砂漠もオアシスに生み変えるマルチなリアド王



がんこフード株式会社

取締役副社長

新村猛氏

 2011.1.7


新村猛

 

 

◆業種

外食産業/大学院教員

◆子供のころになりたかったものは?

学者

祖父は、終戦まで理化学研究所で応用科学を専門とする学者だった。


祖父は幼稚園の頃から色々な話しを聞かせてくれた。

印象に残っている話しの一つとして、昔の液晶は液体すべてを人工で作れなかったので、イカの肝臓から抽出したコレステロールを安息香酸でエステル化して使用していた。

 

祖父は、子供に判りやすく説明するために液晶テレビを「イカテレビ」と言っていた。

 

このような話しを小さい頃から聞いていたので『サイエンスは楽しい!』と思ったのだ。

 

いつしか祖父のような学者になりたいと思った。


◆毎日欠かさずしていることはありますか?

1、水を1日に2リットル飲む。

30歳を過ぎると、身体の保水力が低下し、老廃物を体内から流せなくなり、成人病の元にもなる。


良い仕事をするにはいい精神状態を保つことが重要。

 

身体の調子が悪ければ、精神状態も良くは保てない。

 

ゆえに、体調管理に留意している。

 

水を飲むだけでなく、食前の計量、食事のバランス、運動なども継続している。


2、英会話を聞く/英字新聞を読む。


ビジネスでは必要ではないが、研究者として英語は必要(論文執筆、国際会議など)。

 

また、自らの活動範囲を広げる意味でもコミュニケーションツールとしての英語は重要、日常的に英語を使うわけではないので、可能な限り(歩いている時や入浴中)英語で考えるようにしている。

 

また、語彙力を維持するために、ひたすら英語の辞典、CDに触れるようにしている。



◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

1)変えた人物と言っていいのか分からないが、身内。

母が小学生の時に突然いなくなった。

 

その影響は大きい。

 

後に諸々の事情により、18歳の頃に追い出されるように家を出、風呂無し、台所無し、トイレ無しのアパートに身一つで移った。

 

当時バブルの絶頂で周囲は豊かに暮らしていた。

 

なぜ自分はこんな状況に置かれているのかと嘆きたかったが、状況を嘆いても仕方なく、自分自身で将来を切り開くしかなかった。

 

生きていくための費用は自分で稼ぐしかない。

 

バイトをして稼ぎ,学ぶための資金を捻出するため、1日キャベツ1個で過ごした日もあった。

 

その状況下、当時自分は、"くじ運が悪いのだ"と思っていた。

 

しかしあるとき、"状況を嘆いても意味がない。

 

置かれた状況を活かし、自分を成長させるように頑張った方がいい!

 

嘆きは結局"甘えだ"と思った。

 

逆境だったからこそ、今の自分を確立出来た。



2)白洲次郎氏の生き方

様々な評価がある人だが、人としての筋の通った生き方に影響を受けた。

 

自らは表舞台に出る事なく、戦後日本の復興と独立回復に貢献した人だった。

 

自分の地位に連綿とすることなく、自らがなしえなければならない仕事が終わると潔く身を引くその姿勢に感銘を受けた。

 

また、たとえ占領軍の最高司令官であるマッカーサーや時の総理である吉田茂であっても臆することなく直言する様は、仕事人として目指すべき姿であると思う。




◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

【知行合一】
王陽明の「知って行わないのは未だ知らない事と同じである」という、実践重視の教え。



◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

)大学を卒業して就職をしたとき

学生時代に、大学院に進学して研究者になろうと決めていた。

 

当時学んでいた専門分野は企業法務であり、法学では比較的新しい学問領域だった。

 

ちょうどその時、アルバイト先の会社で上場するという話が出ていた。

 

当時の指導教員と話をしたところ、"単に学者になるのではなく、実務経験を持った学者の方が、今後の社会的要請に応えられるのではないか。

 

特に上場実務はタイミングが重要。

 

したくてもできる経験ではない"といわれ、一旦社会に出てから再度研究者の道に戻ろうと考え、就職した。

 

ところが、入社した時期にはバブル経済は終焉を迎えており、上場する話はなくなってしまった。

「大学院に戻る」と会社を辞めようと思ったが、結局辞めなかった。

 

