株式会社 浪越指圧アソシエイツ
代表取締役
浪越 孝氏
2011/3/11 14:00
◆業種
指圧業
◆子供のころになりたかったものは?
1、花屋
幼稚園の頃、花が好きで、お花屋さんになりたかった。
花はどれも好きだが、特にバラの花びらがより多く重なったように咲く「ラナンキュラス」が好きだ。
帝国ホテルプラザの浪越孝SHIATSUサロン本店にはいつも綺麗な花を飾り生けてもらっている。
祖父も花や綺麗なものが好きで、いつも花に囲まれていた。
祖父、祖母、父のお墓参りには、特別にお願いした花束をたむけている。
2、野球選手、空手・格闘家
小学生は野球少年、更に小学6年生になると空手を習い始めた。
祖父の内弟子さんに、空手の極真会館本部道場指導員をされていた堀田裕晴師範という方がいて、その方から直々に教えてもらった。
当時、内弟子さんの寮は自宅近くに併設されていたので、堀田師範から空手だけでなく「男は強さとやさしさの両方が大事だ」と精神面も教えてくれた。
今でも、堀田師範とは良く話をする。
小学4年生の頃、祖父に連れて行ってもらったブルース・リーの「燃えよドラゴン」を観て以来、中学生になると益々「強い男」ブルースリーに憧れた。
中学ではラグビー部に所属し、帰宅すると連日、寮生の誰かしらを相手にキックミット、パンチングミットで受けてもらい、一人の時はサンドバック相手にパンチと蹴りの練習を繰り返した。
部屋はブルースリーのポスターだらけだった時代もある。
3、ロックバンド
高校生になるとロックバンドを結成した。バンド以外にも相変わらず空手の稽古は続けた。
打撃のオフェンス・ディフェンス共に磨きをかけるため、ヨネクラボクシングジムにも通った時期がある。
今でも音楽が好きで バンド仲間とオリジナル曲を作り、たまにはライブもしている。
「指圧の心」というオリジナルソングをオルゴールバージョンでCDも出し、パートナー指圧、赤ちゃんのスキンシップベビー指圧の講演時に流している。
4、経営者、サーファー
家業を継ぐため経営を学ぼうと、経済学部に入学したが、サーフィンに夢中になった。
現在もサーフィンで体幹を錬る重要性はとても大切だと思っている。
5、指圧師
大学生になると、寮にいる内弟子さんたちと同じ年頃になる。
大学一年の終わりに、同年代の人間に何だか先を越されたような気がして指圧の道に進むことを決意した。
当時は、寮に一番多い時で50人くらい住んでいて、指圧の創始者である祖父は、地方出身者に対してとても面倒見が良かった。
例えば、桜の季節になると、全員を引き連れて、千鳥が淵に花見に行く。
常に祖父が言っていた「母ごころ」という言葉の意味、即ち、その寮生一人ひとりのお母様だったならば、患者さんのお母様であったならば、どのように愛情をもって接するであろうかという気持ちで、現在もすべての人に接している。
「母心」とは見返を求めない無限の愛情だ。
そんな祖父の姿から、母心、指圧の心を学んだ。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
セルフケア指圧
起床時、就寝時に、自分の家族だけでなく、自分の友人たち、お世話になっているすべての人々、世界中の人々が健康で元気で幸せになる事を祈りながら、 自分で自分の体を指圧する。
その日の体調もわかるし、いつでもどこでも出来るので体調管理に重宝している。
同時に感謝の気持ちを忘れない。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
人物:ロッキー青木氏
本:ロッキー青木著「MAKING IT IN AMERICA」
祖父や父以外で、大変影響を受けた方。
指圧を世界に広めるため、23歳の頃カナダのトロントにいった。
「あんまマッサージ指圧師」の資格をとって直ぐのころだ。
現地の日本人とレストラン「紅花」に食事をしに行ったところ、創設者のロッキー青木氏がいらした。
現地日本人の方が、ロッキー青木氏と同じ慶応大学レスリング部の後輩だったこともあり、話をする機会がもてた。
ロッキー氏はトロントに訪れるのは13年ぶりだという。
その後、今度はニューヨークでも偶然お会いし、意気投合。
広い世界の中で、2度も出会うとはよほど縁が深いのだろうと思う。
それから懇意にして頂き、とても可愛がってもらった。
日本に住む、ロッキー氏のお母様の指圧を頼まれた。
ロッキー氏を始め友達が、一番大切な人を指圧してほしいと言ってくれることが、本当に有り難い。
ロッキー氏はレストランチェーン経営の成功者であり、更にはレスリングやパワーボートを得意とするスポーツマン、気球に乗って太平洋を横断する冒険家でもある。
そんなロッキー氏の男らしさに憧れる。
