長野オリンピックのシンボルマークデザイナー
株式会社イデアクレント
代表取締役
篠塚 正典氏
2011/1/18 13:30
◆業種
グラフィックデザイナー
◆子供のころになりたかったものは?
科学者
と、小学生の時の文集に書いてあった。
幼稚園の頃から、ものをつくることや絵を書くことが大好きだった。
科学者は、発明家のイメージで、そう書いたのだろう。
子供の頃は、デザイナーという職業があることがわからなかったからだと思われる。
ウルトラマンなどのテレビを見た後は、必ずその日に登場した怪獣を描いた。
絵を書くことは毎日の日課のようになっていた。
絵を書くことで生計を立てるということは、目指すというより自然で、まるで決まっているかのように強く思っていた。
両親は、本気にはしてくれなかったが、自由にさせてくれたお陰で今がある。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
夢の復習
起きた瞬間、夢を回想する。
枕元にメモを置いているが、特に書き留めることはない。
毎日みる訳ではないが、「あー良い映画をみたなぁ」と思えるような夢を良くみる。
更に、夢からデザインのアイデアをもらったことも1、2度ある。
夢には興味があり、夢事典も持っている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
咽原先生(多摩美術大学時代、ゼミの先生)
米国アートセンターの卒業生で、アメリカ留学を進めて下さった方だ。
お陰で、アメリカに留学して、日本を外から客観的に観る事が出来た。
この先生に出会わず、留学をしていなかったら今の自分はない。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
「創造力は知識より重要である。」
Imagination is more important than knowledge
アルバート・アインシュタインの言葉
クリエイティブな仕事をしているからか、創造力が一番だと思っている。
この言葉に出会った時、コレだ!と思った。
更に、アインシュタイン博士が言っているところが良い。
この言葉は、自分でデザインし、ポスターにして会社に掲げてある。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
24歳、日本の美術大学を卒業後、アメリカへ留学した時。
語学力不足のため、最初はサンフランシスコにある語学学校に入学した。
世界各国からデザイナー志望が集まる名門、米国カルフォルニアにある美術大学(アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン)に入学するためにTOEFLが規定値に足りていなかったのだ。
1年間通ったが、昼間部に入学するための550点には数十点足りなかった。
昼は語学学校に通いながら、アートセンターの夜間部に入学した。
この生活を1年間続けた後、やっとの思いでアートセンター昼間部に入学出来た。
苦労して入学した甲斐あって、3年2ヶ月後、首席で卒業できた。
この時は、日本人のプライドをかけて本当にがんばった。
ところが、当時のアメリカは物凄く不景気な時代で、アートセンターを首席で卒業しても、希望の就職先である、世界最大のデザイン会社・ランドーアソシエイツには入社できなかった。
しかも、卒業後に入社した会社も不景気のため、半年で解雇された。
アメリカでは珍しいことではないが、その時のボスのセリフに唖然とした。
「We decided let you go」
「Decided」は、決めたという意味。
あっけなく、その日の午後には荷物をまとめて退社した。
しかし、そのお陰といっては何だが、かねてから入社したかった「ランドーアソシエイツ」に入社することができた。
ランドーアソシエイツは常時200人程のデザイナーがいるが、ポジションに空きがないとどんなに優秀な人でも入社できない。
解雇を言い渡された時、丁度ポジションに空きがあり入社できたのだ。
4回目のトライだった。
入社してからも、常に自分のデザイン力を磨いた。
大概、一つの案件に対して10人のチームが作られ、各自がクライアントや上司の前でプレゼンをする。
そして、その数あるデザイン案の中から最終的には1つのデザインが採用される。
2番目に素晴しいデザインをしても何にもならない、世に自分のデザインが出る事は無いので。
デザイナーは華やかそうに見えるが、実力主義で自分以外は皆ライバル、非常に厳しい世界だ。
コカコーラ、デルモンテ、トロピカーナ、マクドナルドなどのパッケージデザインを手がけた。
2年後、ランドーアソシエイツ東京支社に転勤希望を出して帰国。
アメリカに留学した時から、日本を拠点にしたいと考えていたからだ。
帰国1年後の1993年、1998年長野冬季オリンピックのシンボルマークのデザインを勝ちとった。
世界中の100人余のデザイナーから1000点以上のデザインが東京に集まりその中から選ばれた。
この歴史に残る作品ができたことは、自分にとって何事にも代えられない一生の「誇り」と「名誉」になっている。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
問題を乗り越えたのは「努力」
コツコツと、一つ一つの小さな成功を積み重ねて結果が出る。
10万人に1人ぐらいは天才と呼ばれる人もいるが、デザイナーは才能が30%、努力が70%だと思っている。
又、デザインはひらめきだと思っている人が多いかも知れないが、どのデザインも徹底的にリサーチをし、必然性のあるコンセプトの上にデザインされている。
ありとあらゆることを調べてからコンセプトを決めデザインする。
一つのものを仕上るにはしっかりとした必然性があってこそ、ビジネスと似ている。
例えば、長野冬季オリンピックのシンボルマークをデザインした時は、長野の文化、歴史、気候から村々に伝わる民話、神話までも調べた。
この時採用されたシンボルマークのコンセプトは、「雪の結晶」、「人の輪」と「花」。
一見は雪の上に咲く花のように見えて、その花びら一枚、一枚に冬のオリンピックの競技選手をデザインし、それが人の輪にもなっている。
花びらが6枚あるのは雪の結晶の6角形を象徴している。
更に色にもこだわった、五輪の中から黒を除いた4色に加え、日本を象徴する紫と長野県の県色であるオレンジを使った。
常に、必然性のあるコンセプトを持ってデザインしている。
また、デザイナーというとラフなスタイルで仕事をする人が多いが、私は常にスーツにネクタイと決めている。
ビジネスと捕らえる姿勢として、クライアントがスーツなのだから自分もきちんとした格好で応対するのが良いと考えている。
◆夢は?
夏季オリンピックのデザインをする。
冬季と夏季、両方をデザインしたデザイナーはまだいない。
更に言うと、2回オリンピックのデザインしたデザイナーはいないのだ。
だから、夏、冬両方のオリンピックマークを制するのが私の夢です。
又、日本とアメリカにはデザイン教育に差がある。
元々教育に関心があったため、美術大学の講師や専門学校で教えることを引き受けた。
私は「デザイナー」という職業が大好きだ。
だから若い人にもこの「デザイナー」という楽しい職業を伝えていきたい。
これからもデザイナー教育を続けていくと思う。
夢とは違うが、いつか、スイス・ローザンヌにあるオリンピック
博物館に自分のデザインした金メダルを見に行きたい。
【教職歴】
清華大学美術学院(中国、北京) 講師 2000~
東京家政大学 講師 1996~
東京コミュニケーションアート専門学校 講師 1995~
大阪ビスタデジタルインスティテュート 副校長 1997~1999
株式会社イデアクレント
http://www.ideacrent.co.jp/index.html
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