何故なら、辞め方があると思った。

 

"やりたい事がなくなったから、会社を辞める"?それは、客観的に見れば何事もなしえずに組織をスピンオフするいわば"退学"だ。

 

正面から堂々と出て行く辞め方は「あいつは、この会社でやりきった。惜しいやつが辞めた。」と言われる業績を残すべきだろうと思った。

 

半年間死ぬ気で仕事をして、何かひとつ業績を残せたら辞めようと決めた。

当時、新入社員の教育をしていた。

 

教育業務を突き詰めていくと、"新入社員教育だけでは駄目だ、教育システム全体を変えるべきだ"という結論に到った。

 

教育システムの再設計の仕事に取り組むと、また壁にぶつかった、"人のキャリア、報酬を含む人事制度全体の設計を変えなければならない"?人事制度設計をするとまた限界にたどり着く。

 

"組織の設計をしなければ、会社を変えることはできない"

 

そのように直談判して組織デザインの担当をした。

 

しかし、また壁につきあたる"結局、経営とは理念と戦略だ"


半年で辞めるつもりが、気が付けば10年たっていた。

 

なぜ辞めて研究者の道に戻らなかったのだろう?1つは創業者、未だ力のない自分でも、あらゆる仕事にチャレンジをさせてくれた。

 

もう1つは視点の転換。

 

駆け出しの頃は"ビジネスか、研究者か"という2者択一論に拘泥していたが、"ビジネスも、研究も"実践できるように自らの力量、能力の幅を広げていくことの方が最終的に自分の可能性と能力を広げてくれるのではないかと考えた。

このことを通じて何を学んだのか?

 

1つは主体性。

 

よく人は、会社が悪い組織が悪い、上司が悪いと言って周りや環境のせいにする。

 

しかし、その言葉は同時に"その環境自体を革新する力が自分にはない"と露呈していることになる。

 

自らの力を蓄え、人が共感する理念を持ち、そのことを口だけではなく実践に移す。

 

そのことによって運命を拓くことができる。

 

2つ目は"天職"の概念。

 

人は一般的に"自分に合う仕事、自分に合う会社"があり、その理想を求めて天職を繰り返していく。

 

そして、その会社にめぐりあえなかったときに"自分は運がない"と嘆いて人生をあきらめる。

 

しかし、天職はそんなものではない。

 

天職は"自分で作り出すもの"である。

 

自分の人生に懸命になり、"今、ここ"の瞬間・瞬間に真剣に生きていれば、自分の仕事が我が物になり、板についていく。

 

そのプロセスを経て"天職"を獲得していくのである。



2
)30歳のとき

そして30歳になった時に、人生や仕事を自分のものにしようと思えば、目標と期限をしっかり設計しなければならないということに気づいた。

 

人間は生きていると同時に、1秒ずつ""に近づいている自分に残された時間を自覚し、それまでに何をなしえるのかと言うデザインがなければいけない。

 

目標があるから計画があり、目指すレベルが明確だから努力の密度が決まる。

 

そう考え、30歳の時に40歳までのカレンダーを作った。

 

目標のレベルは、今の自分では絶対に不可能な事。

 

今の延長線上で可能なものは目標ではない。

 

これはある人が言っていた言葉だが、「やれば出来るとは嘘で、出来るまでやる。それを諦めた瞬間に失敗なんだ。」と話された。

 

まさにその通りだと思う。

その時に、目標を明確に定めた。

 

仕事か、研究かではなく、"仕事も,研究も成果を出す"というものである。

 

ビジネスとしては30代で経営者に、研究者としては中間地点の35歳でMBA、40歳でPh,Dを取り、大学で教鞭をとろうと決めた。

 

この決断も人生の転機だった。

 

目標を定めてからはがむしゃらに働いた。

 

1日14時間、365日無休で5年間働いた。

 

人が一生かけて到達しようと言う目標を2つ掲げた。

 

どちらもいい結果を残さないと、どっちつかずの中途半端になってしまう。

 

人の2倍頭が良い訳ではないのだから稼働時間を2倍にしよう、そう考えた。

 

朝7時から夜9時が仕事、帰宅後1時間は体力作りの運動、その後2時間PHDを目指し勉強をした。

 

