山口経営研究所
所長
山口衞氏
2009/9/18
◆業種
経営コンサルタント、税理士
◆子供の頃になりたかったものは?
医者、弁護士
小学生の頃からどちらかというと理屈っぽく、物事を理論的に考える少年だった。
そのため幼いながら、何かの専門家になろうと考えていた。
そうは言っても、本格的に勉強を始めたのは高校生になってからで、中学生の頃はソロバンが好きで大会に出場したこともあるが、小学生の頃は野球のことで頭が一杯だった。
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
昭和47年から毎日3時から4時の間に起き、1時間ほどウォーキングをしている。
「感謝のウォーキング」と名づけて、歩きながら色々な感謝をする。
これを、続けられることにも感謝している。
早起きは三文の徳という言葉があるが、三文どころではないと思っている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
1、母親
「母のいきざま」を見て育ったことで、刺激になり、「自分がしっかりしなければ!」という自覚を持つことが出来た。
母は、400年続く福井のそめもの屋の娘として、お嬢様のように育った。
呉服屋だった父の家に嫁いで来たのだが、私が5歳の時に父が亡くなり、26歳で未亡人となった。
その後、空襲で全財産を失った。
母は、慣れない仕事をして自分と弟、父の両親を養ってくれた。
初めは魚の行商をしていたが、商売人としての才覚があったのだろう。
又、母と父の家業を再生したいという思いもあったため、呉服商を始めた。
魚の行商をしながら私たちを食べさせ、更に呉服を仕入れるための資本を作った。
並大抵のことではなかっただろうと思われる。
しかし、呉服販売は、温泉町の女将さんや女中さんたちをターゲットにすることで成功した。
そのおかげで私は、大学に入学し仕送りまでしてもらうことが出来た。
母は、93歳の今も健在だ。
物凄く感謝している。
2、人生観を変えるきっかけを作ってくれた、会計事務所所長。
税理士免許を取得後、独立までの間会計事務所で一年と少し修行した。
入社して間もなく、所長に両親のことを聞かれたとき「母には感謝しています。しかし父は5歳の時に亡くなっているので何も感じません。」と答えた。
そのとたん「君は親不孝だな!」と言われた。
その時は、何を言われているのか分からなかったが、その言葉が胸のどこかに引っかかった。
暫く自分で考えたが分からない。
そんなとき所長に「勉強会があるから行ってみたらいい」と紹介された。
その所長は社団法人倫理研究所の会員で、インストラクターの資格をもっている人だったのだ。
それから、一駅隣で朝5時から行われている勉強会に、毎日参加するようになった。
早起き、挨拶、命の元に繋がる親や先祖を大事にすることを学んだ。
そして、母だけでなく父がいてこそ自分があることを教えられた。
しかし、頭では分かっても暫くは実感が湧かなかった。
半年たったある日、幼い娘の寝顔を見て「とってもかわいいなぁ」と愛おしく思った時、同時に父の気持ちが分かった。
というより、父の気持ちを実感できた。
そして「お詫びの実践」ということを教えてもらった。
実践内容は自分で決めるのだが、今まで感謝を忘れて申し訳ないという気持ちを何かの形で表すのだ。
私の場合は一日10回、心の中で「お父さん、忘れていてごめんなさい」と言うことを決めた。
まずは一日三回の食事の前後に唱えることにした。
後の4回をどこかに入れなければならない。
それを忘れず実践するには中々苦労した。
父は家族思いでやさしい人だったという。
こんなに可愛い盛りの子供を残して逝くなんて、どれ程辛かっただろうか。
父の気持ちを体感し、心から深く感謝することが出来た。
更にその半年後、妻の気持ちも分かるようになった。
好きで結婚したのだが、短気な性格も手伝ってよくケンカをした。
若かったこともあるが、一生懸命作ってくれた料理に「食事は内容よりスピードだ。もっと早く作れ。」などと憎まれ口をたたいたこともある。
今思えば、そんなことを言われたら面白くないだろうと分かるが、当時は思いやることが出来なかった。
しかし、「お詫びの実践」をするうち分かってきたのだ。
更にはお客様の気持ち、友達の気持ちが分かるようになった。
このように、倫理との出会いが人生観をかえてくれた。
そのお陰で、人や物事のマイナス面が気にかかる人間だったのが、プラス思考に変わった。
3、小林正観著書全般
「宇宙を貫く幸せの法則」「宇宙を味方にする方程式」
「ありがとうございます」と、感謝の気持ちを言葉にすると良いことは衆知のことだと思うが、感謝の気持ちがなくても「ありがとうございます」と言っていれば良いと教えてくれた著者だ。
実際、言っているうちに感謝の気持ちが自然と芽生えてきた経験がある。
◆自分の人生を変えたきっかけになった言葉は?
1、「ベストを尽くす」
結果はともあれベストを尽くす!
2、「一日一生」
一日を一生と考え、明日は無いと思ってベストを尽くす!
3、「一生勉強」
知っていることは、ほんの一部。
でまだまだ知らないことがたくさんある。
本もたくさん読んで、色々な勉強会にも参加したい。
「一生勉強」と自分に言い聞かせている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
25歳で初めて会社の決算書をみたとき。
自分は弁護士を志して京都大学法学部に入学したが、法律に余り興味が持てず、又英語が好きだったので伊藤忠商事に就職し商社マンとなった。
元々、数学が好きで、計算することが得意だったし、本を読むことも、人と話すことも好きだったため、商社マンも悪くないと思ったからだ。
25歳の時、関連会社である沖縄パイナップル工場の責任者を命ぜられ、初めて決算書をみた。
そのとき、「決算書というものはとても面白ものだなぁ」と思った。
それと同時に自分が本当にやりたいことに気づいた。
そして、その専門家になるために勉強を始めたのだ。
本当にやりたいことを見つけたら、目のハンデも「大事なのは頭で、目は入り口に過ぎない」と気づいた。
ある程度、本を読んで理解したら、頭を使うことにした。
暗算や、キャッシュフローを頭の中でイメージするのだ。
そうやって勉学に仕事に励んだ。
27歳で本部に呼び戻されたとき、債権管理の審査部を希望した。
その部署は、各取引先の与信管理などをする部署であったため、企業の業績内容を計算と数字で表すことが仕事だからだ。
そこで仕事をしながら税理士の資格を取得し、現在の土台を築いた。
◆問題、障害或いは試練は?どうやって乗り越えたのですか?
高校2年生の3学期、突然目が痛くなった。
受験勉強の集大成に向かう矢先のことであった。
目が痛くては勉強も進まない。
潜伏性外斜位という病気で、目が非常に疲れやすいのだ。
これには心身共に苦しんだ。
しかし、自分で工夫して難を乗り切った。
左右交互に眼帯と付けて、目を片眼ずつ使い長時間の勉強に耐えた。
更に、ラッキーな事が起きた。
私は、理科は苦手だった。
物理を、旺文社の「傾向と対策」という本で勉強したところ、試験当日殆ど同じ問題が出題された。
お陰様で、希望校に合格することが出来た。
又、目のハンデを負っても精神が崩れなかったのは、元来の負けず嫌いな性格と、母の生きざまを見て育ったことによると思う。
◆夢は?
1、自分の仕事のこと
お客様の会社が繁栄し成長する。
社員がハッピー状態にする。
2、倫理研究所のお手伝い
「倫理経営インストラクター」の資格を正式に取得した。
私は、倫理研究所で明朗、愛和、喜仂を学び、この学びに救われたので、人々に実践するためのアドバイスをしていきたい。
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