ただいま葛飾区を建て替え中!葛飾区に選ばれし王



葛飾区区議会議員 

米山 真吾氏

 

2010/07/13


米山真吾

 

 

  業種


 政治家

 


◆子供のころになりたかったものは?  


高校生の頃から建築家になりたいと思うようになった。

建築は、何もない土地に建物が建つように「無から有を生む」仕事だ。

自分で何かを作り出したいと思った。



◆毎日欠かさずしていることはありますか?

 PC・メール等



◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

山岡壮八著「徳川家康」

全26巻「世界最長の小説」としてギネスブックにも載り、海外でもブームになった。


家康の家臣が、時には家康の気持ちを汲んで嫌なことをやってくれ、また時には支える。

そして、それに対して応える家康などが描かれている。

特に、人間との関わり合いに感銘を受けた。

それと同時に、リーダーになるには資質も必要なのだと感じた。

今思えば、父が会社を経営していたこともあり、潜在意識レベルでだが自然と家康サイドから物事を考えていたのかも知れない。

大学生の時、はまって読み進めた本だ。



◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

鶏口牛後(けいこうぎゅうご)

「大きな組織のしっぽになるなら、たとえ小さくても頭になれ」と、子供の頃から何とはなしに父から教えられた。



◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

会社の経営者から政治家に転身したとき。

大学を卒業し、ゼネコンの設計部に入社した後、一級建築士の資格を取得。

年が若かったせいもあり、ベテランの現場監督と意見が合わずによくやり合った。


設計者側からすると、お客様との打ち合わせを進めながらデザインや構造・設備を重視するが、現場監督は当然利益を上げていかなければならないので、様々な努力をする。

 

だが、例えばタイルの色についても打ち合わせしたものと品質は同等でも色味が違うものがでてくる。

 

そんな時「それは違う!」といった議論をたくさんした。

 

いい経験だったと思う。

そのころはバブルがはじけ、業績が落ち込みリストラも進んできたこともあり、社内に覇気が無くなっていた。

そのため自分自身、今後のことを考え、これを機に会社を退職し一級建築士として独立することを決意した。

父の不動産会社とタイアップして会社経営に乗り出した。

独立して5年経った頃、青年会議所に葛飾区議会議員が入って来た。

彼は私より年下であるが、とても気が合った。

その彼が区長選に出馬する時、私に「米山さん!葛飾区議会議員になって下さい!」と言い出した。

私は、父の会社を継ぐことが決まっていたし、その準備を進めていたところだったので即決で断った。

ところが彼は諦めず「ぜひ、ぜひ」と言って迫ってくる。

しかし、お金もかかるし未知の世界に飛び込む気はあまり無かった。

それでも事あるごとに、「真吾さんしかいない。」「真吾さんが一番ふさわしいと思う。」などと私を口説く。

妻が大反対だったこともあり、自宅にも説得に来た。

誘われ続けながら半年経った頃。

高校生の頃から、地域の課題として「自分が住んでいる葛飾区の評価が低い」と何とかしたいと考えていたこともあり、政治の道に進むことを決意した。

向いているかどうかは周りの人が決める事、決めた以上、一人でもやり通す覚悟で始めた。

決意するまでは非常に慎重であるが、「やると決めたら最後までやる!」のが信条である。

この慎重さが身についたのは、子どもの頃の体験だと思う。

生活が大変厳しい時期もあって、最後に頼りになるのは家族で、 この時期に家族の結束力が物凄く高まった。

今でも、何でもの言い合い協力し合う家族である。

そういう体験を踏まえて「絶対に、どんなことがあっても自分の子供や家族にあんな思いはさせない。」そういう気持ちが根底にある。

だから、退路を断つようなことはしない。

「退路を断つ」ということはカッコよく聞こえるかも知れないが、守るべき家族を守れなくなる恐れがあるからだ。

守るべきものを守ることは、とても大事なことだと思う。

区議に出馬するに当り、直ぐにでも継ごうと思っていた会社は、父に「生涯現役でやってくれ!」と頼み、宅建主任者の資格を取得した妻にも会社を手伝ってもらうことにした。

選挙活動は、自ら一軒一軒チラシをポストINするところから始めて、現在は区議も2期目になる。

今では妻も地域活動やPTAなど、責任ある立場をこなしながら、支えてくれている。




◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

富山県の豪雪地帯で受けたカルチャーショック

ゼネコン時代に、地方の現場にいって仕事をしたことがある。

富山県の豪雪地帯だ。

そこに、「おばあちゃんの土方」がいることでカルチャーショックを受けた。

農閑期のこの地域にとって珍しいことでは無いという。

その時、現場の底辺を見たような気がした。

そんな私は、最初は現場で受け入れてもらうことが出来なかった。

しかし、一緒に泥まみれになって働き、時には一緒にサウナに入るなど裸の付き合いをして行くうち、やっと受け入れてもらえるようになった。

東京にいたら、とても体験できるようなことではない。

良い体験が出来たと思う。



◆夢は?

今の仕事で実を結びたい!

公言したことを実現して、町の人から「生活しやすくなった」「良くなった」と喜んで貰えるようにしたい。


米山真吾ホームページ
http://www.yoneyama-shingo.com/