波乱万丈の昇龍の如し!家族を守る「行政書士」王



飯田橋総合法務オフィス

代表行政書士

 

小竹 広光氏

 

2012.12.26 14:00


小竹広光

 

◆業種

行政書士


◆子供のころになりたかったものは?

サンタさん!

みんなにプレゼントをして喜ばれたかった。

幼稚園でのお絵かきでも、サンタさんが大きなプレゼントの袋をもって各家を周っている様子を描いた。

おそらく人気者になりたかったのだと思うが、小学校2年生くらいまで本気で思っていた。


◆毎日欠かさずしていることはありますか?

仕事

毎週の休日だけは、子供たちと遊ぶようにしている。

それ以外は、家でも事務所でも、暇さえあれば仕事をしている。


◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

たくさんいる。

中学を卒業して直ぐに働いたので、沢山の尊敬できる人に出会えた。
両親が離婚して母の女手一つで育ったので、一番大きな影響は、母から受けたと思う。

とても不器用で、真面目一本の母だが…自分を信じコツコツと頑張る!努力することの大切さを背中で教えてくれた。


◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

母の言葉。

「社会に出て、どんなに嫌な人がいても、相手にしてはいけない。
自分の正しいと思うことをコツコツやっていれば、いつか必ず良い方向に進み、自分が動かなくても問題は解決される。」

とても印象に残っていて、自分に大きな影響を与えている。

どんなにつらく苦しいことがあっても、一生懸命にやっていれば、必ず結果は付いてくる。

判断に困ったときは、すべて自分の経験とカンだけを頼りにし、机上の理論や他人の意見には振り回されず、自分を信じて諦めないこと。

そのような考えが、今でも自分の信念になっている。


◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

転機はたくさんある。

1、 貧乏暮らし

家は貧しく、風呂なし・水道トイレが共同という、一緒に8家族程が住んでいる、4畳半一間という共同アパートで暮らしていた。

小学校3年生になったとき、千葉にある豊島区の養護学校に入った。

元々ぜんそくがあったのだが、両親の喧嘩が激しくなると過呼吸になってしまうこともあり、自ら志願したのだ。

広々とした、施設はとても楽しく、小学校3年生からしか入れない施設だったので、一番年下の私はとても可愛がられた。

自宅では妹がいて甘えられなかったが、先生に甘えて膝の上で食事をしたこともあった。

この集団生活の経験は、貴重な体験として今に活きている。


2、 中学の三者面談

親から、「うちは貧しいから高校に行かせるお金はないので、中学を卒業したら働いてくれ。」と言われていたので三者面談の時、先生にきちんと伝えなくては!と気負っていた。

ところが、先生の方から「小竹君の学力だと、行かれる高校は近隣には無いのよ。」と言われてしまった。

更に、先生は就職ガイダンスを出して来て就職先を探し始めた。

クラスで高校に進学しない子は2人だけ、しかももう一人は自宅の洋服さんを継ぐためで、学力が足りないのは私だけだった。

一緒にバカやって遊び呆けている友達もいるのに…。

まさか自分が、クラスで一番下とは予想していなかったので、相当にショックを受けた。


3、子供が27歳で出来た時
27歳まで水商売を続けてきたが、結婚と同時に子供が出来たことで転職を考えるようになった。

子供が学校に行くようになると「お前のお父さんは水商売だ。」と、友達にいじめられるという先輩の話が耳に残っていたからだ。

そんな悲しい思いを子供にはさせたくない!

