伝説の日本アニメ創成王



株式会社MAPPA

代表取締役

 

丸山 正雄氏

2012/6/26  11:00


丸山正雄

 

◆業種

アニメーション企画・制作


◆子供のころになりたかったものは?

1、旅行案内人
(おせっかいなんですね、自分が気に入ってるところを旅行好きの他人に紹介したいのです。)

2、コックさん

(ひとりで飯を食うのが嫌いなんです。皆でわいわい食うのがすきなのがこうじて料理が趣味です。)

なりたいものに出会ったのは20歳頃で、子供の頃に考えたことはない。

たまに本を読むくらいで、外で遊ぶこともせず、いつも家でボーッとしている子だった。

高校生の時、たまたま読んだ「広末 保」著の「近松序説」を呼んで、どうしても著者に会いたくなった。

※「近松序説」とは、「近松における世話悲劇の成立・展開を「出世景清」「曽根崎心中」等の代表作品を通して追求し、近世劇文学ドラマトゥルギー〔作劇法〕の本質をあきらかにした名著。」出版社(未來社)から抜粋

その当時、広末 保氏は法政大学の教授をしていたため、法政大学に入学すれば会えると思い進学した。

幸いゼミにも入ることが出来た。

しかし、学費の捻出などが大変で殆ど大学には行ってない。

卒業が出来たのは仲間のお陰だ。

今でも付き合いが続いている。

色々と世話になった。

私の場合、回りの人間が「面倒をみてやらないといけない」という思いに駆られるようだ。

 

(要するに放っておけないだめ人間なんです。)

財布をなくしたり、切符をなくすことは日常茶飯事。

いつも同じ場所に置いておくなんてことは出来ない。

靴の紐を結んでもすぐ解けてしまうし、右と左も即判断することは出来ない。

幼い頃に父が亡くなったため、母が女手一つで姉と妹と私を育ててくれた。

母は仕事で忙しく、弁当を作るなど身の回りの世話をしてくれるのは姉だった。

姉といっても3つしか違わないから、子供が子供の世話をするようなものだ。

母は忙しいので、うるさいことを言われずに育った。

晩年、母を東京に引き取って一緒に暮らしたが、暮らしてみると「意外と普通の人なんだな」と思った程、子供の頃は関わりがなかった。

田舎でゆったり育ったお陰で自由な発想が出来るし、今でも子供の気持ちでいられる。

周囲の人々には本当に良くして貰ったと、感謝している。


◆毎日欠かさずしていることはありますか?

犬(ミニュチュアシュナーザー)の散歩

30年間同じ犬種を飼い続け、今の犬は三代目になる。

一代目が亡くなった時は、「もう二度と犬は飼わない」と思ったが、寂しくて3日目には飼っていた。

一代目と二代目は血縁関係があったが、いまの三代目は全くない。

しかし私の中では、まるで1匹の犬のようにストーリーはずっと繋がっている。


◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

手塚 治虫氏

カルチャーショックを受けた人。

それまで出会ったことの無い、常識の範疇では考えられない人物である。

その魅力に取り付かれ、アニメーションの世界から抜けられなくなった。

大学を卒業しても、特にやりたいことが見つからず、今で言うフリーターをしていた。

一年くらいたった頃、このままでは仕方ないだろうと、知人が虫プロダクションを紹介してくれた。

当時は、テレビアニメが始まったばかりで、とにかく人がほしかった。

寝床と食事さえあれば給料に文句を言わず、24時間働ける者を募集していたのだ。

それまでのアニメは、劇場でしか見られないものだった。

ディズニーアニメが大好きだった手塚先生は、ある日突然、「テレビアニメをやろう!」と言い出し「虫プロダクション」を設立した。

皇太子様ご成婚以来、テレビの普及が進んだことも手伝ったのだろう。

劇場アニメは、1本の作品を4、5年かけて作るのに対し、テレビアニメをやるためには、1週間に1本作らなければならない。

発想がクレイジーであり、狂気の沙汰だ。

しかし、それを手塚先生はやってのける。

人手は、いくらあっても足りない状況だった。

だから面接で、『僕は、手塚治虫より「ちばてつや」や「馬場のぼる」の方が好きだ。』と言っても採用された。

当時、手塚アニメは説教くさくて好きではなかったのだ。

 

(若気のいたりってやつですかね。これが一生の負い目になってしまってるような気がする。)