32歳で役員になってからは平日は朝から仕事をし、夜6時半から10時まで大学院、また会社に戻り夜中の1時頃まで仕事をした。

35歳でMBAを取得した。

 

その時に書いた論文がきっかけで、独立行政法人 産業技術総合研究所に入り、博士を取るための研究を始めた。

 

研究テーマはサービス工学、21世紀になって注目されている学問分野だ。

 

このときにはっと気が付いた。

 

仕事、研究をパラレルに考えていたが、問題意識が高まってくるとそれらは渾然一体となる。

 

仕事に徹する、限界を感じる,新たな技術や知識を習得する、現場に生かす、このサイクルには仕事も、研究もない。

 

よりよい価値を世の中に創出するための1つのPDCAサイクルが回っているに過ぎない。

 

産総研では沢山の論文を書いているそれはアカデミックな業績のためだけではない、世の中のサービス業をよりよきものにする。

 

その使命感が筆を取らせると思う。

 

2011年からは筑波大学の博士課程に入るとともに、出身大学院で教鞭を取る。

 

何とか目標とする40歳にたどり着けそうだ。

 

40歳を目の前にして、自分が本当に願ったスタートラインにやっと立てた気がする。


◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

"
楽をして乗り越えた"

この言葉は解説しないと誤解が生ずると思う。

 

ここでいう""とは"手を抜く""逃げる"といった意味ではない。

 

原理原則に基づいて行動すると言う意味である。

 

なぜ原理原則を貫くと楽になるのか?例えばスポーツで、正しい理論に従った動作には無駄がない上に、無駄な力を必要としない。

 

仕事も同じ。

 

最も本質的な解決法が、自分にとって最も負荷かからない最良の方法である。

 

しかし、人間の"逃げたい""楽をしたい""隠したい"という気持ちが邪魔をする。

 

これらの有脇に負け、本質から外れた解決法を取ってしまうと、結果としてトラブルは大きくなり、問題は解決しない。

 

例えば商品に問題があるとした時、リコールすれば良いと分かっている。

 

だが目先だけ見て、自分の地位が危なくなると思ってしまう。

 

隠れたい、その状況が辛い。

 

だから逃げる。

 

その結果、隠したり、嘘をつくような事になる。

 

製品欠陥が起きたらリコールする。

 

逃げずに向き合う。

 

問題が起きたら、真正面から向き合って解決する。

 

だから一番楽なのが「正面突破!」だと思う。

 

殆どの人は、正面突破が一番辛いと思っている。

 

一瞬、楽に思える道を進んでしまうと、実は大変な目に遭う。

 

その時に一番辛くきつい、敵わない道と解決法を選択する。

 

実はその選択肢が最も正しく、本質に近い解である。


「楽は苦の道、苦は楽な道」


◆夢は?

・家内安全(楽しい家庭)

後は決めていない。

 

夢を決めたら、夢の範囲でしか行動しない。

 

いまの自分にできる最善を積み重ねることで、自分の運命が開けていくであろう。

 

そして、本質的な生き方にたどり着けば人は死なない。

 

仮に肉体は朽ちても、自らの生き方から何らかのエッセンスを学んだ人が脈々と考え方を伝えていく。

 

DNAとは値ではなく、哲学の継承である。

がんこフードサービス株式会社
http://www.gankofood.co.jp/


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コメント: 1
  • #1

    岸 悦男 (月曜日, 13 11月 2017 17:53)

    11月12日大阪市計量検査所主催の「はかるシンポジウム」にて、先生の「外食産業におけるサービス工学の導入」講演を聞き、感銘を受けました。私は九州大学 都甲先生が開発し、㈱インテリジェントセンサーテクノロジー(インセント)が製品化した「味認識装置」の販売を担当しております。講演の最後の方でお話された「うまみのデータベースを作る」提案に惹かれ、お手伝いできることはないかと思いました。もしよければ、インセント池崎社長同行にてお伺いさせていただきたく思います。入江株式会社大阪支店 シニアスタッフ 岸 悦男 Mail:kishi@irie.co.jp TEL:06-6352-6673  〒530-0043 大阪市北区天満2-14-14 食生活アドバイザー、中級食品表示診断士