田島総合法律事務所
弁護士
田島正広氏
2011/2/14 10:00
◆業種
弁護士
◆子供のころになりたかったものは?
弁護士、政治家、技術者などに憧れていました。
大学進学時には、最終的に法曹界かマスコミと思って法学部を選びました。
弁護士を志望した背景には昔司法試験受験歴のあった母の影響があったかもしれません。
母は、普通の主婦でしたが、法律事務所勤務経験があったこともあってか、法曹界は身近に感じていたように思います。
ただし、母から弁護士を薦められたことはなく、父も母も私にやりたい事をやらせてくれました。
大学進学後もそれ程直截的に司法試験を意識していた訳ではなかったのですが、大学2年生の時に、TVのニュースで、裁判所から駆け下りてくる原告団弁護士が手にした、「勝訴」の二文字を見て喜びのあまり泣き崩れる被害者原告団の姿を見て、こうした思いを共有できる仕事の素晴らしさを改めて感じました。
熊本地裁の水俣病事件の判決だったと思います。
この頃から、具体的に弁護士を志すようになりました。
大学4年生の頃はバブル真っ只中で、就職しようと思えば就職先には恵まれていたのですが、私は就職活動には目もくれずに受験勉強に勤しんでいました。
決して経済に明るかった訳ではありませんが、悪質な地上げも散見されたバブルの時代がそのまま続くなどとは思えず、反面、次の時代に生き残るのはどこかなど見当も付きかねる中、初志をひたすら貫徹した訳です。
今の時代は、就職氷河期とも言われますが、いつの時代でも自分の志をどこに見いだせるかは重要です。
周りに流されることなく、自分の志に従って生き抜いてほしいものです。
とは申しても、自分だけの力でここまで生きて来たなどとは思ってはいません。
弁護士としての自分の出発点である司法試験合格を28歳で果たすまで、文句一つ言わずに応援してくれた父母には、本当に感謝しています。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
自宅から少し離れた遠くの駅まで15分程歩いて、その売店で野菜ジュースを買うことでしょうか(笑)。
私はトマト系の野菜ジュースが好きなのですが、お店では売れ行きがよくないらしく、なかなか置いてもらえません。
どちらかというと、フルーツの入った野菜ジュースが流行っています。
そこである日、その売店のおばちゃん(親しみを込めて店員さんを「おばちゃん」と呼ばせてもらう)に「毎日僕が買うから」とフルーツ抜きの野菜ジュースをリクエストしたところ、「あまり売れないのよね」と言いながらも、リクエストに応えてくれたのです。
これは買わないと行けないと、毎日買い出しに立ち寄るようになり、出張などで立ち寄れないときは翌日2本買いしています(笑)。
私は、母を十数年前に亡くしているので、世代的に当時の母の雰囲気に近いおばちゃんとの世間話を通して、母を感じているのかも知れませんね。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
自分の支えになった、あるいは自分を変えた人物を特に挙げるとなると、真っ先に挙げるべきは恩師の先生方ということになろうかと思います。
いずれも言葉でどう変えられたというものではなく、むしろその後ろ姿から行間で学ばせられるようなものでした。
すなわち、高校の恩師には、学問に向かう姿勢の真摯さを教えられ、大学の恩師には、学問の前にあるべき礼節と人の道を教えられました。
そして、最初に勤務した法律事務所のボスには弁護士としての徳を教えられました。いずれもその後の私の人生において、血となり肉となっていると思います。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「精神一到 何事か成らざらん」
しっかりと物事に集中すれば、何事も成し遂げることができるという意味です。
小学生の頃に母から聞いたような気がしますが、今では私の「座右の銘」になっています。
2、「志」
常に自分を試す言葉です。
志をどれだけ重んじて行動できるか、常に振り返りつつ、自分の歩むべき道を見失うことなく全うしたいと思っています。
自分は何をするために、今この場所にいるのか?志した以外のことを我慢して続けるのではなく、志を優先してこそ豊かな人生だと思っています。
その意味で、これからさらなる転機を意識することもあるのでしょう。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
1996年4月に弁護士となり、勤務弁護士として仕事もプライベートも充実していたのですが、企業法務中心の仕事が続く中、自分が弁護士を志した原点をやや見失いかけていたようにも感じていました。
そんな中、ちょうど幾つかの契機が重なって自分の人生の転機となったように思います。
一つめが、1999年に妻と出会って結婚を意識した時です。
その翌年に妻と結婚したのですが、結婚を意識した時から家族を養う責任を自覚するようになり、10年単位で自分の歩むべき道を考えるようになりました。
それまで事務所事件として特化した分野に取り組んで来たのですが、狭い範囲の専門家であることのリスクと、それ以外の分野で自分が応えていかなければならないニーズの存在とそこでの自分の可能性を考えたとき、より幅広く様々な分野の業務を取り扱うことの必要性を感じるようになりました。
そして、勤務先事務所のボスに了解を得て給料を減額してもらうと共に、自分の事件の取扱いを増やすようにしました。
このことは、企業分野ばかりではなく、個人も含めた様々な事件への取組のきっかけとなったように思います。
自分は母の影響でしょうか、あまり小言を言うタイプではないのですが、さすがに辛い経験をした時など、妻のフォローはありがたいものでした。
家庭を得て将来への責任を自覚すると共に、家族からのフォローももらって、弁護士として一回りも二回りも大きくなれたのではないかと思います。