今思えば、手塚治虫先生と一緒に仕事が出来るなんて光栄な事だが、当時は特にやりたい仕事ではなかった。

逆に、いつでも辞められると思っていたから、しんどい作業でも耐えられたのだと思う。

まして、皆が初めての試みに挑戦しているようなものだったので、システムもマニュアルも無かった時代だ。

誰からも、アレコレ言われることがない自由な環境だったことが良かった。

また、友達もいっぱい出来た。

当時の仲間はかけがえのない存在で、今でも大事にしている。

一週間も経つと、「何年も前から居るみたいだ。」と言われる程馴染んでいた。

仕事は忙しく寝る暇も無い中、手塚先生からは可愛がられた。

というより、いじられた。

ある日、手塚先生が私に「どうして寝ているのですか?」と聞いた。

「先生、夜中の3時ですよ。」と答えると、

「僕は寝てません。」と平然と言われた。

その時、先生の前では寝なければ良いということを学んだ。

また、先生は昨日言ったことと今日言うことが違う。

先生にしてみれば、進んだだけ。

クリエイターはそのくらいでないと、良い作品は作れない。

そのことは今ではわかる。

しかし当時は、昨日やったことが全てムダになってしまったような気がして、「このくそ親父!」と何度も思った。

今は逆の立場にいるので、「君の気持ちはよーくわかるよ。僕のこと『このくそ親父』と思っているでしょ。」と思わず言ってしまう。

そういう日々の繰り返しから、テレビアニメ「鉄腕アトム」が誕生した。

テレビアニメを短期間で作る手法は、手塚先生が考え実現させた。

ディズニーアニメーションは、1秒間に24枚のフイルムを使う。

これをフルアニメーションというのだが、手塚先生は、1秒間に1枚から8枚で制作した。

飛んでるシーン等は、1枚のフイルムで出来ている。

目の残像を利用したもので、医師免許をもつ手塚先生ならではの発想だ。

後にこの手法は、ジャパンアニメーションとして世界からも注目を浴びた。

やりたいことを、工夫してやってのけてしまう手塚先生との出会いは、私の人生に大きな影響を与えた。

更に、日本テレビアニメの歴史的瞬間に同席できたことに感謝している。


◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

その時々でいっぱいあったような気がするけど、あっても忘れてしまう。

あまり執着することがなく、座右の銘は?等と聞かれると、なんだかプッと笑ってしまうような感じだ。


◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

1、虫プロダクションに入ったこと。

 

2、虫プロが倒産して仲間とマッドハウスを設立したこと。

3、70歳を機にマッドハウスを辞めてMAPPAを作ったこと。


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

いっぱいあったはずなのだが、殆ど忘れてしまった。

だからこそ乗り越えられたのだと思う。

 

単に楽天的、忘れっぽいだけかも知れない

忘れ物が多くて指摘されると、「僕の頭はこれしかありません。全部覚えろと言われると、前には出来たこともこっちからこぼれ落ちてしまうかもしれません。」と答える。

また人間、時には無駄なことも必要だと思う。

私はマージャンが好きで、夜中までやって身体にも悪く儲かるのは雀荘だけ!とわかっている。

しかし、この生産性のなさがたまらない。

日常は、アニメ制作に没頭してヘトヘトになる。

アニメ制作はとても豊かなこと。

それとは逆に、バカをやったり無駄なことをすることでバランスを取っているのかも知れない。

だから私は、自分を「こういう人」と思うことはない。

両方の面をもっている。

一つに決められてしまうと、自分では無いみたいになる。

どんどんデータは書き換えられ、私は、今日の私ではなくなるのだ。


◆夢は?

お金儲け!

お金があると好きなことが出来る。

 

多分というか、間違いなく死ぬまでありえないことだからこそ憧れるのだと思うのだが…。

料理を作って皆にふるまったり、常に行きたいところに行かれる人生にしたい。

一つところに留まらず、常に「ココ」じゃないところ、あっちこっちに行きたい。

海外の温泉が好きで、美味しい食べ物と美しい景色に囲まれたら最高だと思う!!

 

けどやっぱ仕事があってのことですね!

こっそり一目をごまかすのが大好きなのです!!


株式会社MAPPA
http://www.mappa.co.jp/

 


最近のアニメ作品「坂道のアポロン」フジテレビ
http://www.noitamina-apollon.com/



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