「鉄腕アトム」の声優
清水マリ氏
2012/2/24 13:00
◆業種
声優
◆子供のころになりたかったものは?
ピアニストや新聞記者
ピアノを習えばピアニスト、学校新聞を作れば新聞記者になりたいと思った。
取材して原稿を書き、新聞の枠を構成することが好きで、中学になると、「そよかぜ」という学校新聞を自主的に発行した。
演劇に憧れ、高校は演劇部のある男女共学校を選んだ。
地元で一番の高校は、女子高で演劇部に男子もいなかったため、担任の先生に「変わってるな。」と言われながらも目標を下げて男女共学に志望校を決めた。
演劇と共にスポーツも好きで、中学では、ソフトボールで県大会にも出場した程だ。
中学では、走ることが得意でいつも上位入賞していた。
しかし、全力で挑戦せずに失敗したことがある。
目標は10位以内とし、抜かれて行く人数を数えて力を抜いたところ結果は11位。
抜かれた人数を数え間違えたのだ。
手を抜いてはいけないことを学んだ。
高校を卒業すると、舞台俳優になりたくて俳優の養成所に入った。
当時は、まだテレビ放送がなかった。
昭和34年ごろから、テレビで外国映画の放送が始まり、吹き替えで子供の声を担当した。
その後、昭和38年、国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」の声を担当することになったが、「鉄腕アトム」のことは全く知らない。
舞台女優を目指していたので、あわてて本屋に行ってみたが「あーこれかぁ。」という程度の感想だった。
ところが、いざアトムの声を担当してみると、初日から「かわいい!絶対やりたい!」と直感で思った。
素晴らしい出会いだった。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
1、発声練習
声優学校の講師を三校掛け持ちしていることもあり、生徒さんと一緒に一日30分くらいは発声練習をする。
2、簡単な体操
毎晩寝る前に、健康のため、ベッドの上で20分くらい簡単な体操をする。
たいした体操ではないが、これをすると「あー今日もやった。」と安心して眠れる。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、故 手塚治虫 先生
「鉄腕アトム」のパイロット版(先行して製作された映像)をテレビ局に持ち込むため声を吹き込んだとき、「あーアトムに魂が入った。」と喜んで下さった。
その後のテレビ放送では、ベテランの声優さんが「アトム」の声を担当することになっていたが、手塚先生のご意向で、パイロット版の声のままで放送されることになった。
その後も、手塚先生は、「『アトム』と『お茶の水博士』の声は絶対に変えないように」とおっしゃって下さった。
お陰さまで、26歳から43年間ずっとアトムの声を担当することができた。
後日談だが、当時は自分の実力で「アトム」の声を勝ち取ったと思っていたが、50歳くらいになった頃フッと思った。
これは、めぐり合わせのお陰だ!
私の父は役者で、戦後に劇団を作った。
その劇団で、ピノキオをやることになったが、劇団に子供はいない。
当時中学一年の私に「ピノキオ」の役が回ってきた。
その時、学生だった劇団員の一人が、虫プロダクション(鉄腕アトムの製作会社)で地位のある人になっていた。
アトムはピノキオがモデルと言われている。
その学生だった劇団員の人が、ピノキオを演じた私を推薦してくれたのではないだろうか?
今となっては、皆亡き人になっているので確認のしようもないが、つくづく「人間の人生に無駄はないなぁ」と思う。
2、故 小沢重雄 氏
声優の先輩で、「昔語り」をしようと誘ってくれた方。
この方がいなかったら、新たな生き甲斐を見つけられなかったと思う。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「心に太陽を唇に歌を」
常に前向きに!
人生、できるだけ笑って過ごそうと思っている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
第一子出産と同時に劇団をやめたこと。
「アトム」の声優を引き受けるに当たって、スタッフから「2年間は子供を産まないで下さい。」と言われた。
もう結婚していたので、「はい」といったものの2年の後半で子供が産まれた。
出産時は代役を頼むことになったが、その声優さんは「アトム」のイメージを崩さないように私の声とそっくりに真似してくれた。
しかし、私が聞いてもわからないのに「アトムの声が違う!」と、視聴者の子供たちからテレビ局に問い合わせの電話が殺到したという。
しかし、子供たちに「アトムの声の人はお産で・・・」等と言えるわけがない。
とにかく「早く戻って来てくれ!」ということになった。
結局8話だけお休みして戻った。
それまでは、声優の他に劇団員でもあったので、地方公演のため全国を回っていた。
劇団を続けるとなると、子供といる時間がほとんどなくなる。
そこで大きな選択をした。
子育てのため、一生やり続けたかった舞台女優をあきらめ、仕事は「アトム」の声優だけに切り替えた。
「アトム」の仕事は週に一回だけなので、PTAでも何でもやった。
PTAでは広報部に入り、企画から校正など、広報誌作りに精を出した。
PTAの仲間も、協力してくれ私の時間に合わせてくれた。
今は、孫と一緒に暮らす毎日に幸せを感じる。
あの時の選択は、間違っていなかった。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
40歳の少し前、急に虚しくなって体重激減。
その頃、両親が相次いで亡くなった。
それまで「寄らば大樹の陰」で頼りにしていた両親だけにショックが大きかったのだろう。
更に仕事もうまくいかない。
「アトム」の声が定着していたので、他の男の子の声を担当すると、「アトムの声を出さないで下さい。」と言われることが多かった。
お陰で勉強にはなったが、自分が後れをとっている気がして落ち込んだ。
食欲もなくなり3ヶ月で15Kgも痩せてしまったのだ。
その時、「昔話をやらないか!?」と小沢重雄さんが声をかけて下さった。
もともと舞台女優志望で、人前で何かをしたいタイプだったので、舞台の上での「昔語り」は私に生き甲斐を与えてくれた。
また、「昔語り」を開くに当たって色々な人に関わるうち、体重はあっという間に元に戻った。
その頃には、皆に「フーセンみたいだ。」と笑われても一緒に笑えるようになっていた。
小沢重雄さんには本当に感謝している。
また「アトム」はロボットだから、風邪などで声をからす訳にはいかない。
少しでも風邪かなと思ったら、薬を飲んで初期のうちに治した。
当時は物凄く気を使ったものだ。
そのお陰で43年間、声をからすことはなかったが、2003年、「アトム」の声を卒業したとたん、インフルエンザにかかった。
しかもA型とB型の両方にだ。
終わった!と思ったとたん気が抜けたのだろう。
人間の精神力の凄さを知った。
◆夢は?
声優学校の子供たちが、うまく育ってくれること。
たくさんの可能性を秘めた子供たち!
その宝を広げたい!
声優 清水マリの部屋
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