新小岩厄除香取神社
宮司
亀井 瑞雄 氏
2012.8.29 10:00
◆業種
宮司
◆子供のころになりたかったものは?
神職
生まれたときから、家族も自分も周囲の人も、皆が神職になるのが当たり前と思って育てられた。
父も祖父も昔ながらの厳しい人だった。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
1、お祈り
毎日、国の安泰・天下泰平、家内安全・健康を祈っている。
2、ピアノの練習
氏子の方にピアノの先生がいて、80歳過ぎてから習いだした。
息子の結婚式では、先生と一緒に連弾を披露した。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
父を始め、ご先祖様方
父や祖父の背中を見て育ち、日々の日常が教えとなった。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「絆」
50歳頃から、絆、人間関係の大切さを痛感するようになった。
氏子の方たちの性格が、その土地の文化や風習を創る。
話すと、この辺りで生まれ育った人だと言い当てることが出来る。
その土地柄の香りがするのだ。
古い神社は、世界中にこの香りをプンプン発散させている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
戦争
小学校6年生の時、戦争が始まった。
中学2年になると学徒動員で、スコップを持って防空壕を掘り貯水池を作って歩いた。
その後、爆弾工場に派遣され、溶鉱炉から真っ赤に燃えた鉄を取り出し爆弾を作らされた。
戦争が進むにつれ鉄が不足し、家からも窓レール等の鉄を取っていかれた。
18歳の頃、東京大空襲で東京は焼け野原になり、爆弾工場は宇都宮に移転した。
地下100mの採石工場だった所が爆弾工場になった。
暗く、風呂も食べ物も無い、しらみだらけの体で働かされた。
育ち盛りの体には堪えた。
仲間の中には、どうせいつか行くならと特攻隊員に志願して死んでいったものも多い。
この頃になると、ガソリンもなくなり、松ヤニを取ってガソリンにしていた。
それ程物資は底をついていたが、誰も文句を言わず御国のために働いた。
この時代の教育は「日本の国を守る」ということに尽きた。
そして終戦、敗戦国となった。
神社は戦前、国家神道といい国家のものだった。
神職も神官と呼ばれ、国家公務員のような立場であった。
戦後マッカーサーが来て、日本の良いものが変えられてしまった。
昭和26年にはGHQの政策によって宗教法人法が制定され、神道は宗教にされてしまった。
組織や体系は変わってしまったが、神様は変わらない。
戦争中も神様に守られた。
父はずっと東京にいたのだが、入っていた直ぐ隣の防空壕で500Kgの爆弾が落ちたこともあったという。
家の周りは爆弾の穴だらけ、直径10mの爆弾の穴が空いていることもあった。
爆弾が落ちると、夜中でも周囲は昼間のように一瞬明るくなる。
更に、この周辺の土地は田んぼが多くぬかっていたので、爆弾は土深くめり込んだところで爆発するから物凄い勢いと量の土が吹っ飛ぶ。
また、水のある田んぼに落ちても、油があるのでメラメラと燃え続けている。
毎日、空襲警報の鳴る中、物凄い光景だった。
御神体のある部屋の壁には、爆弾の破片が今も刺さっている。
しかし、皆無事に助かった。
神様のお陰と感謝している。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
乗っ取りを企てた人に出会った時。
ある人から頼まれて、他の神社の代表役員(宮司)を引き受けたことがある。
ところが、毎日その神社に住み込んでいる人が、周りの役員に根回しをし、最低位の資格を即席で取って宮司に成り代わろうとした。
神社の乗っ取りを企てたのだ。
その事に気づいた私は、乗っ取りを阻止した。
誰がどんなことをしても真っ正直に生きる!という代々受けついだ信念を曲げることは出来ない。
人は、口先ではどんな良い事でも言える。
真実はその人の中にある。
それにしても悪い事は出来ないものだ。
きちんとした証文(宮司任命の証明書)が残っていたし、それを書いた人も生きていて証言も取れ、乗っ取りを阻止することができた。
神様はちゃんと見ている。
◆夢は?
もう望むことはあまりない。
年中行事に、皆で顔を合わせることができる、これがありがたい事だ。
今は大変な時だが、戦争以外の方法で、日本が輝くときがくる!
新小岩厄除香取神社
http://homepage3.nifty.com/katorijinja/
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