講演会概要
中学時代もいじめられ、高校時代もいじめられ、大学に入ってもパットせず、『夢なし、自信なし、希望なし』だったダメ大学生が、ある日『そんな自分を変えたい!』と思い、毎朝6時から『日本一汚い場所』新宿駅東口のゴミ拾いを始める。しかし、そこには想像以上の試練が…。拾った目の前でゴミを捨てられ、集めたゴミを蹴り散らかされ、意味もなく罵倒され、殴られ、頭からジュースをかけられ、顔に唾を吐きかけられ、挙げ句の果てにはケンカに巻き込まれ病院送り…。
それでも『1ヶ月は続ける』という兄との約束のもと、殴られ続けても、蹴られ続けても、馬鹿にされ続けても、ただ目の前のゴミを拾い続けた彼の人生に起きた奇跡…。
お尻の半分出た『半ケツ』のホームレスが初めて仲間に加わり、そこからみるみる内に広がっていった仲間の輪…。
変わり行く周囲、そしてきれいになっていく新宿の街並み…。
気付けば、たった一人から始まったそのゴミ拾いの輪は5月3日を『護美(ゴミ)の日』として、全国、全世界に広がり、2007年5月3日には全国27ヵ所、444人へ、2008年5月3日には約1500人、 2009年5月3日には全世界26ヵ国 1万5334人へ、そして2013年5月3日には全世界60ヵ国以上、15万8394人へと…。
そして気付けば彼の人生は変わり、今では元々の自分と同じような境遇の50人以上のスタッフを抱える飲食店社長を務め、7冊以上の本を出す作家、小説家として活動し、全世界のゴミ拾いの活動も広がり続けている。
例えどんな境遇でも、苦境でも、自分が歩む1歩で変えられないことなんてない。
全ての始まりは『1歩を踏み出す勇気』、そして『諦めない覚悟』だった。
◆業種
GOMI拾い活動、作家、講演会講師、飲食店経営
◆子供のころになりたかったものは?
世界一の親孝行者
運動会などがあるといつも褒めてくれた。
それがとても嬉しく、褒められたい!という気持ちもあっての事だと思うが、これといった夢はなかったので、とにかく大好きな両親に喜んで貰いたいと思っていた。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
ゴミ拾い
どこに居ても、道をあるきながらでも、一日一回はゴミを拾う。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、両親
何があっても否定しない。
「おまえは出来る。」「絶対出来る。」と両親ともに事ある毎にいい続けてくれた。
そのお陰で、根底に人生の柱がしっかりと出来た。
本当にくじけることなく、ここまで進んでこれたのは両親のお陰と感謝している。
2、兄
大学から東京に出てきた自分にとって、一つ年上の兄は、親代わりのような存在だった。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「おまえは出来る。」
両親から、この言葉のシャワーを浴びていなかったら、無気力人間から立ち直ることなく本当にダメ男になっていたと思う。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
20歳の時、このままじゃダメだ!と本気で思った。
4人姉弟の末っ子で、裕福な家庭に育った。
大学も指定校推薦で難なく上智大学に進学が決まり、大阪から上京して一人暮らしが始まった。
末っ子の一人暮らしを心配してか、親からの仕送りは家賃や学費を別にして月30万円程あった。
学校にはろくに行かず、毎日家にこもりゲームに明け暮れ、夜になると友達を誘って飲みに出かける毎日を繰り返した。
変わり映えのない毎日に飽き、カフェや居酒屋でアルバイトをしたが続かない。
実家が飲食業を営んでいたので、ある程度のことは出来てしまうし新鮮味がない。
更に、お金が必要な訳でもないので働くことに喜びを見出せなかったのだ。
大学3年生の夏になって、遊び友達が就職活動を始めても、だらりとする生活は変わらなかった。
何をしたいかわからない、何をやっても楽しくない。
夢も希望もない。
周囲の友達からはダメ男とレッテルを張られ、むなしい毎日が続いた。
ただ生きているだけ、息をしているだけだった。
普段は怒ったことがない兄に、見るに見かねたのだろう本気で怒られた。
「何かしたいと言いながら何もしていないし、いつも口ばっかり!」
