天流に従い人災から国民を守る「良寛」王



鎌ヶ谷市市議会議員

津久井 清氏

2011/4/28 1300


津久井清

 

◆業種

政治家


◆子供のころになりたかったものは?

銀行員

家が貧しかったので、お金持ちになりたかった。

小学生の頃だから、銀行に行けばお金がたくさんあると思っていたのだと思う。

中学、高校の頃は、ジャーナリストや新聞記者。

歴史や地理が好きで、中学生の頃から全国のユースホステルを泊まり歩いた。

マイシーツがあると2,000円で泊まれたので、ホステルシーツというマイシーツをクルクルと巻いて持って行った。

歴史や地理を学ぶうち、大学生なって教職者を目指すようになった。

それも、両親が自由にさせてくれたお陰かも知れない。

父は、産まれて100日で父親を亡くし、親戚中を転々として育ったため、進学したくてもできない環境だった苦労人。

そのため、子供たちは自由に勉強させてやりたいと考えていたという。

だからと言って勉強を強要されたことも無かった。

母も、真面目であったが厳しいというよりは自由に育ててくれた。

時に間違ったことをすれば叱られたが、自由にして認めてくれたのだ。

人は産まれてから不安の中で生きている。

野生の動物は親離れが早いが、人間は少なくとも16歳までは保護者の庇護の下に育つ、長ければ大学卒業するまで、それ以上もあるだろう。

結構長く、養ってもらっている訳だから、独り立ちするとなると「この世の中でやっていけるだろうか?」と不安になる。

そんな時、大人たちに自分の活動を再検証してもらうと自信に繋がる。

「あなたはやっていけるよ!こういうところがいいよ!」など、「出来た!出来た!成り立った。」の積み重ねが、不安を自信に変える。

その自信が付いたところを伸ばせば生きていけるのだ。

また、多くの大人も不安を抱えている。

生活の不安、人間関係の不安、孤独の不安、これには人の認証が必要だ。

教師になって思ったが、表面をとって下手に褒めても子供たちには通じない。

深く評価することが、本当の能力を伸ばすことになるのだと思う。



◆毎日欠かさずしていることはありますか?

晩酌

自宅で、焼酎のお湯割を飲むのが楽しみだ。



◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

良寛和尚

子供の頃は、「子供好きなおじいちゃん」というイメージだったが、伝記や生き方を調べると奥が深い。

特に、立松和平氏の書いたものが読みやすく、好んで読んだ。

今では「全国良寛会」に所属し、講演などを聞くことがある。

学ぶところは多くあるが、「およそ災難に遭うべき時は災難に遭うが良く候、 死ぬべき時には死ぬがよく候 。 これはこれ災難を逃れる妙法にて候」という言葉が印象的だ。

これを初めて聞いた時は、「なんてことを言うのだ。」と思ったがそうではない。

自然の力は人間の想像を超えている。

畏敬の念を抱かざるをえない。

独自の解釈ではあるが、特に最後の「これはこれ災難を逃れる妙法にて候」について言うと、人は災難に逢うと「なんでこんな不幸が自分に起きるんだ!」と思う。

あの時のあれが悪かったのではないか、とあれこれ考える。

「ご先祖様を敬っていなかったからだ」と思い、宗教に走る人もいるだろう。

しかし、災難が起きた時は、まずそれを一旦受け入れることが大事なのではないかと思うようになった。



◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

「期待しつつ期待しない」

人生の多くは、人間関係が基本で、大いなるポイントだと思う。

心情としては、その人に期待する。

期待しなければ、関係性が生まれないだろう。

しかし、期待したからといって、どんな結果になろうとも悪く思わない。

どの結果も「ありえるんだ。」と受け入れる。

「期待しつつ期待しない」を念頭において人付き合いをすると、裏切られたとか、ひどい仕打ちを受けたとか思うことがなくなる。

人を恨んだり、トラブルに固執するエネルギーは、物凄い。

そのエネルギーから良いものは生まれないだろう。



◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

2つある。

一つ目:小学校低学年の時、昭和27か28年の頃。

東京下町の深川小学校に通っていたが、当時、4階建ての校舎の2階より上には戦争被災者が住んでいた。

外は晴天なのに、窓からポタポタと雫が落ちてくる、見上げると「おしめ」が干してあった…。

そんな環境だ。

ある日、先生が「皆さん窓の外を見てはいけませんよ。」と言った。

1日か2日間だったと思うが、昔は先生の言葉は絶対だったので、誰一人窓の外を見ることはなかった。

大人になり同窓会で、どうしても気になって当時の理由を先生に尋ねた。

すると、先生からの驚きの答えが返ってきた。

実は当時の校庭には、昭和20年3月10日の東京大空襲で無くなった人の骨が埋まっていた。
それを別のところに写すために掘り起こしたのだという。

およそ10万人の遺体を埋めるところがなく、とりあえず各地の校庭に埋めていたらしい。

それはそれは物凄いショックだった。


二つ目:

同じく小学校の低学年

担任の先生が、「三親等で亡くなった方がいる人は手を上げて下さい。」と言った。

私は対象者ではなかったが、クラスの半数以上が手を上げている。

「そんなに亡くなったのか。」と怯え、今もどこかトラウマのように残っている。



◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

大学受験で一浪した時。

この一年間は、新聞配達の住み込みの仕事をしながら勉強したのだが、最初はこの先きちんと生きていけるだろうか?と不安でしかたなかった。

朝早く起きて、新聞に広告を挟む仕事を黙々としていると、「もし万が一、このまま何年も大学に合格できなくても、新聞配達の仕事は今出来ているのだから、この先も生きてはいけるな。」と思えるようになった。

そう思うと冷静になれた。

「もう一回チャレンジしてみろ!」とお墨付きをもらった感じがした。

そのお陰で翌年には合格できた。

このとき、冷静になることが解決策になることを学んだ。



◆夢は?

戦争を世界中から消す!

人はいつか死ぬが、人が起こしたことによって死ぬことは避けたい。

自然災害や病気は、恐怖だが受け入れるとしても、人災は受け入れがたい。

戦争を起こさない!憲法第9条を守ろう!という活動をしている。

今年で、日本は戦後65年になるが、先進国の中で65年も戦争に参戦していない国は日本だけだ。

これを守ることが人を守ることになる。

この活動を続けたい。

津久井 清ホームページ
http://www.linkclub.or.jp/~ktsukui/index.html