今までガードマンや引越し屋など色々なアルバイトの経験はあるが、まともに就職をしたことがない。

まず、最初に勤めたのは不動産の営業だったが、直ぐに辞めた。

そこで、後輩が消費者金融に勤めていると聞いたので早速紹介してもらった。

債権回収の仕事だった。

消費者金融業を選んだのは、昔、師匠から言われた事を思い出したからでもある。

「人類が始まって以来存在する仕事で、今もこれからも無くならない仕事が2つある。」

「それは、お金の貸し借りと、男女の性に関わる仕事だ。」

「だから、そのどちらかの仕事を選べば、今後無くなる事はないからいいぞ!」

16歳の多感な時期に聞いた事だけに、衝撃的で良く覚えていたのだ。

仕事は順調で、奇跡的に出世も早かった。

離職率は高かったが、水商売の頃に1日16時間くらい、月に1日休みがないほど働いていたので、私にとっては、仕事が遥かに楽に感じていたためだと思う。

そう言う意味でも、若いうちに水商売のハードワークを経験できたことに、感謝している。


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

妻と母の借金

消費者金融に就職した頃、母が毎週お小遣いを貰いに来るようになった。

様子がおかしいので聞いてみると、サラ金に200万円の借金があり、毎月利息だけでも10万円になるという。

母は、朝から晩まで近所の缶詰工場で働きながら、女手一つで私と妹を育ててくれた。

何の贅沢もする訳ではないが、生活は苦しく元金を返すことはできなかったために借金がかさんでしまったようだ。

また、妻の方も、親の事情で、訳あって、親戚への多額の借金を抱えることになり、サラ金からの350万円に及ぶ借金を抱えていた。

母のも合わせると、利息だけで毎月25万円になる。

どうにもできない。

そのため、母については、自己破産の手続きをし、妻の借金は一緒になって返した。

若かったし、結構がんばれたが、辛かったのは会社の昼休みだ。

皆ランチに出かけるが、私は「ちょっと用があるから」と言って近くの公園で、空腹を飴玉で凌いだ。

ところが奇跡的なことも起きた。

入社して半年で、債権回収部門のブロック長になり、出世と共に収入も上がったのだ。

返済も順調に出来るようなってきた頃、毎晩うなされる様になった。

一人の神的な自分が出てきて「一生懸命に育ててくれた母を、なぜ自己破産させてしまったのだ!」自分をなじる夢をみる。

ひどいことをしてしまった!と自責の念にかられ、毎晩、泣いて目が覚める。

そんなことが2年間くらい続いた。

あれが最善の方法だったと自分に言い聞かせ、時と共にうなされる事はなくなったが、今でも辛い思い出だ。

消費者金融業の会社を33歳のとき退職し、経験を活かしたコンサルタント業で独立した。

しかし、あまりうまくいかず、1年で閉めた。

貸し手からの経験と知識しかなかったためだ。

やはり片輪だけではうまくいかない。

法律の勉強がしたい!と思っていた頃、消費者金融の頃から交流のあった弁護士の先生から、「債務整理の仕事があるからうちに来ないか。」と誘われ、その弁護士事務所に就職することにした。

そのうち、妻がうつ状態になり、「あなたのせいで私は、辛い思いをしている。だから離婚してほしい。」と離婚届を突きつけられた。

何度も「君は病気だから」と話し合いをしたが、平成18年38歳でそこまで言うならと離婚届にサインした。

しかし、独りになったら暇で毎晩飲み明かすようになり、一週間に一回くらいは平気で事務所を休むようになってしまった。

「このままではいけない!」と本気で思うようになった。

更に、弁護士事務所は先生がいるから成り立っているが、自分がひとりになったらどうにもならない。

将来に備えて、行政書士の資格をとろう!と決意した。

離婚もしてしまったので、時間はたっぷりある。

それから1年間、朝から晩まで土日を返上して勉強し続けた。

当初は、10年計画で取り組んだつもりでいたが、幸い1年で合格出来た。

平成20年4月に行政書士として登録。

最初は、弁護士事務所の片隅で仕事をしていたが、仕事が増えたので平成21年12月に事務所を設立した。

その間に妻とも復縁した。

辛いこともたくさんあったが、人生の経験が仕事に物凄く役立っている。

問題が起きたら、とにかく動くしかない。

毎日その日に出来ること、思いつくことを必死にやるしかない。

一生懸命やっていると奇跡は起きるものだ。

昔の友達に、「どうやったら行政書士の資格がとれるのか?」と聞かれることがあるが「やる気になって、一生懸命やれば、誰でも取れるよ。」と答えている。


◆夢は?

老後はのんびりできるようになりたい!

その分、今をがんばる!

今まで、振り返れば波乱万丈な人生を生きてきた。

今後は、どうやって隠居生活を楽しむか?と考えている。

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