「何でもいいから何かしてみろ!」
その兄に誘われ、大学3年生の11月、映画を見に行った。
てんつくマン作「107+1~天国はつくるもの~」
一般の映画館では上映されていない映画だったが衝撃を受けた。
やる前から出来ない!無理!という若者が、動き出す。
三本立てで構成され、不可能を可能にする内容の映画だった。
一本目は、沖縄でゴミを集めゴミ文字をつくる。
二本目は、沖縄から鹿児島まで手漕ぎボートで渡る。
三本目は、20歳くらいの女の子が、多くの人に協力を呼びかけ1kmのマフラーを編んでアフガニスタンに届ける。
特に三本目が感動だった。
やっと出来上がった1km、777本のマフラーをアフガニスタンに届けたところ、マフラーの奪い合いが始まり暴動が起きてしまった。
「帰れ!」そういわれながらも、もう一度チャンスをくれと懇願。
アフガニスタンの人々に、「持ち帰ったマフラーを、きちんと分け直すから一度返してほしい。」とアナウンスするが反応ない。
周囲の人間は、アフガニスタン人の気質から「一度持ち帰ったものを返す訳が無い。」という。
皆を信じて待つが、案の定誰も返しにこない。
諦めかけたところに、一人の少女が走ってマフラーを返しに来たところで映画が終わる。
終わった後は、感動で涙が止まらない。
いてもたってもたまらず、「俺も何かやりたい!」そう本気で思った。
一本目で見たゴミの話が頭を過ぎり、「ゴミ拾いだったら自分にも出来るかも知れない!」。
兄に相談すると、「やみくもにやったらアカン、期間を決めてやれ。」
「これが出来なかったら俺はお前を一生『負けイヌ』と呼ぶからな。」と言われた。
時間は朝6時からと決め、2006年11月8日から新宿駅東口広場のゴミ拾いを始めた。
「一緒にそうじしてくれる人募集!」とダンボールの切れ端にかき背負った。
動機は「可愛い子が一緒にそうじしてくれたたらいいなぁ」という程度だった。
ところが、そんな甘い夢は直ぐに破れた。
「偽善者」と唾をはかれ殴られたり、オレンジジュースを頭から掛けられたり、カラスの屍骸を投げつけられたこともある。
毎日、あらゆる嫌がらせをされながらも、兄との約束があるからと黙々と続けた。
2週間した頃、プロレスラーとサラリーマンの喧嘩に巻き込まれた。
喧嘩を止めようとしたところ投げ飛ばされたのだ。
もうゴミ拾いなんか止めよう!そう思ったが、このまま止めるのは流石に気が引けたので、明日を最後にしようと決めた。
最後と決めてゴミ拾いをしているとき、フッと横を見るとホウキとチリトリをもった人が見えた。
何が起きたんだ!?
よく見ると、半分ケツを出したホームレスの人がせっせと掃除をしている。
何で???と思い聞いてみると「毎日、一人で掃除をしていたでしょ。」という。
名前は石浜さんというらしい。
「あー毎日見守っていてくれた人がいたんだ!」と感動した。
そうなると、次の日も「いるかな?」と気になってゴミ拾いに出かけた。
いなかったら止めようと思いながら一週間がたった。
石浜さんは、毎朝が「始めまして」の挨拶で始まる面白い人だった。
すると三週目、ボロボロの服を着た人が一人増えている。
何でと聞くと「ウニャグニャフロヘロ・・・・」なんと言っているか聞き取れないが、市倉さんという名前らしいということだけがわかった。
ついに一ヶ月!
兄との約束は達成した。
しかし、「二人をおいて自分だけ止める訳にはいかない。」続けることにした。
一ヶ月を過ぎると周囲の人が変わってきた。
目の前でゴミをわざと捨てていた、ホストのお兄ちゃんが「ごめんな」と言ってきたり、唾を吐いた人が温かい缶コーヒーを買って来てくれた。
また、通りがかりの人々が「ありがとう」「ごくろうさん」と声を掛けてくれるようになった。
だんだん楽しみになって来たので、もう少し出来るところまでやってみよう!と思った。
年末になり、12月28日に実家に帰ったところ、友人から「新聞みたよ。」と電話がかかってきた。
何のことだかわからない。
朝日新聞を見てみると、社会面の一面にゴミ拾いのことが写真入で書かれている。
そういえば、少し前ゴミ拾いをしている最中に、根掘り葉掘り聞いてくる人がいた事を思い出した。
ゴミ拾いの動機を聞かれたとき「自分を変えたいから始めた。」と答えたはずなのに新聞には「世界を変えたい!」と書かれてある。
更に、「これからもゴミ拾いを続ける」と書いてあるではないか!
