株式会社建装
代表取締役社長
杉山 穣氏
2010/1/3
◆業種
建設業
◆子供のころになりたかったものは?
自動車整備士
幼い頃から機械に興味を持ち、組み立てることが好きだったため。
5歳位のとき、父のスーパーカブ(50cc二輪車)を分解して・・・というと聞こえは良いが、要するにバラバラにして壊してしまったらしい。
それ程、機械に興味があり、いじるのが大好きだった。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
1、魚の面倒を見る事
趣味で魚を沢山飼っていて、餌やりやコンデションを整えるのに手間がかかる。
日曜日は水変えに1時間半を費やす。
人様から言わせると趣味の域を越えて病気の域だそうだ。
幅約3m、水量3トンの水槽にアロワナを十匹、水深2m超あるプール池に錦鯉を数十匹、更に鑑賞用金魚を数十匹飼っている。
その上我が家の一室は、妻いわく「金魚部屋」と呼ばれている部屋もある。
孵化した金魚の稚魚3000匹の面倒を見るためだ。
孵化したばかりの稚魚は人のまつ毛ほどしかないので、毛仔と呼ばれている
そのため餌が大変で、ドライフードから24時間かけて生きた餌を作る。
しかし、それ程手間をかけても観賞魚になるのは10匹ぐらい、プロともなれば3匹程度が良いところだろう、趣味の域は超えられず、 商売としては考えていないとのこと。
2、朝の散歩
毎朝5:45に起床して、一番に郊外にある拠点に出社。
少しニュースを見た後で、近くの遊水池に散歩に出かけたあと6:30ころに戻って、倉庫、車の清掃などを行う。社員さんも30分ごろから集まり始め
おのおの決められた箇所の清掃や草刈などを始める。
7:00から全員でラジオ体操と朝礼をして社員さんを送りだす。
その後、戻って所要を済ませたあと本社に8時に出社する。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「人は人生で会うべき人に必ず出会う、しかも一瞬早すぎず一瞬遅すぎない時に」
この言葉を「その通りだなぁ」と思った時人生は変わっていた。
実は、10歳の頃に別れた実母がいるが、私が40歳になる10年程前まで一度も会ったことは無かった。
父からは、母のことを「お前たちを置いて出て行った母親だ」と聞かされて育ったため、それまで一度も会いたいと思ったこともない。
それなのになぜ再会をすることになったかというと、ある研修で自分を構成している要因は、生い立ちや親子関係が強く影響していることを知ったからだ。
そして、その研修仲間から「あなたのおかあさんは何か事情があって出て行ったのであり、決して子供を捨てた訳ではない。この世に自分の子供が可愛くない親などいないのだから、このままお母さんに会わないで死んでしまったら一生後悔する。」と言われたことがきっかけになった。
しかし、それでも中々母を許すことが出来ず、再会の決心はつかなかった。
そんな中、更に追いうちをかけるように、友人と飲みに行った席で、「杉山さんは女性に復讐しているみたいだ。」と言われた。
それを言われた時、「これは解決しなければ!」と本気で思うようになった。
妻も、母に会いに行ったほうが良いと言ってくれた。
結局、色々な伝をたどって再会した。
最初の頃は母を美化していたため、マイナス面には蓋をしていたが、再会から10年たった今、母も一人の不完全な人間なのだという思いにシフトしていくことが出来た。
母のマイナス面も受け入れ、限りなく普通の親子に近づいたと思う。
やっと呪縛から解き放たれ、傷が癒えた状態である。と言っても、まだ完治はしていない。
今まで流血状態だったところに、やっとかさぶたが出来たという程度だ。
母親の影響力は大きい。
父母の愛情を求め続けている子供にとって、失われた親子関係をどこかで解決、昇華しなければ、満たされることは無いだろう。
人生の中での人との出会いを考えた時、「人は人生で会うべき人に必ず出会う、しかも一瞬早すぎず一瞬遅すぎない時に」の言葉通りだなぁと思う。
一つでもタイミングがずれていたら出会っていないのだ。
今でも続けている研修に誘ってくれた高校の同級生との再会は、たまたま行った入札会場である。
この時の私は、「何かしなくては!」と考えていた時だったから、研修参加を10分で決めたものの、そういう状態で無かったら出会ってはいても研修に参加はしなかったかも知れない。
又、研修で母と再会するきっかけを作ってくれた人々とのタイミングも絶妙だ。
素晴しい人との出会いを実感した。
◆自分を変えた人物・本は?
