独立行政法人 情報通信研究機構(NICT)
未来ICT研究所 量子ICT研究室 室長
佐々木 雅英氏
2012.12.17 16:00
◆業種
博士(理学)
◆子供のころになりたかったものは?
「科学者になろう!」
小学校4年生の時そう思った。
担任が、理科の先生で好奇心を大いに刺激された。
生徒を山や川へ連れ出し、自然の中で教えてくれた。
また、教室の授業でもユニークな紙飛行機を作って説明してくれる等、とても興味を引き付けられた。
このような世界で一生を過ごしたいと思い、母親に聞くと、科学者になったらいいと教えてくれた。
中学になると剣道に夢中になったが、言われなくても物凄く勉強する子供だった。
なぜか、勉強をせざるをえない強迫観念みたいなものにつき動かされていた。
当時は物凄く勉強しないと高校に受からないと思っていた。
そして、一つ疑問があると納得するまで前に進めない性格で、先生を質問攻めにする毎日だった。
こだわるとそこから離れられないタイプみたいだ。
授業では毎日質問をし、席も一番前に陣取った。
成績もダントツで、先生からも褒められ達成感を味わうことが快感になっていたのだろう。
テレビも見ず勉強していたので、友達がテレビの話題で盛り上がっても会話についていけず孤立することもあった。
ただ元々、人が喜ぶような事を言ったり、人をモチベートすることは好きだった。
これは母のお陰だと思っている。
母の回りにはいつも人が集まり、ご近所の人が絶えず家に来ていた。
母は褒め上手で、みんな母に話を聞いてもらいたかったようだ。
母を見て育ったことは、今の仕事にとても役立っている。
というのも、研究をチームで遂行するためには、一人の閉じた世界ではなく、メンバーとよく意志疎通し個々の力を引出し、皆にチャンスが巡るよう調整することをが大切になるだからだ。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
研究
休みの日でも、勉強している。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
竹内均先生
※地球物理学者、東京大学名誉教授、理学博士、科学啓蒙家。科学雑誌『Newton』初代編集長。(ウィキペディアより抜粋)
高校3年生の春に、竹内先生の著書を読んで「将来、天文学をやりたい!」と思い、進む大学を決めた。
天文学部がある大学は限られていて、当時、日本には東京大学、京都大学、東北大学の3校にしかなかった。
高校へはダントツ一位で入学したが、入学後は少し気持ちが緩み2年間もなまけていた。
また、半年でも勉強すれば受かると思って舐めていたので、浪人することになってしまった。
仙台の予備校の寮に入り、勉強三昧の日々を送った。
その甲斐あって、翌年には東北大学に合格。
更に、天文学コースに入れるのは95名中、たったの5名。
狭き門だったが入ることが出来た。
ところがイザ勉強してみると、自分には向いていないと思うようになった。
銀河や宇宙全体を見るので、緻密な理論の積み重ねとは違ったのだ。
先生が「1イコール10だと思え」と言ったことが今でも忘れられない。
これは性に合わないと感じ始めた。
その一方で、量子力学に魅力を感じ始めた。
大学1年の頃、量子力学の最先端の授業を英語の教科書を使って教える先生がいて、全くわからないことが逆に面白くて不思議な世界に取り付かれてしまった。量子力学の奥深さに魅了された。
4年の時出会った物性物理学の先生は、凄く上手に才能を引き上げてくれる先生で、益々興味を持つようになった。
相変わらず質問ばかりしている生徒で、授業の終わり際でもかまわず手を上げ、他の学生たちからは「あー」と溜息が上がったが、先生は根気よく丁寧に教えてくれたことを覚えている。
大学院では理論物理学を専攻し、金属材料研究所で超伝導の研究をすることにした。
大学院の2年生になった1986年は、研究者の間で高温超伝導のフィーバーが始まった。
翌年は、小柴博士のカミオカンデで、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発によって生じたニュートリノの存在を、世界で初めて証明。
理学界は華々しい時代を迎えたが、厳しい現実もあった。
普通、大学院では最初の2年で修士号を取得し、その後3年で博士号を取得するのだが、東北大学大学院の物性物理学分野は大変厳しく、学位をなかなか取れないので有名だった。
更に、博士課程3年目に入ろうとする時期に、教授とアメリカに出張にでかけた際「あなたは今やっているテーマでは学位は取れませんよ。」と面と向かって言われてしまった。
これはかなわないなと思い、企業への就職を考えるようになった。
日本育英会の奨学金も切れることから、当時共同研究を進めていた企業から奨学金を出しもらえるよう交渉した。教授も「学力と人柄は保証する」と企業に推薦してくれたことは大変ありがたかった。
