有限会社ビューティフルライフ
代表取締役
田中晃一氏
2012.9.25 11:00
◆業種
福祉理・美容事業、理美容サロン経営、福祉機器・商品の企画開発販売
◆子供のころになりたかったものは?
野球選手
幼少の頃から、いつも一番でないと気がすまないタイプだった。
ジャングルジムも自分より上に友達が立つと、容赦なく引きずり下ろした。
そんなガキ大将も、小学生になると甲子園に憧れ少年野球に没頭した。
6年生になり、学校でも相変わらず自由気ままに仕切っていたが、一人だけ自分に逆らった友達がいてケンカになった。
少年野球では、狙い通り「4番ショート」のポジションを獲得!高校は大分商業に行く!と決めていた。
ところがその決定直後、鍛えすぎたためか、心臓に問題が起きた。
突然高熱が出て2ヶ月間の入院を余儀なくされ同時に、甲子園の夢は絶たれた。
子供の小さな心臓の周りに、筋肉が付き過ぎて負担がかかってしまったためだった。
大人になって心臓が大きくなれば自然に治るということだったが、運動自体しばらく出来ない。
そんな時、真っ先にお見舞いに来てくれたのは、自分に逆らった友達だった。
入院中の大分市内の病院までは遠く、汽車に乗らなくてはならない。
子供一人では来れないため、どうしてもお見舞いしたいと母親にお願いして来てくれたそうだ。
自家用車もない時代だ。
この時、本当に人の暖かさや有り難味を味わった。
高校生になった頃、祖母も両親も理容師だったことから理容師になることを決意。
理容を営む家族の姿を見て育った環境が影響したのか、会社に勤める考え方は選択になかった。
自分がした仕事で喜んでもらえる、直接お客様の顔がみえる調理師か理容師と考えていたからだ。
高校に通いながら、通信で理容学校に通うことにした。
高校卒業と同時に理容学校も卒業し、両親が選んだ県内で一番厳しい理容店へ修行に入った。
そこで5年間お世話になり、実家の理容室を手伝うことにした。
田舎での営業は朝が早く、朝6時位に店を開けお客様を整髪し、夜の8時には家を出て技術向上のため往復2時間以上かけて他店へ出向した。
更に、コンクールなどにも積極的に参加し腕を磨いた。
数多くの賞をいただき、25歳の時には大分県大会で優勝、全国大会にも2度出場した。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
パソコンで資料づくり
パソコンを始めたのは1年程前。
きっかけは、東日本大震災時に弊社で開発した多機能(理美容)車椅子と移動シャンプー台を持参しカットやシャンプーの提供を行ったことです。
ライフラインが寸断した避難所もあったが、移動理美容車や移動式の製品によりどこでもサービスを提供ができ、22避難所を訪問し約700名の被災者へ提供し大変喜んで頂きました。
理美容の技術やサービスにより、何とか被災地支援をしたいと思ったからだ。
阪神や新潟での理美容ボランティアの経験を活かし、開発した製品を持参することでお役に立つはずだと考えて被災地に向かったが、理美容師のボランティアを集めるはずの連携者が集めておらず現地で途方にくれた。
計画性がないといえばそれまでだが・・・道具はあるが人がいない。
何とかしたい!お役に立ちたい!
