「大丈夫の定義」で溢れだす!世直し貢献王



株式会社シーメット医総研 

代表取締役 

中野 隆男氏

 2011/4/13 1630


中野隆男

 

◆業種

 
医療コンサルタント


◆子供のころになりたかったものは?

岸信介総理大臣
 
6歳の頃の総理大臣が岸信介氏だったので、そう言っていた。

総理大臣になって、世の中の役に立ちたいと思ったからだ。

そう思ったのは両親の影響が大きい。

両親共に、人の役に立つことを常に実践していた。

特に母は活動的で、政治家の応援演説を進んで努めた。

派閥や政党に関係なく、これは!と思う人物に駆けつけた。
 
村の時には、村長選にリヤカーで応援し、市になってからは、市長選、市議会議員、県議会議員、衆参両議員など母が応援演説した人は必ず当選した。

母の兄弟姉妹は皆、経営者や企業の部長職であったり、政治家や学校の先生などであった。
 
母の母は、夫が大酒のみでも文句も言わず、言われるままに酒を買って飲ませ、子供たちには「お父さんのような人になるな。」などと夫を悪く言わなかった人だそうだ。


そのため、貧乏だったようだが、皆、しっかりと勉強し、大成したのだと思う。

 

このおばあちゃんが、とても出来た人で、特に私は好きであった。

 

とても誉めるのが上手な人で、すぐにおだてられてしまった自分がいた。

そういう母に育てられたからだろうか、母の兄弟は皆社会で活躍している。

母親の影響は大きいものだ。

その背中を見て育った。

私も母の影響を受けて今、政党の垣根を越えて文京区議などの応援演説もしている。

また、「政治を近くする会」を主催し、皆で国を少しでもよくしようと話し合う場を作っている。

私の基準は、良か悪いかではない。

良し悪しは、人の都合によって異なるから基準がブレる。

いつも、あったかいか、冷たいかで判断している。

その“あったかい“は、自分にあったかいのではなく、人にあったかいかどうかで判断する。

人にあったかい人生が私の目標だ。

人はいつ死ぬかわからない。

しかし、どうせ死ぬのだからと何もしない人生だったら、死ぬ時後悔するのではないだろうか?

いつか死ぬ、ということを踏まえて毎日24時まで、前向きで真剣に生きる。

そして翌日を向かえ、繰り返す。

今日の連続を真剣に生きるのだ。

24時を迎えないうちに明日のことを言うな、と言いたい。

人は、「楽しい人生」に向かって生きていないと、その存在の意味さえもがない。

事業もお金儲けも、人の役に立つことを考えて行動を起こせば、目標を達成できると真顔で考えている。



◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 妻に「おはよう!」と挨拶をすること。

家庭貢献の実践として、自分からコミュニケーションを図るよう心がけている。



◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

塚本 博先生

小学校3年と4年の担任だった。

何か悪いことをすると、罰はくすぐり。

誰でも分け隔てなく、やる気を持たせてくれる先生だった。

おそらく、皆「自分がひいきされている」と思っていただろう。

常に授業に遊びを取り入れ、職員会議をサボって“どじょう取り”などに連れてってくれたこともあった。

そして、その“どじょう取り”を放送劇にして構内で放送したりした。

台本作りも出演者も子供たち。
 
とても楽しく、皆が意欲的に取り組んだ。

できる喜びを教えてくれた人だ。



◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

忠恕(ちゅうじょ)