私の人生に「火」をつけてくれた人だ。
本を読んで素晴しいと思う人物はたくさんいるが、自分の目で会って確かめて更に素晴しさを感じた。
ロッキー青木さんからプレゼントしていただいたサイン入りの本は今でも宝物として持っている。
祖父は、ユニークで豪快な人、他人の悪口は一切聞いたことが無い。
仕事には厳しく、特に私は跡取りとして弟子として一段と厳しく指導された。
しかし、ふたりきりの時はやさしく、「おじいちゃん」と呼びながらゆっくりお酒を飲んだ。
その祖父から、「異業種の友人をたくさん作りなさい。仕事の話ばかりではなく社会常識を学ばないといけない。」と言われていたお陰で、友人や御世話になった方はたくさんいる。
また、祖父を「動」とすると、父は「静」。
とても紳士で、オシャレでやさしく真面目な人だった。
ダンディズム、インテリジェンスという言葉が似合う。
それを背中で見せてくれ、母を始め、家族をとても大切にしてくれた人である。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「発心・実行・継続」
物事を成就させる三原則として、まず心に思う、次に実行に移し、それを全て止めないで継続すること。
祖父の教えだ。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
平成13年に会社を設立し、平成17年、会社の代表取締役になった時。
私の人生は、平成17年から始まったと思っている。
だから、今は6歳、やっと小学生になったばかりだ。
そう思いながら仕事をしている。
平成13年までは、浪越学園 日本指圧専門学校で副校長の職にあった。
教員をしている時から、指圧を世界に広めるため、やりたいことがたくさんあった。
「人が喜んでくれることは何か。」常に考えている。
大事なことは技術とスピリットだ。
代表取締役になる前は、できることに限りがあったが、代表者になってからは、やりたいことにトライすることが出来るようになった。
良くも悪くも責任を取るのは自分だから。
気を引き締めて、人類の「健康寿命を延ばす」ことに取り組んでいる。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
大変なことは色々あった。
そんな時は、「なるようにしかならない」と思う。
同時に出来ることを全力投球でやる。
先輩から「考えてどうにかなることは考えてもいいが、考えてどうにもならないことは考えなくても良い。」と教わったことがある。
平成6年、私が31歳の時に父が亡くなった。
予想もしない突然のことだったから、組織の事など大変なことは色々あったが、父に「生き返ってくれ」という訳にはいかない。
そんな時は、祖父と相談しながら「父が生きていたら、どのように考えるだろうか」ということを、原点に置いてやってきた。
そういうふうに考えれば、道を間違えることはないと思ったからだ。
その祖父も平成12年に亡くなってしまった。
そこで平成13年に、子供の頃から傍にいてくれた恩師でもある内弟子の藤井正弘氏と会社を興した。
藤井さんとは、もう直ぐ50年来の付き合いになる。
自分一人では何も出来なかっただろう。
そういった方々や、友人に恵まれたことに感謝している。
◆夢は?
日本で生まれた指圧を、WHOに加盟している 193ヶ国にグローバルスタンダード(国際統一基準)の教育プログラムを作って広める!
一般財団法人「国際指圧普及財団」の理事長を拝命し、普及に努めている。
「指圧」という言葉と技術は祖父が作った。
それが、オックスフォード イングリッシュディクショナリー(大英事典)に日本語の医学用語として、ただひとつ「SHIATSU」として載ったときは、祖父と父と手を合わせて喜んだ。
世界的に指圧が認められたことになる。
指圧の起源は、祖父が、リウマチになった母を少しでも楽にしたいと、看病し、6歳の時に指で押すと痛みが和らぐことを体験から習得したことに始まる。
そして、そこに笑いが伴うと更に病状が良くなることもわかった。解剖学も生理学も学んでいない幼い6歳の少年が、指圧の礎を築いたことは、まさしく天才であり、奇跡だと思っている。
「指圧の心、母心、押せば命の泉湧く」
祖父が指圧を創始し、父、徹が医学的要素を取り入れて体系化した。
これを広げることは、私の夢であり、使命でもある。
世の中の人々が、健康で元気な100歳を迎えることができるように!
それが人々の幸せに通じると思っている。
株式会社 浪越指圧アソシエイツ
http://www.namikoshi-shiatsu.co.jp/index.html
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