あらゆる、友人や知人・美容組合・・・地元ラジオや新聞と連絡し声をかけた。
結果、54名が集った。
全国各地より集った理美容師や被災にあったにも関わらず参加いただいた地元理美容師、さらに地元で知り合った居酒屋や異業種等の方々・・・水の運搬や、髪を乾かしたりマッサージくらいは出来ると・・・参加していただいた。
活動状況を知り、大手企業(九州と東北)の社長が、現地ナビゲートや宿泊の支援、サポートする人材を派遣して頂いた。
その後、多機能車椅子は仮設診療所での診療椅子に貸出しお役に立てた。
支援に行った自分が、様々な方々・企業の支援を受けた感謝を記録し、行政との連携方法も含めた活動内容を報告書にまとめ、参加者や支援者へ伝える義務がある、この自分の伝えたいことを資料にするには自分で作るしかない!と思ってパソコンを始めた。
いつ起こるかわからない災害に対応するための活動記録をマニュアル化し、次世代に伝えるための資料として、感謝をこめて参加した方々に贈った。
今では、プレゼン資料や市場化した製品展示会の資料も自分で出来るようになった。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、祖母
祖母は、大分県で2番目に女性理容師なった人で物凄く働き者だった。
月に3日しか休まず、更に3日の休みのうち1日は老人ホームに散髪のボランティアに行っていた。
5歳くらいだった自分は、その祖母や両親についてよく老人ホームに行った。
目当ては、飴などのお菓子だ。
1人2,3個くれたとしても帰る頃には袋がいっぱいになる。
更に、皆が可愛がってくれるので、月に一度のワンダーランドだった。
その祖母が、一人の老人のためだけに、山を超え散髪に行く日があった。
ある時、不思議に思いなぜ山を越えてまで行くのか尋ねた。
すると祖母が「○○さんは、何十年もこの山を越えてばあちゃんのところに散髪に来てくれた。歩けなくなって来れないなら、ばあちゃんが行くのがあたり前だろ。」という。
その時は、自然にそうかぁと納得したが、よくよく考えると大変なことだ。
しかし、その祖母のお陰でボランティアすることが当たり前となって染み付いた。
その時の情景は今でも目に焼きついている。
同居していた祖母からは多くの影響を受けた。
この祖母のお陰で今があると思っている。
2、林英憲先生
人生哲学を教えてくれた。
ある日、知人が「君には必要だと思うから行ってごらん」と林先生のセミナーを紹介してくれた。
28歳の頃、自分の技術を磨くこと、従業員の教育、店の経営、ボランティア等について悩んでいた。
技術を磨くため競技に出てばかりいては社員教育や経営がおろそかになるし、納得のいく自身の競技練習が出来なくなった。
全てを自分でするには限界がある。
一人ひとりのお客様に喜んでもらえる仕事をする。
朝から晩までお客様が途切れない店にする。
地域で一番の繁盛店にするには何をすべきか。
目標が定まった。
土日には、お客様が20人~30人の順番待ちも珍しくなく、50人待ちになることもあった。
しかし、繁盛するほどに何か物足りない。
胸にポッカリ穴が開いたようだ。
理美容学校の生徒から、この店に入店すると殺されるとうわさになった。
何かが違う!自分の生き方に満足できないのだ!
その時、林先生から「自分のために生きること!」とは何かを教えられた。
それまでの自分は、これをしたら親がどうなるとか、弟夫婦がどうなるとか、家族のことばかりを優先していた。
ただ仕事に逃げていただけだ。
自分がやりたいことは何か?自分を改めて見つめ直すことができた。
そこから自分らしく生きることを決意、店の経営や社員との繋がり、社員の将来の保証など・・・生涯雇用ができる経営をしたい!
そのために、43歳でのゼロからの独立。
ボランティアから訪問理美容の事業化を行い、11年後の2012年を見通し、日本の高齢化に向けて店舗を含めた福祉理美容の「安全・安心・快適」なサービスの標準化を図りたいと願う自分に気づいた。
あらゆる人生の行動や指針・目標がかわった。
本当に感謝している。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「偶然はない!」
「出会いに感謝」
世の中偶然はない、全て必然だと思う。
多くの良い出会いに恵まれたことも必然。
28歳の時、色々悩み模索していた。
理容・美容関係の本を読んだり関係者の噂を聞いて、これはと思う人物に手紙を出して会いに行っていた。
業界内外含めて、今まで50から60人の人にあった。
皆、素晴らしい方々で多くのことを学ぶことが出来た。