幸い博士課程4年目で何とか学位を取得することができ、1992年、そのまま奨学金を出してくれた企業に就職し結婚もした。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
地球物理学者、竹内均先生の言葉
※「夢を持とう。夢は大きければ大きいほどいい。
ただ今この瞬間から、その夢に向かって一歩を踏み出せ。
その一歩はどんなに小さくてもよい。
そして、その一歩を継続せよ。」
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1994年正月、新宿の紀伊国屋書店で偶然「スクイーズド光」という本を手に取り上げたとき。
玉川大学の広田修教授の書いたものだった。
研究者に戻りたくて悩んでいた頃のことだ。
一度は企業に就職したものの、直ぐに自分には向かないと思った。
辞めようと思い、推薦して下さった教授に相談すると、3日、3週間、3ヶ月、3年と3の倍数で区切って頑張りなさいと言われた。
ただ研究者に戻りたいという思いから、通勤途中にある大学の研究室を調べてみた。
専修大学、明治大学、玉川大学があったが、どの大学にも自分の研究したい分野は無さそうだと思っていた矢先、玉川大学の教授が著者とわかりとても感動した。
早速、本に書いてある連絡先に「ぜひ、お目にかかりたい!」と電話をすると、翌月の土曜日にお会い出来た。
広田先生は量子通信の研究をしているという。
研究者に戻りたいと話すと、「まずはセミナーにいらっしゃい」と言われた。
それから、毎週土曜日にはセミナーに出席するようになり、一年がたった。
仕事をしながら、土日と朝晩の通勤電車で勉強し続けた。
1年後には量子通信に関する論文を広田先生と連名で書くことができた。
この時、「どんな環境でも研究を続ける筋金入りの研究者になろう」と自分に誓った。
1995年の秋、企業の1年後輩で一足先に研究者に戻り、この情報通信研究機構の前身である通信総合研究所に移っていた人から連絡が入った。
「博士研究員1名の募集があるよ。」と声をかけてくれたのだ。
テーマは光変調器の研究だったが合格し、1995年暮れに転職することを決めた。
しかし、「子供もまだ小さいのに、一流企業を退職して研究者になるなんて!」と親戚は大反対だったが、妻だけは賛成してくれた。
最初は非常勤として採用されたのだが、そんなことを言ったら益々反対されるので、1998年4月に常勤研究員になるまで妻と二人だけの秘密にした。
研究所では、光変調器の研究と平行して、密かに量子通信の研究も続けていた。
1998年の頃、郵政省の官僚が量子通信について問い合わせをしてきた。
どこで聞きつけたのかわからないが、今振り返ると、非常に先見の明があったと思う。
量子通信の研究開発をプロジェクト化する計画を検討していて、量子暗号について通信関連の企業や大学の研究者などに意見を求めているのだという。
光変調器の専門家である上司も「いよいよ量子通信の研究をやってもいいんじゃないか」といい始め、郵政省も調査研究会を組織した。
光通信技術から量子通信技術の時代がやって来たのだ。
今まで一人でコツコツとやって来たことだ。
この時は、構想を文章化できる時が来た!と思い、大学や企業の研究者と協力して、ここぞとばかりに思いっきり書いた。
2001年に正式な研究所ができ、室長に任命された。
日本でも国家レベルで量子通信や量子暗号を研究推進することになったのだ。
初めて自分の研究室が出来た時でもある。
量子通信には2つの方向がある。
一つは限りなく早く、もう一つは絶対安全に、という方向だ。
前者は量子受信機を使った超大容量通信技術の実現で、後者は量子暗号を用いた絶対安全なセキュリティーの実現だ。
現在は量子暗号が実用化に入りつつある。企業と連携し都内の敷設ファイバー網で試験運用を続け実際の利用開始に向けた最後の仕上げを行っている。
一方、量子受信機やそれを用いた超大容量通信は、まだ実現には10年以上かかる基礎研究のフェーズにある。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
研究者に戻りたくて「プチうつ」になったとき。
会社に行こうと思っても、思うように体が動かない、このままでは社会に適応出来ないと思った。
正月休みなどの長期休暇は、ひたすら研究に没頭することが出来たが、こんな生活がいつまで続くのかと考えると辛かった。
そんな時、1994年コリン・パウエルの自伝書で「強く願えば叶う」という言葉に出会った。
パウエル氏は、アメリカの国務長官も勤めた人だが、在米ジャマイカ人2世で、物凄く差別された経験がある。
パウエル氏は、どんなに屈辱的な目にあったとしても、自宅に帰ると胸を張った自分を鏡に映して自分を立て直したという。
私も、研究者に戻れることを強く願い、教授になったつもりで振舞った。
そうすることで、自分を確立する事ができ、企業に就職してから4年後に研究者としての道が開けた。
◆夢は?