忠は誠、恕は思いやりの心だ。

孔子が弟子の子貢に言った言葉。

私は性善説だ。

そして、人を信じることが、人を裏切らせない方法だと思っている。

そこには、誠意と思いやりがあってこそだと思う。



◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

最初の妻が「がん」になった時。

妻との出会いは、私が病院で事務職をしていたときだ。

一年遅れて入ってきた妻に、私が一目惚れをした。

月に一回、食事やドライブをする程度のお付き合いが4年程続いたが、どうしても彼女を他の人に渡したくなかった。

一途に思い続けて結婚したその妻が、がんに侵されているとわかった時、私の中でスイッチが入った。

そこからモーレツに勉強し、医療改革を進めた。

5年後に妻は亡くなってしまったが、この転機がなかったら当時勤めていた病院を大きくすることもなく事務職に甘んじていただろう。

高校2年の初めのある日、突然、血尿がでて一ヶ月くらい入院をした。

検査のために入院したのだが、何処にも悪いところが見つからない。

原因はよくわからず「青春病だろう」と言われ退院した。

ところが学校に戻っても、高校2年の大事な時期に一ヶ月も学校を休んだため、授業が全くわからなくなってしまった。

やる気をなくし、それまで進学校400人中10番ほどにあった成績がどんどん下がっていった。

3年生になって100番以内に入るくらいに盛り返したが、希望の大学に合格できなかった。

浪人生になって3ヶ月ほどたったとき、母を通して病院の事務の仕事をしないかと話がきた。

「病院は倒産しないから良いのではないか」という母の勧めで面接に行ったが、「自分は大学の経済学部を目指しているので勤められない。」と断って帰ってきた。

それでも又、働かないかと声をかけてくれた。

それも断ったにもかかわらず、まだ誘ってくれる。

3度目の正直と思って「夜間の大学に通わせてくれるならば」と言って入社した。

病院事務は、レセプト(診療報酬明細書)が全て手書きの時代だ。

点数も自分で記憶するか、都度調べなくてはならない。

私は、夜間大学に通いながら患者さんの名前や取引先の電話番号、診療単価や薬の点数など全てを暗記した。

先輩からは重宝がられ、いつも「中野君○○は何点だったっけ?○○の電話番号は?」と聞かれていた。

当時は、これもお役立ち!と思っていたので、病院のシステム改革などはそれほど考えていなかった。

ところが、最愛の妻ががんになって医療の本質を追求していくと色々なことがわかった。

がんで亡くなる人は1年で30万人。

これは全体の30%に当たる。

次いで心疾患が16%、脳疾患が13%、肺が10%、不慮の事故3%、自殺3%、老衰3%、その他22%となる。

なんと、この比率は昔も今もあまり変わってはいない。

なぜ「がん」が減らないのか?

改革案がどんどん出てきた。

医療事務をコンピュータ化して効率を図り、その分を、リハビリテーション科や病気にならないための手立てを考えなくてはならない。

自らコンピュータを学んで、自分で医療事務のソフトを作った。

昭和45年の頃だから、今のようにパソコンが普及している訳ではない。

もちろん携帯電話もない時代だ。

一から一人で、患者さんのデータ入力や、配線やスイッチの入れ替えなども全て自分でおこなった。

 

病院の診療科目を増やし、システムの充実を図っていくうち病院は大きくなり、昭和60年の頃には80人の部下を持つようになった。

新入社員には、コンピュータの専門書を1ヶ月間読ませ、その後指導してある程度できるようになると一切を任せた。

そうすることによって、皆が意欲的に楽しんで仕事をできるようになるからだ。

このことは、小学校の塚本先生が教えてくれたお陰でもあろう。

また、「ガスター10」という潰瘍薬が世に出るまでは、胃潰瘍は手術でなければ治せなかった。

外科を中心とした総合病院だったので、ガスター10が出来てからベットに空きがでるようになった。

妻がガンに罹患したこともあり、何かをしないわけには行かない自分がいた。


健康管理センターを作って早めの発見をしてあげたい、と本気で思った自分がいた。


そこで理事長に、「6人部屋を2部屋、私に任せて下さい。」と申し出た。

人間ドックを専門にした部門を作ろうと思ったからだ。

一部屋はロビーとし、もう一部屋はベットとして使用する。

まず手始めとして、看護師と事務を連れ立って赤坂プリンスに泊まりに行った。

ベットメーキングを全てはがして、元の状態に戻して仕組みを学び、ホテルマンからおもてなしの心や、レストランから食事のメニューを学んだ。

また、鬼怒川の金谷ホテルにも常務と一緒に泊まりに行って一流のおもてなしを学んだ。

その学びのお陰で、評判を呼び、人間ドックは一年で9000人、健康診断は3万5000人もの人が受診するようになった。

そうやって病院改革、医療改革をしていくうち、病気になった原因をなくさなくては治らないことに気付いた。


健康な身体は、食からであり、健やかな心や、痛みの無い体、豊かな人間関係などから作られている。

なぜ不健康になったのか、原因を追究できるのは自分自身だ。

医療は病院ではなく、自分が中心、自分が主治医であり、病院の医者はその課程で痛みをとり、症状の緩和をすることに協力する役割なのではないかと思うようになった。

心と体のバランスをトータルに考えていかなければならない。

そんなことを提案するうち、群馬の4つの病院で勉強会が始まった。

それが拡大し、県内150の病院のうち、94の病院が集まり、病院医事連絡協議会が設立された。

 

その初代会長を私が務めさせて頂いた。

私は医師ではないが、日本病院会の河北 博文副会長(当時の役職名であり、頃は、平成の初期)のお声掛けで、社会保険老人保健委員会のお世話役の委員となった。

 

その後もあらゆるところから、講師として招待された。

それらが、現在の医療コンサルタントとしての仕事を確立させることとなった。


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

問題は今、全ての人を「あったか人間」にするために宇宙の住人として、地球の環境問題やエネルギー問題、教育や政治を含めた本質の改革が必要だと考えている。

エセではいけないのだ!

医療コンサルタントをしているうちに「がん」やアレルギーが一向に減らないことにも疑問を感じている。

問題は今、進行形だ。


◆夢は?

今の国のしくみを総合的に再チェックして、国会議員は「地方議員の会」で作ればよいと考えている。

そして、世の中を大丈夫の定義でいっぱいにしたい。

私の考える「大丈夫の定義」とは、内なる心の中の気が充満して外に溢れる状態だ。

外に溢れるくらい、善の暖かい気が充満している心には、悪が入る隙間がこれっぽっちもないからだ。

そして、「大丈夫」という言葉は、主治医(自分)にとって一番大事な処方箋だと思っている。


株式会社シーメット医総研

http://cimeto.net/

 

政治を近くする会

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