京都大学経営管理大学院 経営研究センター
教授 工学博士 センター長
小林潔司氏
2013.3.27 17:00
◆業種
私自身も絵を描くことが嫌いではなかったが、母の影響が強い。
画家になるのが夢だった母は、幼い頃から私を、城の画伯として有名な「小野画伯」について絵を習わせた。
小野画伯は、姫路城を描いた作品で何度も日展で入選している方だ。
最初は水彩画から始めて、小学校5年生頃から油絵になった。
しかし大工の父は、私に後を継がせたかったので、両親とも私に一度も「勉強しろ」と言わなかった。
それどころか、家には一冊の本もなく、まるで勉強するなと言わんばかりの環境だった。
友達の家に遊びに行くと、本がたくさんあるのを見ては羨ましく思ったものだ。
無いものねだりではないが、本が読みたくて仕方が無く、勉強が大好きだった。
父は棟梁なので、家には若い衆がよく集まり、本といえば、その若い衆の置いて行った子供には相応しくない雑誌ばかり。
また、お酒が入れば、小学生の私にも「飲め飲め」と酒を勧めるといった環境だった。
しかし、父は、「絵心が身に着けば少しは大工にも役に立だろう」と思ったのか、絵画教室は許してくれた。
今思えば、そんな父も、本当は大学に行きたかったのではないかと思う。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
Facebookをしている。
https://www.facebook.com/kobayashi.kiyoshi.7/friends?ft_ref=frh#!/kobayashi.kiyoshi.7
世界中の多くの友達とネットワークで繋いでくれるシステムはとても便利だ。
大いに活用させてもらっている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
私は人に物凄く恵まれた。
特に以下の方々には本当に感謝している。
どの方が欠けても今の私はなく、一生足を向けては寝られない。
1、京都大学工学部 吉川先生「経済の勉強ばかりしているなら経済学の方に行きなさい」と言ながら、私の背中を押し、給料面でも配慮、協力して下さった恩師
2、鳥取大学 野田部長、岡田教授
野田部長が声をかけてくれ、新しい学科を設立した。
新しい学科の上司である、岡田教授にも大変お世話になった。
3、ワルシャワ工科大学
ビエルツビッキ先生
IIASAでポーランド採用のときお世話になった。
4、スウェーデンでの採用者
オーケーアンダーソン氏
5、アメリカのボストン大学の友人
ラクシュマナン氏
クリントン大統領の時代、交通局長をしていた人物
彼がオーケーアンダーソンを紹介してくれた。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「自分のやったことが全て!」
海外にいると、自分の論文も自分の描いた絵も、とても愛おしく思える。
人の評価は関係ない。
自分を褒めてやりたい!
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1、20歳の時、フランスに行って限界を感じたこと
大学進学時、いずれはヨーロッパに絵画留学をするつもりだったので、学部にあまり拘りはなかった。
父は、相変わらず大学進学にも協力的ではなく、現役で合格しなければ、大工になると約束させられた。
しかも、受験校は1校しか許されなかった。
そのため、合格できそうで将来つぶしが利きそうな京都大学工学部を選んだ。
大学に入って初めて図書館に行ったときは、物凄く嬉しく、物凄く感動した。
20歳のとき、フランスに念願の絵画留学をした。
しかし、3ヶ月間通ってみて「これはアカン」と思った。
皆、物凄く素晴らしい絵を描く、正直ケタ違いだ。
そんなに凄い人でも食べられない現実を目の当たりにし、大学3年生で絵を完全に諦めた。
そして土木建築の都市計画や交通計画の道に進もうと、専門的な勉強を本格的に始めた。
ノーベル物理学賞を受賞したレフ・ランダウという物理学者は、毎日16時間勉強したという話を聞いて挑戦したが、その話は嘘じゃないかと思うほど、どうがんばっても14時間が限界だった。
しかし、勉強が苦痛な訳ではなく、むしろ楽しかった。
京大北門前に「新進堂」という喫茶店があり、そこに行くと皆が勉強している。
その姿によく励まされたものだ。
2、ウィーンのIIASAで失業を言い渡されたとき
大学院に進んで、更に研究を進め、京大の助手になったころ、経営学が面白いと思うようになった。
工学部の研究内容は極めて科学的だったが、都市計画や交通計画は人間に関わる研究であるため、人間のことに興味が湧いて来た。
そこで社会学を学び、経営・経済学にたどりついた。
今は工学と経済学を融合した学問があるが、当時は早すぎた。
工学部の恩師からは、「経済の勉強ばかりしているなら経済学の方に行きなさい」と言われてしまい、30歳の時どちらを取るか選択を迫られた。
結果、経済を取って留学しようと思った。
しかし、28歳の時、既に結婚していたので働きながら留学できる道を探した。
アメリカの友人が、スウェーデンの知人を紹介してくれた。
そのスウェーデン人が、オーストリアのウィーンにある※IIASA(国際応用システム分析研究所)のプロジェクト研究員として1年間採用してくれた。
スェーデン国に採用され、IIASAに派遣された形になる。
日本から妻子を連れて、ウィーンに到着次第、早速プロジェクトの責任者に挨拶に行った。
ところが、「君の参加するプロジェクトは無くなった。3ヶ月は失業保険が出るのでその間に他のプロジェクトに採用されなければならない。」といきなり言われた。
何がどうなっているのが良くわからなかったが、とにかく翌日から、参加国に交渉を始めた。
土木学だと採用範囲が狭いので、「経済学やってます!」と売り込んだ。
結果ポーランドとロシアの2国に採用され、1年間2つのプロジェクトに参加することになった。
