「やってみなわからん!!やったことしかのこらん!!」王!



UBI株式会社 

取締役会長 

木村勝男氏

 

2009/12/8


木村勝男

 

 

◆業種

 

 中小企業経営支援

 

 

◆子供のころになりたかったものは?  

14歳で父を亡くし、17歳で大阪に上京した時は3つあった。

1、タクシー運転手

当時、土方の仕事をしていたので雨が降ると仕事が出来なくなる。

タクシーの運転手なら雨が降っても仕事が出来ると思ったから。

少しでも多く、島根の母や妹弟たちに仕送りをしたかったのだ。


2、長距離トラックの運転手

大型トラックは部屋広くて、そこで寝ることが出来ると考えたから。


3、バーテンダー

黒服に蝶ネクタイで、シェーカーを振る姿がカッコよく見えたから。


しかし、本当に小さい頃は瓦屋根の家に住むことが夢だった。

他にも、四角柱・引き戸・天井・ガラス窓などに憧れていた。

今の人が想像も出来ないような家に住んでいたのだ。

柱は丸太、戸は引き上げてつっかえ棒をしないと開いていられない、天井は屋根裏部屋のように三角のままで天井は無かった。

ガラス窓などに至っては夢のまた夢だ。

そんなことだから、友達を家に呼んだことは一度も無い。



◆毎日欠かさずしていることはありますか?

1、座禅
2、般若心経の写経
3、本を読む
4、英会話

毎朝4時に起床して座禅をし、写経をしてトイレで1時間程本を読む。

妻と二人暮らしだが、朝のトイレタイムは承知の上、阿吽の呼吸で上手く行っている。

会社にも自宅にも座禅室を設けていて、ココまでは土日も関係なく毎日している。

6:30に出社した後、メールを一通りチェックして英会話のレッスンを1時間する。

5年前、58歳の時にABCからネイティブアメリカの先生に教えてもらっている。

他にも、山登りなど毎日していることはたくさんある。

大阪に住んでいるので六甲山には970回上った。

目標は1000回だ。あと30回で目標達成出来る。

山には神が宿るという、山登りをしていると歩行禅のようだ。

比叡山のアジャリと一緒に歩行禅で一日開法をしたことがあるが、山道を歩いているはずなのにアジャリは「スーッ」と宙を浮いているかのように進む。

鞍馬天狗は、アジャリさんの事だったのではないかと思っている。



◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?

 師匠と思える人は3人いる。

1、日本創造教育研究所社長
田舞徳太郎氏

バブル崩壊で経営がどん底に陥ったとき、友人の紹介で田舞氏の研修を受けた。

そこで、人を育てることの大切さを教えて頂いた。

家族を食べさせることに必死でやってきたそれまでの経営は、お金を追いかける経営だった。

経営はお金にフォーカスしているだけでは、いつか生きづまる。

そのことに気づかせてくれた経営の師匠である。


2、嶋野榮道(しまのえいどう)老師

 ある研修で、出会い友人に紹介された。

老師は50年前にケンサク棒と5ドルだけ持って単身ニューヨークに渡り座禅を広げた人だ。

作家の五木寛之氏と共に仏教界で表彰されたこともある。

2年前と今年、私もニューヨークで年に1回ある、8泊9日の座禅に参加した。

朝4時から23時まで、食事とトイレ休憩を除いて座禅する。

座禅をしていて「ここは腹をきたえるとこや!」と「ピーン」と来た。

腹を鍛えることは、経営の勉強になる。

「腹をくくる。腹を決める。」などという。

腹とは胎とも書く、どうも女性の方が、腹が座っているように思う。

男性は理屈でものを考える人が多い。

それに引き換え、学校や研修は頭を鍛えるところ、現代は頭ばかり鍛えている人が多いのではないだろうか。


4、松下幸之助氏

 会社経営を通して、理念を深めていくごとに松下氏の偉大さがわかった。

理念を深めて行くと必ず出会う人である。

理念は会社の柱となり、経営の真髄だ。

ここに気付く前は、松下電器産業株式会社よりももっと大きな企業はたくさんあるのに、なぜ松下氏が「経営の神様」と呼ばれているのかわからなかった。

ところが知れば知るほど、松下氏は正に「経営の神様」だと思うようになった。



◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?

