住み、日本とイタリア産業界の架橋になった人。
この人がいなかったら、今の日本の産業界はない。
とても貢献した人と言える。
著名な天才工業デザイナー「ジョルジェット・ジュージアロ」と板金技術者アルド・マントヴァーニと共に、車のデザイン会社「イタルデザイン」をイタリアで創業した人。
ジュージアロの作品には、いすずの117クーペやフォルクスワーゲンゴルフ等、名高いものが多く、宮川氏は「世の中を変えていく快感があった。」と言う。
憧れの存在。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「フィクションを撮っているつもりはない。俳優たちが目の前で演じているドキュメンタリーを撮っているのだ。」
ベルナルド・ベルトルッチ監督の言葉
ベルナルド・ベルトルッチ監督の発想に共感した。
写真の構成は、1つのストーリーの組み立て方と同じで、連続でつくるセオリーがある。
動く絵と止まっている絵の違いで、表現のセンスは同じ。
嘘は伝えない!私もドキュメンタリーを撮っているような感覚で編集を心がけている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
挫折が転機
コンプレックスが私をここまでにしてくれた。
大学を卒業した時、イタリアで学びたいと思ったが、父が亡くなり断念したこと。
演出家になろうと思ったがテレビ局に落とされたこと。
カーグラフィックで一度は不採用になったこと。
思い通りに行かない度に、よし!みていろ!「是非うちに来てください。」と頭を下げて貰えるような人間になるぞ!と思ったものだ。
それがまた原動力にもなった。
そして、思い通りに行かないことがあったときは、ドアをノックする事を学んだ。
カーグラフィックに落ちたとき、小林彰太郎氏のドアを叩いたから今がある。
ドアを叩き、自分の思いを伝えないといけないと思う。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
2010年、創刊48周年の時、カーグラフィックが廃刊になりそうになったこと。
あと2年で、創刊50周年なのに!
どうしても、子供の頃からの愛読書でもあるカーグラフィックを存続させたかった。
資本の問題だったので、ある人に相談すると「残そうよ。」と資本提供してくれた。
更にその後も、他の人のご縁で、小学館が属する一ツ橋グループの傘下に入ることが出来た。
何か問題が起きると、才能や能力のある人にめぐり合う。
チャンスに恵まれ助けてもらえる。
とにかく「ついてる」と思う。
実は、遊び仲間に凄いバックグランドがあるとか、商談に行ったら知り合いだった等ということがよく有り、とても良いご縁に恵まれる。
とてもありがたい事と感謝している。
◆夢は?
世界に向けて情報を発信したい!
カーグラフィックは、世界でもビジュアルのクオリティ評価が高いが、今はまだ日本語版しか発刊されていない。
現在、海外に向けては各自動車会社が独自に訳して配布しているだけなので、今後は各国で発刊し、カーグラフィックを世界のメジャーブランドにしたい!と思う。
株式会社CAR GRAPHIC
http://www.cargraphic.co.jp/
コメントをお書きください