株式会社キャリアコンサルティング
代表取締役
室舘 勲氏
2009/5/25
◆業種
総合人材プロデュース業
◆子供のころになりたかったものは?
小学生の頃=大工さん
高校生の頃は、プロスノーボーダー・プロのビリヤード選手
当時は、大会で優勝を重ねていた!
◆毎日欠かさずしていることはありますか?
ストレッチ(縄文ストレッチ)
健康のために始めたが、趣味の武道(居合い)やゴルフにも役立っている。
時間があればジャージに着替え、近所でジョギングや皇居の周りを歩いている。
◆自分の支えになった、或いは変えた人物・本は?
たくさんいるが、強いて言えば前職の上司・三ッ廣部長。
(現在、株式会社エコプラン社長)
会員権のフルコミュションの営業職で入社したが、営業成績は最下位で部長に日々罵倒されていた。
お前には才能がない!
口が裂けるまで(トークの練習を)やれ!
お前なんか青森に帰れ!
などなど、毎日物凄く怒られた。
そんな反面「近くに来たら家に遊びに来いよ!」などとも言ってくれた。
毎日怒られ、営業成績も上がらない自分が、友達と二人突然ジャージ姿で「ピンポン!」と、遊びに行ったことがある。
今思えば、良く行ったなぁと不思議に思う。
部長は、常にトップクラスで「天才」と呼ばれている人だった。
しかし、部長の枕元を見るとたくさんのビジネス書が置かれてあった。
そのとき、どんな天才も必ず努力しているのだ。
自分も努力さえすれば、やり続ければ、必ずトップクラスになれる!チャンスと思えた。
スノーボードやビリヤードのプロを目指していた経験があったからこそ、そう思えたのかも知れないが、営業はスポーツと違って才能は関係ないと思った。
やり続ければできる!
しかし、そうは言ってもフルコミである。
給料は、一ヶ月目54,000円、二ヶ月目27,000円、三ヶ月目81,000円・・・・・・上がったかと思えば下がる。
0円の月もあった。
こんな生活が1年2ヶ月続いた。1年3ヶ月目。
突然トップクラスになった。
営業トップになるチャンスに気付かせてくれた三ッ廣部長に、本当に感謝している。
そこから1年間、トップクラスを維持することができた。
自分には、スポーツでの優勝経験がある!
一度勝利を経験しているから、やり続ければできると自信が持てたのかもしれない。
又、青森県特有の粘り強さのおかげもあったと思う。
両親も厳しく育ててくれた。
小学生から家の手伝いをさせられ、遊びに行くこともあまりできなかったが愛情いっぱいだった。
勉強には厳しくは無かったが、人としてのしつけに厳しかったのだ。
だからこそ愛を感じたのかも知れない。両親にも本当に感謝してる。
トップクラスを維持し始めて生活が変わった。収入は7、8倍に跳ね上がり、車を持ち、家もオシャレになった。
20歳そこそこでだ。ところが1年後、会社の体制が変わり経営悪化、給料が遅配になるようになった。
最初の1年半は無給の月もあった。
自分はすぐさま住まいを、家賃23,000のアパートに変えた。
独り身で身軽だったこともあるが、この素早さと判断力に部長を始め上司たちもさすがに驚いた。
これは長期戦になるな!と直感したのだ。
結局3年程、遅配は続いた。
しかし、辞めようとも思わなかった。
自分の担当している会員様のためにもがんばろう!と思ったし、これも直感であるが、なぜか辞めない方が良いと思ったのだ。
又、30歳過ぎに社長になる!と自分の中で決めていたというより、決まっていたのでストーリー作りには最適だと思えた。
社長になれば、自叙伝など出版することになるだろう。
そうなったときに、平凡ではつまらない。
何か物語がないと!と思っていた。
まさに今がその時!心底、明るい貧乏を楽しんだ。
たまに牛丼を食べる(外食)ことを、贅沢として喜び。
更に卵を入れる日は、極上の贅沢として楽しんだ。
ストレスがたまることのないよう工夫したのだ。
そして3年後、会社の経営が立ち直った。
資本投資がされ、オーナーも社長も変わり、商材も会員権からビジネス教材に変わった。
このときには、240名程いた社員も17名になっていた。
課長から部長へ、部長から常務取締役へと、順調に昇進した。
更に、17名残った同僚の友人関係から最愛の伴侶も見つかった。
直感を信じ、貫いて良かったのである。そして、その事業の一部で完全に独立し、現在に至っている。
◆自分の好きな言葉は?
感謝
人は「偉大なものほど感謝しない」と思う。お母さんには感謝するが、お父さんは忘れられることが多い。
お父さんがどれだけ偉大か!ということになる。
偉大なものほど大きすぎて、目に入らないのかも知れない。
あるとき靖国神社は、戦争で日本のためにがんばった方々の「みたま」が祭られていることを知った。
それならば感謝せねば!
そう思った年からお参りを重ね、今では社員から70名ほど参加して、毎年同日同時刻にお参りしている。
◆人生の転機はいつどんなことでしたか?
平成元年6月25日。
前職の会社の勉強会に参加したとき。
友人に誘われての参加だったが、何より刺激をうけたのが参加メンバーだった。
自分と同年代の人々なのに全く違う。
一流企業のサラリーマンや、慶応や早稲田の学生たちで、キリッとしている。
それまではスーパーで働いていたので、身の回りには存在しない人物ばかり!物凄い衝撃だった。
自分も、キリッとした人間になる!と決意した日である。
◆問題障害、或は試練は?どうやって乗り越えたのですか?
不健康
創業当初は、昼も夜も無く働き続けた。
月に20日ぐらい、会社に寝泊りしたこともある。
そうしているうち自分は丈夫なほうだったが、社員たちが次々倒れていった。
このままでは会社が駄目になる。
そんなとき、あるパーティーで縄文ストレッチの倉富和子氏に出会った。
その出会いがきっかけで縄文ストレッチを試すこと1年。
あれほど頑固だった肩こりが、一切無くなった。
社員の一人をフィンランドまで修行に行かせ、縄文ストレッチインストラクター、トップヒーラーの資格を取らせた。
今では週に10時間、幹部のヒ-リングを中心にするヒーラーとして働いてもらっている。
もちろん幹部だけでなく、健康診断で良くない結果が出た社員も同様にしている。
100人で1年間、健康診断のデータをとっているが、95%が現状維持か良くなっている。
又、弊社の自動販売機はブラックコーヒーと、水とお茶のみである。
甘い缶コーヒーやファーストフード、コンビニのお弁当は極力避けている。
暖かい食べ物中心にして、体を冷やさない。
睡眠時間6時間!きちんと寝て集中する。
一説によると、社長が肩凝りの会社は社員も肩凝り、社長が糖尿病の会社は、社員も糖尿病が多いのだそう。
縄文ストレッチと、富永和子氏との出会いに感謝している。
後で聞いた話だが、パーティーで大勢の方と名刺交換をしたが連絡が来たのは自分だけだったとの事。
あの時連絡していなかったら、この出会いは無いのだ。
この出会いで、不健康を乗り越えることが出来た。
出会いにも感謝である。
◆夢は?
国護り
世界の手本となる国、日本。
その為には、良い文化は伝え、悪くなったところは治す。
国の未来は若者の質で決まる。
公を考え、やさしい若者をつくる。
実力者が要職に就き、誠実に働けば国はすぐに良くなる。
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