量子暗号を、国家用途や医療分野の通信などで実際に使えるものにしたい!
そして、いつの日か量子通信の恩恵を万民のものとしたい!
そのために小さな一歩をこれからもたゆまず継続してゆく。
現代の暗号は複雑な計算でつくられてはいるが、時間さえかければ解読できるものだ。
量子コンピュータが実現されれば暗号は直ぐに破られてしまう時代がくるだろう。
量子コンピュータの技術は、現代社会のセキュリティーを揺るがすことになる。
現在では、どの国よりも先に量子コンピュータを持とう、量子暗号技術を獲得しようと、他の国々でも国家戦略的な研究開発が進められている。
また、現在の光ファイバーネットワークの伝送性能を1万倍以上改善できる量子受信機の研究も着々と進んでいる。
この受信機があれば、衛星間や衛星-地上間など劣悪な環境でもレーザー光で大容量通信を実現することができる。
いわゆる宇宙量子通信だ。
いつの日か人類が惑星圏に活動を展開するときに必須の技術になる。
核による抑止力から、情報通信技術でいかに優位に立つかということが国家の存亡を左右する時代になりつつある。
増加する一途にある通信需要を持続的に支え、安全な通信を保証するために、量子通信はいずれ必須の技術になる。
まだ市場が見えなくても、挑戦の一歩一歩を継続してゆくためには、シンボリックな目標が必要だ。
実際、見て触れるものを作って初めて世の中は新しい世界を実感できる。
まず2015年には、量子通信のプロトタイプネットワークを構築し、それが社会にどのように役立つのか一般の方々にも見て頂けるようにしたい。
光ファイバ網での量子暗号ネットワークのほか、ビル間の空間をレーザー光で結んで光通信もできるような統合的なネットワークを作りたい。
これを核にさらに長期的な情報通信技術の研究開発のビジョンを示し、次の世代をモチベートし研究のバトンを渡したい。
日本は当初、欧米から少し遅れていたが、現代では世界のトップレベルを誇る。
産学官(さんがくかん:民間企業・大学などの研究機関・官公庁の三者)でコンソーシアムをつくり、先進的量子通信・量子暗号プロジェクトとして実践する。
英語ではProject UQCC (Updating Quantum Cryptography and Communications)と呼ばれ、ホームページhttp://www.uqcc.org/で取組の現状を公開している。
世界でも注目されているプロジェクトだ。
国内外の尊敬できる研究者と夢を追い切磋琢磨するのが研究のだいご味だ。
ビジョンを語って実現するのはNICTしかない。
NICTのロゴをつけて研究発表の壇上に立つたびに、心の底から誇りを感じる!
独立行政法人 情報通信研究機構
http://www.nict.go.jp/
NICT NEWS
実用化まであと一歩「量子暗号ネットワーク」の研究
http://www.nict.go.jp/publication/NICT-News/1102/NICT_NEWS_1102_J.pdf#search
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