日本創造教育研究所
代表取締役社長 田舞徳太郎氏
実母との再会も、きっかけは田舞氏が代表を務める研修である。
この研修を通して私の人生は大きく変わった。
40歳のとき初めて研修を受けてから、今までずっと関わってきた。
ファシリテーターという研修の御手伝いをもう10年ぐらい続けている。
私にとって、かみなりおやじのような田舞氏の影響は大きい。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
田舞氏の経営する会社の研修に参加したことが人生の転機だ。
そしてその研修の中でプレゼンをしたとき、私の評価はさんざんたるものだった。
その時、それまで積み重ねてきたものが「ガラガラ」と音をたてて崩れた。
考え方そのものを否定され、「愛情不足、弱い人間、思いやりのかけらもない、勘違いの人」と評価された。
もう頭の中が真っ白になり、誰かにすがりたいと思った。
しかし、どうにもならない。
勇気をもって周囲の人に意見を求め、寝ずに考えた。
もう無になってこだわりを捨てるしかない。
ボロクソだったが、その評価を受け入れた。
今、これを跳ね返したら何も変われない、受け入れることで初めてスタートラインに立てるのだ。
言い訳をして跳ね返し、原因を他に向けたのでは変われない。
自分に原因があり、自分が悪いと思った瞬間人は変われる、どう変わるかはその後にその人が決めることだ。
お陰さまで、最終的に2度目のチャンスでなんとか合格できた。
その時の頭の中は、「精一杯やればいい。」というチャレンジ精神で素直に望んだ。
これらの研修は、メンタル面だけでなく経営者としての学びも多かった。
世の中には多種多様な業種があるが、どんな規模のどの業種も「取り扱うサービス、商品は違えど経営自体は同じ」とういうことだ。
どんな職種にも人が関係し、理念や想い、人間関係、財務体系で成り立っている。
この経験や指導が無かったら、今の自分は無かったと思う。
◆問題障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
25歳、人生どん底の中で結婚した。楽しいはずの新婚生活もままならなかった。
毎日働くことしか頭に無いにも関わらず給料も遅配するような状況があった。
もう廃業しようかと家族会議で相談したこともあった。
それからの5年間は手探り状態だった。
私が幼い頃は父が事業で成功し、黒塗りの社用車は運転手付き、家にはお手伝いさんが入るほど裕福だった。
父は、日本で始めてソフトクリームの機械を輸入した人だ。
ところが、大掛かりな冷蔵装置建設に携わっていたとき詐欺にあった。
その建設したものを、引渡し前に勝手に第三者が所有権登記をしてしまったのだ。
とある衆院議員が外国人と結託して悪事を働いたとみられるが、法的に登記されている人が権利を有するのでどうにもならなかった。
そのため、父は当時のお金で約3億円の借金を背負うことになった。
同時に経営していた冷凍機器の会社は倒産した。
更にその後、脳腫瘍になり何度も手術を繰り返した。父は死と背中合わせだった。
このころ実母が私たち兄弟を残して家を出て行った。
それから暫くは実質的に、私たち兄弟は父と同居していた祖父母に面倒をみて貰うこととなった。
その頃新たに始めた父の仕事は学校施設専門の雨漏りの修理。
手形取引は絶対しないという想いからであった。
当時は防水技術などあまり無かった時代だ。
雨漏りを止めることが出来たら仕事をくれるという人がいたため、父は自己流ながら自転車のパンクをふさぐ要領で雨漏りを止めた。
父は物凄いアイデアマンであったが、マネージメントをいうことを知らなかった人だ。
私にとっては今でも反面教師となっている。
そして私が11歳の頃、父は再婚した。
継母は子育てをしたことが無い人で、がさつでもあったため、どうしていいのかわからなかったのであろう。
御弁当は一つの弁当箱に白いご飯、もう一つの弁当箱に鮭が1切れ、鮭の入った弁当箱を上下にふるとカランコロンと音がする。
中学生の多感な時期である、食べる前に毎回この音を聞く度にがっかりした。
或いは前日の夕飯で残ったおかずだけのときも少なくなかった。
今思えば、或いは卵焼きやウインナーより栄養価も値段も高い鮭を入れてくれたのだと解釈もできるが、戦時中ではないのであるから、到底愛情を感じることが出来なかった。当時は本当に辛く悲しかった。
反面、実母は、皆にみられると逆の意味で恥かしいような、ハート型の模様が入った手の込んだ御弁当を作る人であったため、ギャップが大きかった。
参観会では着物で来て評判にもなった。自慢の母だった。
今も鮮明に記憶に残っている。
しかし、ぐれずに大学まで卒業できたのもやりくり上手で父の経営を助けてきた継母のお陰だと、その部分では感謝している。金銭的には細かく節約家であった。