また、現在もお付合いいただいている方や開発研究等の事業支援を頂いている方も多い。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、妻との出会い
妻とは、30歳の頃に知り合った。
負けず嫌いの自分は、従業員一人当たりの売り上げが70万円であっても、東京の店で100万円の店があると知ると負けてられないと思ってしまう。
東京と大分では物価が違うのは確かだが、言い訳はしたくない。
朝から晩まで一生懸命に働いた。
更に、繁盛店があると聞くと県内外どこへでも行ってみる。
その大分市内にあった繁盛店にいた美容師が妻だった。
一目見たときから輝いて見えた。
自分のために人生を送る!と決意した頃に知り合った人だ。
良き理解者であり協力者である。
店舗経営が軌道に乗り、自社ビルの建設や店舗数の拡大に力を入れていた頃、移動理美容をやりたいと家族に相談したら反対された。
福祉理美容のために約2,000万円もする移動理美容車を買うくらいなら、店舗を増やした方が良い、誰もやっていない事業での失敗の確立は高いと家族は考えたからだ。
そんなときでも、妻一人だけが賛成し支えてくれた。
今日まで、何があっても支えてきてくれた妻にとても感謝している。
2、福祉理容・美容事業に気づいたとき。
今から13年前、平成9年のときだ。
ボランティアや、結婚した従業員の復職、従業員の独立などに悩んでいたとき、みんなミックスして一辺に解決する策を思いついた。
結婚退職した人が、理美容業に戻ろうと思ってもブランクによりデザインや技術に自身がもてないなどの障害が出てくる。
更に、子供がいる場合は、働く時間帯についても制限がある。
また、従業員は、ある程度の年齢がきたら独立させてやりたいと思うが、中には心配な者もいる。
何よりも生涯雇用につながる!
介護施設や病院は、昼間の利用に限られている、技術力は当然だが最新のデザインより高齢者等への目配り気配りや、思いやりなどを含めた一人ひとりに合わせた配慮が求められる。
体力や免疫力の低下している方も多いからだ。
「これだ!」とひらめいてから直ぐに活動準備をはじめ、2年後にはこの事業で独立した。
このひらめきは大きな転機となった。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
1、
43歳で独立してから今まで、山あり谷ありで資金面でも大変なときもあった。
福祉理容・美容事業に力を注ぎたくて、代々引き継いできた理容・美容店を弟に譲り、自分は独立することにした。
裸一貫からのスタートだった。
ゼロからのスタートは、取引銀行も去っていった。
しかし、取引先の美容卸社長や支援者、何よりも1,000人以上のお客様が救ってくれた。
サロン経営や福祉事業は軌道に乗り、運営を社員に任せ自身は福祉機器やマニュアルの研究開発にのめり込んだ。
しかし、開発費の累積や任せていた幹部の独立などにより経営の危機が繰り返し訪れた。
それらの危機を救ってくれたのは、自分を信頼してくれたベテランや若手社員だった。
「先生は、間違っていない!私達が皆をまとめる!」とリーダーから言われた言葉がうれしかった。
困ったときに支えてくれる幹部社員もいた。
今いる全社員にとても救われた。
とことん本当にやりたいことに取り組み、「皆に喜んでほしい、笑顔が見たい!」その一心でここまでやってきた。
これからの福祉理容・美容に対する情熱に賛同、協力して下さる方が少しずつ増えたことで現在までやって来れた。
需要や期待も大きくやりがいもある。
平成12年の12月には厚生労働省に支援者でありお客様でもある議員に、訪問理美容の現状を訴え、働きかけ、「移動理美容車や出張理美容チームによる訪問理美容サービス」は、「福祉サービス又は保健医療サービス」として指定し適用する法律ができた。
介護福祉士等と同じ介護労働者として認められたのだ。
最近では、コツコツと多くの人に働きかけてきたお陰で、国や理美容業界の大手企業などの協力が得られるようになった。
◆夢は?
「日本福祉理美容安全協会」の立ち上げ!
病院や介護施設で散髪をする際の注意事項が学べるよう、大手損保会社や国立大学と組んで、職業訓練用の教材も作成した。
事故や感染を未然に防ぐ対策も必要なマニュアルだ。
理美容を受ける側もする側も、安全・安心でなければならない。
平成23年には、厚生労働省主催の職業能力開発論文コンクールではこれら対策方法をまとめ特別賞を受賞。
日本の高齢化に対応する「安全・安心・快適」な、福祉理容・美容をもっともっと多くの人に広めていきたい。
有限会社ビューティフルライフ
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