内容は、計量経済学の研究。
データでマクロ経済モデルを創るプロジェクトだ。
3、スウェーデンに行ったこと
この経験が無ければ、鳥取大学からも声がかからなかったかも知れない。
IIASAの夏休みには、スウェーデンの採用してくれた人を訪ねて行き、失業の経緯を聞いた。
スウェーデンの国政が変わり、私の参加するプロジェクトから撤退したということだった。
1年間の契約が終わったとき、二人目の子供が産まれることもあり、妻子は日本に帰してスウェーデンの王立大学経済学部で客員研究員として働くことにした。
ところが、この仕事は無給だった。
担当教授が、死なない程度にクーポン券(食券みたいなもの)をくれたので、味はとても美味しいとは言えないものだったが、どうにか食い繋ぐことができた。
それでも、有難いことに、「経済の勉強ばかりしているなら経済学の方に行きなさい」と言った恩師が、2年間は京大に所属したままにしていてくれたので妻子の生活は成り立つことが出来た。
私の知らないところで、協力してくれていたのだ。
本当に感謝している。
スウェーデンでの生活も終わりを迎えた頃、鳥取大学の学部長からお声がかかった。
「いつまで定職につかないつもりなんだ。早く帰って手伝え」と言う。
工学部と経済学部を融合した学科を創るから、帰ってきて手伝えということだった。
しかも、好きなだけ自由に海外に行っていいという最高の条件付きだった。
国際化を目指すためである。
最初の4年は助教授として、後の5年は教授として在籍した期間、お言葉に甘えて、年の半分くらいはアジアを中心に駆けずり回った。
そのお陰で、アジアの各主要大学には友達のネットワークをつくることができた。
それが今に役立っている。
42歳で京大に戻って、公共経済学を研究することになった。
そして、今から7年前、52歳のとき、工学の代表として、経済の代表らと協力してビジネススクールをつくれと言われた。
そのスクールが、「グローバルビジネスリーダープログラム」として今年(平成25年)4月2日から東京で開講になる。
グローバルなリーダーを養成する!
日本は、世界でシュリンク(萎縮)している、このままではいけないと、大手10社(三井住友銀行、三井住友海上、日本生命、大林組、大阪ガス、野村証券、野村総研、富士ゼロックス、富士フィルム、東日本銀行)から、寄付をいただいて、10社から推薦され13人(女性1名)の選び抜かれた35歳前後の超エリートが1期生として参加する。
前半は、東京で講義、後半は、アジア7カ国の現地企業で実践する。
「グローバルビジネスリーダープログラム」の一員としてアジアの主要大学に所属し、トップエリートとして現地企業に派遣するという流れだ。
現地の日本企業に派遣したのでは、今までと変わらない。
日本人は、海外に出ると日本人同士で固まってしまう傾向にあるので、それを回避するためでもある。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
1、 どんな問題もポジティブシンキングに限る!
ただし、ポジティブにものを考えるにはアイデアがないと難しい。
いくら楽観的とは言え対策が思い浮かばなければ逃避と同じだ。
アイデアは経験から生まれる。
チャレンジして失敗しながら経験を積む!これが大事!
2、 ある年齢になるとリーダーシップが必要になる。
リーダーは大風呂敷を広げると良い。
「ホラを吹かなければアカン!」と言いたい。
実現できると思ってホラを吹く。
ビジョンを語らなければ人をモチベートできないし誰も付いて来ない。
3、矛盾を引き受ける。
この手の本は、キッシンジャー著「外交」がお勧めだ。
新しいものとそうでないものも始末など、ネットワーキングについても参考になる。
今回の、工学と経済学をあわせたビジネススクールを完成させるに当たり、多くの矛盾を引き受けた。
例えば、工学部側からは「どういうシナリオなんだ?」といわれたりする。
どういうシナリオといったって、新しい試みだからある程度進めてみないとわからないこともある。
工学の担当者にも良い事を言い、経済学の担当者にも良い事ばかりを言って取り持った。
双方に旨いことばかり言っていると、どうしても矛盾が生じてくる。
その矛盾をどう解説するかを、必死で考えアイデアを出す。
額に汗どころか、全身が熱くなることもしばしばあった。
この醍醐味は、味わったものでなければわからないかもしれないが旨くいったときは物凄くホッとする。
まさに、オンザエッジだった。
これだけ大胆なことが出来るのも、恩師の掌(たなごころ)の上にいるからだ。
いざとなったら責任は取ると、恩師は思いながら私を遊ばせてくれているのではないかと思っている。
これも日頃の人間関係による信頼があるからこそ。
感謝している。
◆夢は?
「グローバルビジネスリーダープログラム」を起動に乗せる!
複数の戦略を持ち、複数のものの見方のできる、グローバルな人材をつくることが目的。
違ったお国柄の人々をアクセプト(受け入れること)できる人材を育成する。
国によっては、同じ言葉でも全く違う意味をなすこともある。
例えば、日本でジェネラリスト、或るいわゼネラリストで、日本の辞書を引くと「いろいろな分野の知識や能力をもっている人。」とあり、generalistと英和辞典を引くと「官庁・企業での一般[総合]職」とあるが、アメリカではノンプロ、ド素人の意味で、どちらかというとばかにしたような意味になる。
特に日本は、専門分野の知識をもった人は人格者であり、または人格者であることを要求され「良い人」として認識されることが多い。
もし、その知識人が人格者らしくないことをすれば大問題になるが、アメリカは全く違う。
アジアの国々は、どちらかというと日本と一致している。
しかし、アメリカは、必ずしも人格と専門性が一致していない。
これはほんの一例で、世界の国々にはお国柄も風習、価値観などの違いが多くある。
それを受け入れ、心の通い合う人間関係が築けるような人材をつくる!
コメントをお書きください