二つめが、同じ頃インターネット上の人権問題に関する相談に直面した時です。
この頃、インターネット上で匿名をよいことに誹謗中傷をしたり、プライバシーや著作権を侵害する事例、さらにはネットオークションでのトラブルなどが問題になりました。
ことに名誉毀損事案については、投稿者側の表現の自由と書かれた側の名誉権が先鋭に対立する場面ということで、相談受付機関も当時は見当たらない状況でした。
こうした問題については、表現の自由は、本来国や地方公共団体から表現行為に干渉されない自由である訳ですから、その国が「あなたの表現行為は濫用に渡っているから止めて下さい。」と申し入れするのは微妙な問題を残すことになります。
そこで、むしろ民間の第三者機関として、こうした問題の受け皿を作り、義務ではなくマナーの次元でこうした問題を解決しようという機運が仲間内で高まり、意を通じた官僚やマスコミ関係者、企業家たちと一緒に2000年にNPO法人を立ち上げ、自身も理事長として全面的にサポートしました。
私はインターネットで利益を上げる企業の負担の下に、こうした運動を応援してもらいたかったのですが、残念ながら日本はどうしても官優先で、民間の運動の輪が広がりにくいところでもあります。
実際、その後数年のうちに警察庁や法務省がこうした問題の相談を受けるようになったことから、私達のNPOはその存在意義を果たしたとの認識により活動を終了することになりました。
ただし、私自身は、行政がそうした問題に取り組むに当たって、本来許されるべき表現行為が不当に制約されることのないように、特に表現行為者側が萎縮して本来許されるはずの表現を自粛することがないように、表現の自由の価値を最大尊重して、どのような表現行為が濫用に渡る表現行為なのか、その線引きを明確化していくべきと思っています。
そこで、行政側からこうした問題に関する懇談会への出席や講演、さらには問題表現への削除要請をすべきかの判断を求められるような場面においては、積極的にこれをお受けしています。
それ自体は決して収益性のある仕事ではありませんが、自身のポリシーとしてお受けしています。
三つめは、地元東京の青年会議所(JC)に誘われた時です。
私はJCには縁もゆかりもなかったのですが、地域に密着して貢献活動を行えると共に国家のあるべき姿を真摯に議論できる場として魅力を感じ、東京青年会議所に入会しました。
その後、千代田区委員会の委員長や理事などを経験しましたが、そこでの憲法論議が、ややもすると民族主義的な議論に流れがちなところを、弁護士ならではの持論である立憲主義、すなわち多数決でも乗り越えることのできない、より高次の法によって国家権力を拘束し(法の支配)、主権者国民の利益を擁護するという考え方でリードしました。
JCは40歳で卒業のため、私も既にOBです。
ですが、立憲主義的憲法観をしっかりその運動の方向性の中に根付かせることができたのではないかと確信しています。
と同時に、私自身の活動領域も、この経験を踏まえて、法律の分野から政治の分野に大きく広がったように思います。
法律家は法律解釈の運用によって社会をリードしますが、それは時として法律の改正を求める運動として行われなければならない時もあります。
どのような場面であっても、ひるむことなく立ち向かう気概を、このJCでの経験を通して得たように思います。
こうした経験を積みながら、2003年11月には弁護士として独立を果たし、現在の事務所を立ち上げるに至りました。
こうして作った事務所の掲げる理念は、「法の支配による公正な自由競争社会の実現」です。
公正なルールの公平な適用によって、正当な利益を最大限実現することを、専門家としてサポートするというものです。
法人から個人まで、どのような立場であろうと受任するように心懸けています。
幾つかの契機を踏まえて、見失いかけていた弁護士としての志を再認識し、方向性を明確にすることができたように思います。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
「人の和」を尊重して「感謝」の気持ちをもって解決してきたというのが最も的確な回答かと思います。
仕事でも、例えば弁護団を結集するような大事件になると、対応方針で弁護士同士の意見が割れたり、クライアントの納得が得られないといったことが起こります。
そんな時は、自身の意見は大事にしながらも、先輩弁護士にリードして助けてもらったりしました。
青年会議所でもメンバーの皆さんに支えられましたし、弁護士会の会派で幹事長を務めたときも同様でした。
論客が揃っているような場面であればあるほど、放っておけば百家争鳴になりがちですが、自身のリーダーシップが空回りしそうになる時ほど建設的な解決の方向性を意識した先輩や友人達のフォローがあって、初めて一定の方向性を見いだせるものです。
真摯な姿勢で臨めば、他の人達が救ってくれるものです。自分のリーダーシップは、人の和の上にこそ成り立つもの。
人の和にはいつも感謝しています。
同時に、こうした活動を最も身近で理解してくれる妻や家族には本当に感謝しています。
◆夢は?
「この国に住みたい!」と心から思えるような国にしたいです。同時に、誇りある国であってほしいと思います。
私は法律家ですから、人権保障は究極のテーマです。
と同時に、国から自由であればそれでよいというだけでなく、人間が、家族同士、隣人同士、そして社会の一員としてお互い支えあって、人間らしく生きて行ける社会にしていきたいと思っています。
その際、専門課題であればあるほど、自分の関わる場面も出て来るのでしょう。そんな時には、積極的に支えていきたいと思っています。
そうした底辺からの人の和が、誇りの原点になると確信しています。
田島総合法律事務所
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