現在少なからず資産が残せたのも当時の継母の力があったからこそと感じている。
大学を卒業して就職しようと思った矢先に又、父が倒れた。
希望していた地元の公務員採用試験にも落ちた。
父のいない会社は母と2人の職人さんだけだったので、一緒に父の仕事を手伝うしかなかった。大学時代アルバイトではずっと実家で現場作業をしてきた。
仕事の内容は熟知していた。大学を卒業してまでするようなこととは思えなかった。
中には嫌いでやりたくない仕事もあった。
道路上のマンホールを開けてタラップを7段ほど下がると肩幅程度しかない狭い下水管が接続されている。
その下水管の繋ぎ目からの漏水を止めるという仕事もあった。
水が流れてくるかも知れない恐怖と戦い、身動きもままならず息苦しくなるような真っ暗く狭い空間で必死になって水漏れを止めた。
今考えてもパニックにならないほうが不思議なくらいだった。
もの凄く地下深いところでの水漏れ修復作業、地底は生暖かくてかび臭く、暗い。
朝明るいうちにトンネルに入って夕方暗くなってから地上に出るような作業。
時間の感覚も麻痺した。
この頃、初めて地上の空気が甘くておいしいということを知った。
高所、地上20メートル(ビルの7階相当)の一人乗りゴンドラ作業。
ワイヤー一本と命綱で体を支えてはいるが、下を見ると人が豆粒のように見えて身がすくんだ。
いま考えても危険な命掛けのいろいろな作業も、当時は自分が先頭に立ってやるしかなかった。
大学の同級生は、地上でアカデミックな技術系サラリーマンをしている。
いったい自分は何なのだろう。
自分は決して優秀な成績ではなかったが、同等の同級生をみても二部上場企業への就職は可能だった。
自分というものを見失いそうになった。
しかも、会社には仲間と呼べる人はいない。
アルバイトさんは日給でしかものを考えられない人ばかりだったので、プラスワンの仕事は出来ない。
例えばだが、地下深くから上がってくる時、ついでに何か持ってくるという発想はない。
自分は持ちきれないほど荷物を持っているのにも関わらず、地下から上がってくるアルバイトさんの両手が、空の姿を見るたびにがっかりしたものだ。
結局、最後まで一人で重い荷物も責任も背負ってきた。
25歳になる頃、「このままではいけない」と強く思うようになった。
そして、自分の息のかかった人間が社員として欲しい!自分のアイデンティティを肩書きで示したいと思った。
他人に認められたい一心だった。
その頃から、資格を取り出した。今では13種の資格を持つ、資格マニアに近い。
大学は理工学部の土木工学科だったため、当時していた仕事とは直接的に関係無かったが、最終的に一級建築士の資格も目指し35歳の時取得した。
私は、一級建築士には珍しい叩き上げだ。職人さんが取得する技能検定試験もいくつかパスした。
だからこそ出来ることもある。
又、資格が増えると出来ることも増えるため、仕事も自然と増えていった。
そこまで来るには物凄く辛かったが、どんな時も逃げようと思ったことは無い。
いわゆる途中でケツを割るようなことは一度たりともしたことは無かった。
予科練上がりでスパルタ教育だった、父のお陰もあるかも知れない。
しかし、屋台骨であり社長である父がゆらゆらし始め、厳しい家庭の状況から「自分がしっかりしなきゃ」という責任感がいつしか生まれたのだと思う。
又、家族の存在も大きい。
継母のいじめを受けながら、両親の世話や家計のやり繰り子育て等、主婦として徹してくれた妻には本当に感謝している。
◆夢は?
仲間とともに成長し、よりよい職場作りができること!
社員の人が少しずつ増えている。
ここで働けて良かったと思ってもらえる企業にする。
地域でナンバーワンの総合リフォーム企業となる。
お客様に信頼され、社会に貢献できる企業にする。
世間に必要とされる企業と成る。
有難い事に、現在は右腕としてのナンバー2もいる。ゆくゆくは後を継いでくれると言う他社で修行中の息子もいる。
一人がむしゃらに孤独に働いていた30歳前後は本当に仲間が欲しかった。
今、忠誠心をもって私について来てくれている人たちに何かを返したい。
そういう想いの表現の一つとして、社員さんの誕生日会は我が家のリビングでしている。
そのためにテーブルは長く広い。
人間関係が大切だと考えているからだ。
住宅リフォーム会社 株式会社建装
http://www.kensou-s.com
外壁・屋根塗装はネット塗装店「株式会社建装」
http://www.epaint.jp/sizuoka/kensou/
200年住宅 株式会社ケンテック
http://www.kentech-s.com
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