これでは、明日も休む訳にはいかない。
しかし今、大阪の実家だ。
あわてて、日帰りで東京にとんぼ帰り。
お陰で休むことなく、ゴミ拾いを継続させることが出来た。
その翌年2007年の1月にはNHKで放送され、同年2月にはゴミ拾いの仲間は50人になった。
2007年5月3日(ゴミの日)にはイベントを企画し、インターネットで呼びかけ参加者は444人になった。
更に、NHKの放送を見ていた「アジア子供会議」の主催者が自分を司会者に抜擢してくれ、2007年7月には、光栄にも高円宮久子妃殿下の前で講演することが出来た。
同年9月、就職は内定していたが、就職してしまうとゴミ拾いの活動は制限されるし、講演会も開けなくなってしまう。
衝動的に、内定辞退の電話を掛けた。
ところが電話を切った後、我に返った。
「ヤバイ!どうやって食べていこう。」
三日間街をふらつき考えた。
すると、路上で言葉を書いて収入を得ている人を見つけた。
これなら自分にも出来る!と直感した。
子供の頃から、親に「おまえは出来る!」と言われた自信と、ゴミ拾いで得た「やれば出来る!」という実績が重なって得た感触だ。
早速、敷物や筆や色紙などを買い集め路上で活動を始めた。
出会った人間に、一歩踏み出す勇気、背中を押せるような言葉を色紙に綴った。
1円から1万円までと、一枚の色紙に対する報酬は様々だが生計を立てることが出来た。
2008年のゴミの日(5月3日)は、1500人が集まり、同年12月には本を出版。
更に翌年の2009年5月3日は26ヶ国15,534人、2010年5月3日には30ヵ国103,036人の人が賛同してくれた。
2010年6月には、ニートの人たちに「人生変えるための実践場所」を提供したいとラーメン店を開業。
現在は2店舗に拡大した。
2011年のゴミの日は、宮城県の子供たちに遊び場を提供したいと「がれき拾い」を実践。
今年2012年5月3日(護美の日)には、「GOMIファンタジスタプロジェクト」という更に大きなイベントを企画している。
「始めの一歩」を踏み出すことができたお陰で、大きな世界に繋がったのだ。
また、始めて3ヶ月した頃、最初に手伝ってくれたホームレスの二人はいつの間にか姿が見えなくなっていた。
一生懸命やっていると、誰かが助けてくれることを体験させるために現れてくれたのだろうか?
あの人たちがいなかったら今の自分はなかったかも知れない。
更に、タイミングよく新聞に掲載されることがなかったら継続は出来なかった。
色々な力がタイミングよく働いてくれたお陰だ。
これからは、ダメ男の自分でも出来たことを多くの人に伝えて行きたい。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
挫折らしい挫折はない。
そう思っている。
大学生の時、周囲の人間から「あいつ大丈夫か?」とささやかれた時。
ゴミ拾いを始めたばかりの頃、唾をかけられたり殴られたりしたことは試練だったのかも知れない。
しかし、そういうことがあったからこそ今の自分がある。
そう考えると、どれもこれも問題、障害として捕らえることは出来ないのだ。
◆夢は?
5月3日を「護美の日(ゴミの日)」として、節分の豆まきやバレンタインデーのチョコレートのように、『全国、全世界でゴミを拾う事が当たり前になるような』そんな記念日にしたい!
荒川祐二が発起人代表を務める『目の前のGOMI堂々と拾える人を増やす国民運動』
GOMIファンタジスタPROJECT
荒川祐二 公式ウェブサイト
荒川祐二著
「半ケツとゴミ拾い」他多数
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