 「やってみなわからん!やったことしかのこらん!」

17歳のときから自分の生き方として実践してきた言葉だ。

人生はしたことしか残らない。

最初は知らず知らずの内だったが、腹で経営をしたから言えることでもある。



◆人生の転機はいつどんなことでしたか?

 2つある。

1、お金にフォーカスした時代

14歳、父が亡くなった時。

「食えなかった。」

父が亡くなってから、妹二人、弟二人と母をどうしたら養えるか?そればかりずっと考えていた。

10歳の頃から、父の遺言で「家族を頼むで。」と言われていた。

両親は韓国人で儒教の思想が強く、長男の役割として「家族を養う」という責任を植え付けられていた。

14歳の頃は、自分が家族を養うのは「当たり前」のことになっていた。

17歳で大阪に上京し飯場で土木作業員をしながら家族を支えた。

特に、雨の日でも24時間仕事が出来、弁当の差し入れと仮眠が取れる溶鉱炉の現場を進んで選んだ。

マグマのように何千度で液状に煮えたぎる鉄を、棒で30分程かき混ぜる仕事だ。

熱風と高温の中で、水と塩をなめながらの作業だった。

それでも、幼い頃、小児麻痺にかかって右手に力が全然入らないため、重たいハンマーを振り下ろさなければならない掘削工事の現場よりラクだった。

更に、仲間は休みとなると酒場やパチンコ等に出かけたが、私は飯場の中で過ごした。

一円でも多く家族に仕送りしたかったからだ。

そんな毎日でも、この環境を当たり前のこととして捕らえているので弱音を吐くことも、「なぜ、自分だけがこんなに大変な思いをしなければならないのか」等は考えたことも無かった。

只ひたすら家族を食べさせようと必死で働いた。

状況はまるで修行のようだったが、その環境が自然に腹を鍛えることになっていたのだ。

その中にはチャンスもたくさんあった。

そして一年後18歳の時、家族を大阪に呼び寄せ狭いながら一緒に暮らし始めた。

暫くすると、母の発案と妹の協力で飯場を始めることになった。

そこから会社はどんどん大きくなっていく、土建業からガス屋、不動産業へと幅を広げ事業も拡大していった。

しかし、お金を追いかけているうちバブル崩壊、今までの事業がペシャンコになった。


2、人にフォーカスした時代

バブル崩壊で何もかも失って学んだことは、「お金だけじゃダメだ、人が育たなければ会社は存続出来ない」ということだった。

人を信頼すると決めたら、後は任せる。

腹をくくり、「あーだ、こーだ」言わない。

人は、そうされることによって思った以上のことをやってくれるのだ。

しかし、常に最悪の状態を考えて責任を取る覚悟でいる。

「取らぬ狸の皮算用」(大辞泉によると=まだ捕まえてもいない狸の皮を売ることを考えること。手に入るかどうかわからないものを当てにして計画を立てることのたとえ。)は一切ない。



◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?

 問題は色々とあったが、感謝することで乗り越えて来た。

ドラマのような人生を与えられたと思っている。

主役を演じさせてもらって満足している。

数年前、有名な俳優さんを使って私のノンフィクション映画を作ろうという話が持ち上がったが、妻が反対した。

私も、派手にするとあんまり自由が利かなくなるので、「知る人ぞ知る」という存在で良いと思っている。



◆夢は?

75歳の時、英語で講演したい!


UBI株式会社
http://www.ub-i.co.jp/



BS経営の木村勝男公式ブログ「やってみなわからん!!やったことしかのこらん!!
http://www.kimurakatsuo.com/


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